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孕女奇譚
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六
夏の陽は強く、往来を急ぐ者たちの精を奪うようである。
上方から伝わった料理法で、これまでは決して美味とは呼ばれなかった鰻が
「精のつく」
という理由で持て囃され、いつしか鰻は労働者の間で
「夏場の滋養を得る糧」
であると人気を得るに至った。これが房中でも絶大の効果を生むなどと広まるに至り、夏場は江戸の多くの者が鰻を好んで食べた。
「なんですか、あの蛇みてえな様が、おいらは苦手でね」
車善七の配下で山田浅右衛門との繋ぎ役をしている助六は、実は鰻が嫌いである。食べるのは好きだが、生きている姿を見るのは
「勘弁願いたい」
というので、この日、山田浅右衛門は
「わざわざ」
舟で大川を遡り、浅草塩入土手の河原まで鰻を獲りに出向いたのだ。
勿論、助六も一緒に、である。
漁果はすこぶる良好で、売れるくらい鰻が取れたと、山田浅右衛門は満面の笑みを浮かべた。
「どうだい、ええ?」
篭のなかに蠢く鰻の群れに、助六は蒼い顔をしていた。
「おいおい、何が恐いものか。こいつを食べて精をつけて、そして女を抱く。これ以上の至極が、何処にあるよ」
「いやあ……おいらも食べるのと抱くのは、すこぶる賛成ですが」
「可愛いものだぜ」
「勘弁してくだせえよ」
泣き声の助六を相手に、山田浅右衛門は愉快そうに笑った。舟に乗っていざ帰ろうというとき、ふと山田浅右衛門は、土手のうえに茶店があるのに気がついた。
「暑いな、どうでぃ、ちくと一服していこうぜ」
舳先を河原に押し上げて、山田浅右衛門は助六の尻を叩きながら土手を登っていった。
茶店は随分と小さっぱりしていた。ここは街道からも外れているため、訪れる客も稀なのだろう。
「いらっしゃい」
奥から老婆が出てきて、山田浅右衛門の傍らに立った。
「酒、あるかい?」
つい聞いてみた。
「生憎うちは茶店でねえ」
「いや、冗談。お茶をくれ」
程なく茶が出てきた。酷暑だが風通しのよい土手である。熱い茶がむしろ心地よい。ただ茶を啜って、それが余り旨いものだから、気前よく
「婆さん、鰻好きか?」
と、大量に獲れた鰻のなかから大きめのものを二匹置いていった。
ふと、老婆の頭に目が止まった。
白髪の結髪に、何処かで見覚えのある簪が光っていた。見事な飾り簪である。
(はて?)
これと同じものを、何処かでみたような気がした。果たしてそれが、何処でなのか、山田浅右衛門はとんと思い出せなかった。
「御武家様ともあろう御方が、なんと御心のやさしい。でも二匹は過分です。せめて娘がいてくれたなら……」
「おや、娘さんがいたのかえ」
遠い目をして、ぽつりぽつりと、老婆は身の上を語り始めた。
「わたしは昔、商家に奉公してましてね。そこで若旦那の御手がついて、娘を産んだんですよ」
「……取り上げられなすったね」
「もう、奥方がおりましたから」
そして、飾り簪を手にして
「これと同じものを、娘に託しました。生きているなら齢二十四。これと同じ簪を持っている筈です」
老婆は沁々と、簪を撫でた。
「じゃあさ、江戸の何処かで逢ったなら、必ず婆さんに伝えてやるよ」
山田浅右衛門は笑って答えた。
「期待しないで待ってます」
簪を戻しながら、老婆も笑って答えた。
大量の鰻は浅草弾左衛門の屋敷でたちまち調理された。芳ばしい香りが屋敷一帯に立ち篭め、奉公人たちに塗飯が配られた。彼らは久しい御馳走よと、山田浅右衛門に感謝の言葉を繰り返した。
「おれよりも助六に云ってくれ。こいつが鰻嫌いと知ったからこそ、鰻を獲りに行ったんだからよう」
「せっかくですが、旦那。背開きされちまえばこちらのものですから」
と、俄然勢いを取り戻した助六は、たちまち三杯の鰻の塗飯を平らげてしまった。
「おいおい、眠れなくなっちまうぜ」
山田浅右衛門の戯言に、助六は
「もう、漲ってまさ」
と、股間を指して笑い飛ばした。
いい加減にしやがれと、車善七は助六を怒鳴り飛ばし、やれやれと呟きながら、浅草弾左衛門は苦笑した。
夏の陽は強く、往来を急ぐ者たちの精を奪うようである。
上方から伝わった料理法で、これまでは決して美味とは呼ばれなかった鰻が
「精のつく」
という理由で持て囃され、いつしか鰻は労働者の間で
「夏場の滋養を得る糧」
であると人気を得るに至った。これが房中でも絶大の効果を生むなどと広まるに至り、夏場は江戸の多くの者が鰻を好んで食べた。
「なんですか、あの蛇みてえな様が、おいらは苦手でね」
車善七の配下で山田浅右衛門との繋ぎ役をしている助六は、実は鰻が嫌いである。食べるのは好きだが、生きている姿を見るのは
「勘弁願いたい」
というので、この日、山田浅右衛門は
「わざわざ」
舟で大川を遡り、浅草塩入土手の河原まで鰻を獲りに出向いたのだ。
勿論、助六も一緒に、である。
漁果はすこぶる良好で、売れるくらい鰻が取れたと、山田浅右衛門は満面の笑みを浮かべた。
「どうだい、ええ?」
篭のなかに蠢く鰻の群れに、助六は蒼い顔をしていた。
「おいおい、何が恐いものか。こいつを食べて精をつけて、そして女を抱く。これ以上の至極が、何処にあるよ」
「いやあ……おいらも食べるのと抱くのは、すこぶる賛成ですが」
「可愛いものだぜ」
「勘弁してくだせえよ」
泣き声の助六を相手に、山田浅右衛門は愉快そうに笑った。舟に乗っていざ帰ろうというとき、ふと山田浅右衛門は、土手のうえに茶店があるのに気がついた。
「暑いな、どうでぃ、ちくと一服していこうぜ」
舳先を河原に押し上げて、山田浅右衛門は助六の尻を叩きながら土手を登っていった。
茶店は随分と小さっぱりしていた。ここは街道からも外れているため、訪れる客も稀なのだろう。
「いらっしゃい」
奥から老婆が出てきて、山田浅右衛門の傍らに立った。
「酒、あるかい?」
つい聞いてみた。
「生憎うちは茶店でねえ」
「いや、冗談。お茶をくれ」
程なく茶が出てきた。酷暑だが風通しのよい土手である。熱い茶がむしろ心地よい。ただ茶を啜って、それが余り旨いものだから、気前よく
「婆さん、鰻好きか?」
と、大量に獲れた鰻のなかから大きめのものを二匹置いていった。
ふと、老婆の頭に目が止まった。
白髪の結髪に、何処かで見覚えのある簪が光っていた。見事な飾り簪である。
(はて?)
これと同じものを、何処かでみたような気がした。果たしてそれが、何処でなのか、山田浅右衛門はとんと思い出せなかった。
「御武家様ともあろう御方が、なんと御心のやさしい。でも二匹は過分です。せめて娘がいてくれたなら……」
「おや、娘さんがいたのかえ」
遠い目をして、ぽつりぽつりと、老婆は身の上を語り始めた。
「わたしは昔、商家に奉公してましてね。そこで若旦那の御手がついて、娘を産んだんですよ」
「……取り上げられなすったね」
「もう、奥方がおりましたから」
そして、飾り簪を手にして
「これと同じものを、娘に託しました。生きているなら齢二十四。これと同じ簪を持っている筈です」
老婆は沁々と、簪を撫でた。
「じゃあさ、江戸の何処かで逢ったなら、必ず婆さんに伝えてやるよ」
山田浅右衛門は笑って答えた。
「期待しないで待ってます」
簪を戻しながら、老婆も笑って答えた。
大量の鰻は浅草弾左衛門の屋敷でたちまち調理された。芳ばしい香りが屋敷一帯に立ち篭め、奉公人たちに塗飯が配られた。彼らは久しい御馳走よと、山田浅右衛門に感謝の言葉を繰り返した。
「おれよりも助六に云ってくれ。こいつが鰻嫌いと知ったからこそ、鰻を獲りに行ったんだからよう」
「せっかくですが、旦那。背開きされちまえばこちらのものですから」
と、俄然勢いを取り戻した助六は、たちまち三杯の鰻の塗飯を平らげてしまった。
「おいおい、眠れなくなっちまうぜ」
山田浅右衛門の戯言に、助六は
「もう、漲ってまさ」
と、股間を指して笑い飛ばした。
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