魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
64 / 126

黄昏奇譚

しおりを挟む
               四



 浅草弾左衛門は待乳山聖天社境内の石段に腰を降ろし、ぼんやりと、今朝の辻切りに思いを巡らせた。
 吾妻橋で斬られた男は弘前十万石津軽家の者である。死体検分にきた者は
「当藩の中津兵庫」
と口にしていた。羽織には津軽家の紋が染め抜いてあった。
(津軽藩といえば……)
 穢多からの情報網は東北にも張り巡らされている。たしか、数ヵ月ほど前に
「世直し一揆」
が津軽で起きていた筈だ。軽輩武士が百姓を扇動して、藩の転覆を企てたのだと、巷では囁かれたと記憶している。
(確か一揆は失敗し、首謀の者は一族に至るまで処刑された。ああ、そういえば、首謀者の妻だけが、未だ見つかっていない)
 浅草弾左衛門は、ふと
(もしや……)
 遣手婆ぁはあの労咳女を高崎で拾った。
 もし、一揆首謀者の妻がその女としたら。さぞや津軽藩を憎んでいるに違いない。百姓一揆に加担した者の身内だから、武士そのものを憎むことも考えられるし、それは大袈裟な話ではない。
(月のない夜に武士が死ぬ、佐治助の話はそういうことだった)
 確信はない。
 が、浅草弾左衛門はなんとなく、あの女は津軽から来たのではと、思った。ただの思いつきだ。辻切りと、女の、因果関係はない。
 淫売で稼いだ金で殺し屋を雇おうにも、雀の涙だ。いくら津軽家に復讐したくとも、無理な話である。
 浅草弾左衛門は頭を振った。もっと深い、何かがある。そして、辻切りと女が
(何かしら関わりを持っている)
 直感が、そう囁いていた。
 日暮れの少し前に、浅草弾左衛門は山谷堀の新町役宅へ戻った。草履を脱いでいるところへ、助六が慌てて駆け付けてきた。
「魔斬りの依頼です」
「依頼?」
「つい今し方に。今戸の料亭にて、待っておりますが」
「何者だい?」
「へえ、津軽藩の江戸家老とか」
 浅草弾左衛門の眉が、ぴくりと動いた。
「会おう」
 浅草弾左衛門はゆっくりと歩き出した。
 今戸橋の著名な料亭・玉庄。江戸の絵会にも描かれる高級な場だ。大名の依頼はここで取り次ぐのが、浅草弾左衛門の作法である。津軽藩江戸家老は、慇懃な物腰で浅草弾左衛門に対峙した。相手の依頼をよくよく聞いたうえで
「ところで」
と、浅草弾左衛門は津軽藩世直し一揆の顛末を訊ねた。これが依頼を左右すると脅したところ
「へえ、へえ、お話しましょう」
 額に脂汗を浮かべて、江戸家老は世直し一揆の顛末を明かした。そのうえで、国内で起きた不可思議な事件も、ゆっくりと語り始めた。
 津軽にて一揆首謀者を処刑した直後、月のない夜に勘定方蔵前役・福島作左衛門が辻切りにより殺された。それを皮切りに、福島作左衛門の一族とそれに寄る者たちも、次々と斬り殺されていった。
「実は、ゆうべ吾妻橋脇で殺された中津兵庫は、福島作左衛門の甥なんです」
 彼は闇夜の辻切りを恐れて、江戸藩邸詰が許されたばかりだった。
「国元では一揆首謀者・古内彦弥太の怨霊ではないかと。我々も、まさか江戸でこんなことが起きようとは。当藩は呪われている、御助けを」
 そういって津軽藩江戸家老は千両箱を浅草弾左衛門に差し出した。魔斬りにしては、法外な額である。早急のうちに、秘密裏に、怨霊を始末して欲しいのだろう。
「この一揆のことは、根が深そうだな」
 深いため息を吐き、浅草弾左衛門はこの依頼を請けた。

 佐治助が淫売宿に姿をみせたのは、その日の夕暮前であった。
 浅草弾左衛門の叱りを無視し、遣手婆ぁは闇烏の身の振りを処置していない。しかも、今宵の佐治助の懐が温かいと知ると、何もいわずに闇烏のところへ案内した。
 佐治助は闇烏の隣に腰を降ろして
「二度も顔を出すなんて、とんだ変り者と思うじゃろ」
と笑った。
 相変わらず何の反応もない闇烏ではあったが、佐治助は構わずに、昨夜あった出来事や忠告通り闇夜に出歩かなかったことなどを一方的に喋り続けた。
 すると闇烏は無表情なまま床に横たわり
「するの、しないの?」
と呟いた。佐治助はたじろいだが、躊躇しながらも恐々と乳房に手を伸ばした。闇烏は喘ぎ声ひとつ上げようともせず、天井を見上げてされるままになっていた。
 その様に興醒めした佐治助は、手を休めて、ごろりと横に転がった。
「こんな処に流れてくるからには、余程の理由があったのだろう?儂でよかったら、聞かせてくれないか」
 闇烏は小さく溜息を洩らしながら
「聞いてどうするのさ」
「え?」
「あんたが、悲しみを分かち合ってくれるとでもいうのかい」
 佐治助は困惑した。
 人が落ちぶれる理由は、重く暗いものであることを、佐治助は十分弁えていた。それを軽々しく人に話せる筈などないという事も。それを聞かせてくれなどと、思い上がった云い様だ。
 その戸惑いを見透かしたかのように、女は煙草盆を手繰り寄せ、煙管に一服つけて大きく吹かしてながら
「私の名前は〔やす〕」
 面倒臭そうな口調で、闇烏は呟いた。
 吐き出す煙が、みるみると室内に広がる。
「かつては津軽藩小納役だった古内彦弥太という軽輩武士が、わたしの夫」
「へえ」
「役目柄から汚職に塗れる勘定方を訴え出るべく、百姓に一揆を勧めたんだ」
 佐治助は黙ったままだ。
 女は、言葉を続けた。
「一揆は失敗、夫は処刑。一族も連座。私だけが命からがら逃げた。武士の世を呪い、こうして、しぶとく生きているのです」
「それじゃ……」
 陰気な室内の、空気が、どことなく重い。
 女は話をやめなかった。
「呪い続けるうちに、わたしには不思議な力が備わったんだ。憎いと念じるだけで、何処の誰かが、わたしに代わって、そいつを殺してくれるんだよ」
 すると昨夜の辻切りは
「あんたが念じたから?」
「そうさ」
「そんな馬鹿な……」
「しかし現に津軽の侍は死んだだろう?」
「しかし、そんなに都合のいいことなんて……」
「信じられないなら、信じなければいいさ」
「……」
「ここまで堕ちた私にとって、その誰かは神か仏さ。この世から汚らわしい武士をすべて滅ぼしてくれる。それが、悪いことなのかい」
「いや……しかし」
 何やら悪しきものを感じながらも、それを否定することが佐治助には出来なかった。言葉にすることさえ憚られた。
 沈黙する佐治助を、闇烏は笑みを浮かべ乍ら
「あなたはわたしの話を聞いた。この悲しみに耳を傾けた。それをどう分かち合ってくれるというの?」
と迫った。
 言葉に窮する佐治助を、闇烏は嘲ら笑うように
「冗談だよ」
「冗談?」
「あんたが武家でも何でもなく、少しだけわたしに気を掛けてくれたから喋った……ただ、それだけさ」
 それきり、闇烏は黙り込んで、二度と口を開こうとはしなかった。佐治助はこの日も、何ひとつするでなく、淫売宿を辞した。行く先は、山谷掘だった。浅草弾左衛門は佐治助から、闇烏の身の上と怨念を知った。その言葉と、津軽藩江戸家老の依頼を重ね合わせて、浅草弾左衛門は一連の真相を確信した。
 ただ
(……月のない夜の辻切りが何者か)
 それだけが大きな謎となって残された。
 それにしても
(あの婆ぁめ)
 よくもおれを無視しやがったと、浅草弾左衛門は怒りを顕にした。
「お頭」
「……ん?」
「明日もあの女のところへ行って宜しいですか」
 浅草弾左衛門はただ一言
「やめておけ」
と、低く呟いた。
「お頭?」
「もう、行くな」
「それは……」
「深入りすれば、地獄になるぞ」
「しかし!」
 余りのしつこさに、浅草弾左衛門は激昂した。その一喝に、佐治助は委縮した。
 闇烏は労咳だと、このとき、浅草弾左衛門は口にしていなかった。
しおりを挟む

処理中です...