魔斬

夢酔藤山

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深川奇譚

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               一


 万延元年(1860)という年は、些か気象条件が風変わりであった。
 三月三日、〈桜田門外の変〉が起きたとき、吹雪く程の大雪であったと伝えられる。この三月は当然旧暦だから、現在の暦で四月の半ばに相当する。
 九月十五日も、まるで初夏を思わせるような陽気であった。
 この日、山田浅右衛門は妻・於貞を連れて
「舟遊び」
と洒落込んでいた。
「ああ、おまいさん。引いているよ」
 普段は寡黙な於貞も、こうした行楽ともなれば、さすがに童女の如く屈託ない。山田浅右衛門は慌てて竿を上げるが、既に餌を盗られたあとである。
「徳蔵よう、もっと食い気の温和しい沙魚がいる処へ、連れてってくれよ」
「旦那が下手なんでさ。御覧なせえ、奥方様なんぞ、もう桶一杯釣っちまいましたぜ」
 船頭は深川で廻船問屋を営む桑名屋徳蔵という。浅草弾左衛門とも親交のある人物で、山田浅右衛門はその紹介で知り合い、以来、年に一度は夫婦の舟遊びに付合う関係であった。また、廻船問屋の合間を縫って、深川の魚介類を食べさせてくれる小料理屋も営んでいた。こちらの付合いの方が、どちらかといえば深いというのが真相ではある。
 結局、山田浅右衛門はすっかり坊主で、於貞の釣果を小料理桑名屋で苦く噛み締めることとなった。
 山田浅右衛門は忌々しげに、目の前の沙魚の刺身を喰らいついた。天麩羅や甘露煮など沙魚尽くしが並べられると、やがて機嫌も直り
「美味ぇな、うん、美味い」
などと独り言を呟きながら、次々と箸を伸ばしていった。
「この時期の沙魚は脂が乗っていて、ほんに堪えられませんな」
 徳蔵の言葉に応える暇もなく、山田浅右衛門は、箸を休ませることなく喰らい続けた。
 その間、於貞は一言も口を効かない。先ほどとは、まるで別人のようである。
(面白い奥方様よ)
 徳蔵は世間の忌む首斬り稼業夫婦の、実に爽快な生き様を、惚れ惚れと、目を細めてみつめていた。
 そのときである。
 数名の武士が店に入ってくるなり
「おい、廻船屋。急いで荷を運んでくれ」
と、不躾に凄んできた。羽織の紋から察するに、外国奉行鳥居越前守忠善の家中だろう。 
「すみません。今日は店閉まいです」
「お上の御用である。その方の都合など預かり知らぬこと。早々に出航の支度をするがよい」
 更に武士たちは凄んだ。
 せっかくの気分が台無しだ。しかし、お上の御用とあらば文句もいえぬ。山田浅右衛門は於貞を促した。
「徳蔵、世話になった」
 三両、そこに置いて、ふたりは足早に店を出た。
 永代橋まで出れば駕籠屋がいる。そこまでは黙々と、山田浅右衛門と於貞は歩いた。
「なあ」
 山田浅右衛門の呼掛けに、於貞は返事しない。
 構わず山田浅右衛門は
「二本差というだけで、何でああも威張りくさるんだろうな、武家って」
 寡黙な於貞は、やはり何も答えなかった。
 それが答えだと、山田浅右衛門は知っていた。
「あなたも二本差ですよ」
 そう云われたようで、山田浅右衛門は渋い顔をしていた。

 当節は心中が多い。江戸を取り締まる奉行所や岡引きなどは、この対応に多忙を極めた。九月の暮れ、この日も柳橋の袂で心中があった。この野次馬の群れの中に山田浅右衛門と浅草弾左衛門も肩を並べていた。
「御旗本と町人とは、奇妙な組合せでござんすねえ」
とその哀れな様を浅草弾左衛門は傍観していた。
「ところで旦那はお気付きと思いますが……妙なことでしょう?最近やたらと相対死が増えたことを」
「ああ、しかも野郎は、みんな二本差ばかりだ」
「そのことなんですがね」
 浅草弾左衛門は、更に声を顰めて
「心中屋なんて商い、あるそうですよ」
「心中屋?」
「金を貰って依頼された相手を相対死に見せかけて殺す。そんな裏稼業があるそうで」
「綺麗事だけど、所詮は殺し屋、だな」
「ひょっとしたら、あの仏さん。心中屋の仕業じゃねえかって、ふと、思っちまったんですよ」
 馬鹿馬鹿しいと、山田浅右衛門は吐き捨てた。
 そんな商売があっても、いまの山田浅右衛門には関係ない。もし関わりを持つとしたら、殺された者の怨霊が世に害を為し、魔斬の仕事になったときくらいだ。
 ふと、山田浅右衛門は、人混みに見覚えのある男をみつけた。
(徳蔵に廻船を命じた二本差……!)
 身形は浪人を装っているが、陰湿そうな眦は、紛れもなくあの男である。
「どうかしなすったかい、旦那」
「……いや、別に」
 山田浅右衛門の態度に、浅草弾左衛門は首を傾げた。

 夕刻、山田浅右衛門が平河町の屋敷に戻ると、寡黙な使用人たちが夕食の支度に追われていた。桶のなかの魚を覗き込むなり
「鱸かい」
「桑名屋さんが持参下されました」
「へえ、落ち鱸たぁ、御馳走だぜ」
 ぴちゃりと音を立てて舌舐めずりし、山田浅右衛門は、ようやく於貞が迎えに出ていないことに気付いた。聞けばぶらりと出掛けて、もう一刻も戻ってこないという。
「奇しいではないか、あの出無精が家に居らぬのは?」
「或いは、粟田殿の長屋では」
 使用人の言葉に、山田浅右衛門は頷いた。
 寡黙で人付き合いの下手な於貞が、近頃しきりに
「あれが友人ていうんですかねえ。ウマの合う御方が出来たんですよ」
 と、口にする。
 どこの誰だと尋ねると
「平河天神の裏にある長屋に住まう、粟田とかいう御浪人の奥方様で、おきくさんっていうんですよ」
という。平河天神なら近所だ。きっと、そこへ居座っているのだろう。
「それにしても、夕食の頃合まで厄介するとは、些か非常識極まるのう。どれ、邪魔してみるか」
 平河天神は同じ町内にある。
 その裏手の長屋とは、恐らく道を挟んだ平河二丁目の貧乏長屋のことだろう。少々着崩しした格好で、ぶらりぶらりと、山田浅右衛門は歩き始めた。造作もない道程である。屋敷を左に折れて、最初の路地を左に曲がれば、あとは真っすぐ進むだけだ。
 粟田という浪人の居所はすぐに判った。
 が、そこは人集りだった。
「おい、どうしたんでえ」
 傍らの職人に聞くと、柳橋の端で妻が旗本と心中し、それを知った浪人粟田が腹を斬って自害しているのだという。覗き込むと、俯せに果てている浪人者の傍らで、さめざめと泣いている於貞が映った。
「於貞!」
 呼んでも動こうとしない於貞を、山田浅右衛門は引っ張り出した。
 屋敷に戻っても於貞は放心したままで、随分経ってから、ようやく正気を取り戻した。
「おきくさんは……不義密通で相対死するような御方では」
 何度も、何度も、於貞は呟いた。
 ごろりと横になっていた山田浅右衛門は、ぼんやりと天井を眺めながら
(心中屋の仕業だ)
 声にならない呟きを洩らした。

 柳橋の心中者の身元は、老中脇坂中務大輔安宅の家臣であった。この一件は脇坂中務大輔安宅の政治生命を縮めた。のちに彼は幕閣の地位から外され辞任に追い込まれることとなる。
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