魔斬

夢酔藤山

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黄昏奇譚

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               二



 ぬたやの店内には客がふたり、それも山田浅右衛門と助六なのだから
「客というよりは身内だねえ」
 佐治助は苦笑いを浮かべて、今日仕入れてきたばかりの鰈の煮付けを鉢に盛った。
「ジミじゃあるめえな」
 じろりと、山田浅右衛門は見上げた。
「馬鹿言っちゃあいけねえ。大川河口の本家本元江戸前ですぜ」
 もう一品、浅蜊と大根の煮物が出た。
 底冷えするこんな夜は、煮物がいい。それに熱い燗酒を湯呑みで頂戴すれば、これはもう、云うことがない。
「へへへ……堪らねぇな」
 山田浅右衛門は手酌で徳利を傾け乍ら、熱々の大根を箸で切り分けて頬張った。練馬の大根だろうかと、助六も呟いた。そんなことにはお構いなしに、山田浅右衛門はたちまち浅蜊と大根を平らげて
「もう一杯、おくれ」
と催促した。
「本当に旦那は堪え性がない。じきに次の肴を出そうと思うていたのに」
「へえ、なんだい?」
「鴨肉の網焼きでさ」
「ああ、これは楽しみだ。だけど、もう一杯おくれよ」
 山田浅右衛門の催促に、佐治助は苦笑しながら大根を盛り付けて差し出した。
「そうだ、旦那。酔っ払っちまう前に」
 助六は懐から包みを出した。
 それを受け取った山田浅右衛門は懐へ包みごと捻込んだ。
「今度の魔斬りは旗本相手だから、浅草のお頭も遠慮なく吹っ掛けたようだねえ。あんな仕事で、こんなに貰っちゃあ、俺でも良心が痛むぜ」
「だからこうして、あっしが御零れを頂戴してまさ。お頭もそうしろって」
「本当か?」
「さあ」
「だからって、助。お前ぇも、遠慮ってもんを知らねえなぁ」
 平然とパクつく助六の頭を軽く小突きながら、山田浅右衛門も茶碗酒を傾けた。
 そのうちに、御免よと、客が入ってきた。大名家の家人だろうか、着流しで浪人風を装っても、物腰や言葉尻には宮仕えの気風が漂っていて不自然極まりない。
「おお、鰈か」
 まるで初めてのような口振りに、聞耳立てている山田浅右衛門は唖然とした。
 この者、さぞや格式のある大名の家人なのだろう。家柄がよければよい程、体面を保つために財政を切り詰めねばならない。特に食事の倹約は目を覆うものと聞く。ぬたや程の店が贅沢だとしたら、実に侘しいことではないか。
 鴨肉を目の前にして
「こんな贅沢を……」
と、武士は泪すら浮かべていた。
 武士は黙々と呑み食し、やがて、満足したように店を出ていった。
 山田浅右衛門と助六は、その間、無言だった。ちょっとした気遣いだ。
 この夜、佐治助は早々に暖簾を下げた。
(それにしても)
 闇烏の言葉が、ふと脳裏を過った。
 今宵は月のない夜だ。
「……まさかな」
 遊女の戯言よと、佐治助は頭を振った。
 翌朝、表の騒々しさに、つい居眠りをしていた佐治助は目覚ました。七つ半のことである。表には山田浅右衛門がいた。
「起きたか?」
「何事で」
「わからん」
 蛇骨長屋から少し歩くと浅草広小路、その彼方に見える吾妻橋の袂に、何やら同心岡引きが群がっていて、その傍らには粋狂な野次馬が群がっていた。その群れのなかに、見覚えのある男がいた。
「あれは、浅草のお頭だな」
 山田浅右衛門は佐治助を促した。慌ただしく駆け寄り
「お頭、何事ですかい」
「早ぇな、旦那。どうも辻切りらしいぜ」
 仏の顔を覗き込んで
「あっ……こいつは!」
 昨夜、ぬたやで呑んでいた、あの武家である。
 やがて、何処ぞの大名検分役が駆けつけて
「間違いござらぬ、当藩の中津兵庫である」
と身元の確認をしていった。
 佐治助はふと、昨日の聖天町の遊女のことを思い出した。まさか本当に武士が死のうとは。俄に薄気味悪くなった佐治助は
「お頭、ちょっといいですかい。そうだ、旦那も聞いてくだせえ」
「おいおい、俺はそろそろ仕置に」
「いいから、いいから!」
と、ぬたやへ引っ張り込んだ。そして、昨日のことを洗い浚い話した。
 月のない夜に武士が死ぬという話は、余りにも填まり過ぎて、どうにも洒落にもならない話であった。その遊女の言葉が真実か、それとも戯言か。たぶん偶然だろうが、気になる話ではあった。
「それにしても、涼しい顔して、お前ぇさんもやることはやるんだねえ」
「お頭……勘弁して下せえ」
 とても笑える状況ではないと、佐治助は口を尖らせた。
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