魔斬

夢酔藤山

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孕女奇譚

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               十一


 後日、山田浅右衛門は浅草弾左衛門に招かれ、料亭〔八百膳〕の奥座敷へ赴いた。
「今回は予想外にも、旦那に魔斬までさせちまったからな」
などと嘯いて、浅草弾左衛門は北町奉行から貰った包みの三割をそっと差し出した。
「てやんでえ、初手からそのつもりのくせしやがって」
 笑いながら、山田浅右衛門も包みを懐へ捻り込んだ。
 この料亭〔八百膳〕は、江戸庶民の贅沢の極みである。なけなしの身銭でここの仕出弁当を食べることが、散財しがちな江戸っ子の、一種の見栄だった。その奥座敷での酒宴ともなれば、これは大商人でもなければ許されない贅沢である。
 それにしても、仕事料を渡すだけなら、こんな席は過分である。
「お頭よ」
「ん?」
「おれがことを、気にしているのか?」
「まあ……な」
 於菊の仕置から暫らくの間、山田浅右衛門は気鬱だった。蛇骨長屋の〔ぬたや〕でも、荒れた酒を呑んだ。いい気分のしない結末だった。このことが浅草弾左衛門の耳に入ったとしても不思議ではない。
 しかし
「これがおれの商売だからよ」
と、山田浅右衛門はにっこりと笑った。
 首を斬り、死体の肝で薬を作り、そして闇夜の下では魔斬をする。それが七代目山田浅右衛門の務めなのだ。
「いつものように首を斬るまでさ」
 浅草弾左衛門はその心の内を知ってか知らずか
「そうか」
と答えて、話題を逸らすかのように
「せっかくの飯だ。冷めちゃあいけねえ。それ、やっておくんなせえ」
と徳利を差し出した。
「お頭、急いちゃあいけねえよ。おっとと……。ああ、旨え、旨い酒だねえ」
「おい、返杯してくれよ」
「おっといけねえ、一人で呑んじまうとこだったぜ」
 慌てて徳利を傾ける山田浅右衛門に、浅草弾左衛門は大声で笑った。笑いながらこう呟いた。
「旦那のことなんぞ心配していねえよ。これは鰻のお返しだ。そういうことにしときましょうよ」
「もう理屈はいらねえや。お頭、どんどんやろうぜ」
 暫らくは手酌で、二人は無言のまま、夢中で贅を極めた膳にしゃぶりついた。ややあって、山田浅右衛門は
「塩入土手の茶店は、どうなったのかな」
と、思い出したかのように呟いた。
 後日助六に調べさせたところ、例の老婆は
「既に店を畳んで、何処かへ」
と、浅草弾左衛門は答えた。真新しい白装束で西へ発っていく老婆がいたのを、千住辺りの穢多が目撃したというから
「たぶん、秩父の札所へでも向ったのだろう。婆さんにしてみれば、娘の冥福を祈らずにいられまいよ」
「切ないねえ」
 ふと、浅草弾左衛門は頭を上げた。
「どうしなすった」
「聞こえねえかい?」
「ん?」
「鈴虫だよ」
 耳をすますと、料亭〔八百膳〕の中庭から鈴虫の音色が響く。
「もう夏は、御仕舞えだな」
 これから季節は、一年でもっとも過ごしやすい秋を迎えようとしていた。
 この夏は実に慌ただしかった。
 そのことを、山田浅右衛門は、沁々と思い出していた。


                              《了》


次回「舶来奇譚」公開予定
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