魔斬

夢酔藤山

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孕女奇譚

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               三


「ははは……そいつは、とんだ場に出食わせちまいましたね」
 その夜、小伝馬町牢を辞した山田浅右衛門は、山谷堀囲内にある浅草弾左衛門屋敷を訪れていた。助六からまだ後金を貰っていなかったし、あの於菊という女がどうにも気になって仕方なかったのだ。
「なあ、お頭」
「ん?」
「おれはあの女の刺す場を見ていた。あの形相は男女の縺れで出来るもんじゃない。何かに憑かれていたとしか」
 山田浅右衛門の言葉に、浅草弾左衛門も興味深そうに身を乗り出した。
「憑かれていた……か」
「最近あの辺りに、変わった事なんぞ、なかったかい」
「……」
「あるんだな?」
 浅草弾左衛門は苦笑いを浮かべながら、五年前、心中騒動があったことを打ち明けた。
「もっとも片割れの男は生き残ってな、御定法に従い、三日三晩晒し物にしたのちに非人手下の沙汰が下された。儂がその男を引き受けたのだがな、於菊とやらに刺された男、そのときの男よ」
 その言葉に、山田浅右衛門は驚嘆した。
「男の名は捨三。非人手下になる前もなった後も、名うての女たらしだったぜ」
 ならば、そのときの女が、於菊に取り憑いて事件を起したと考えられる。
「まあ、そう短絡的に事が起きたとは考えられないな」
 浅草弾左衛門は笑いながら呟いた。


 当時の御定法によると、喧嘩口論による殺人は死罪とされている。於菊のそれも痴話喧嘩の縺れとして取り扱われ、いずれは死罪の沙汰とされようが、それ以前に懐妊していることが判明した以上は
「御定法に照らして、出産の後に沙汰を申し渡すよりないのう」
と北町奉行・石谷穆清は判断を下した。
 於菊の生命は法によって、それまで繋ぎ止められた。
が、御牢に入ってからの於菊は犯行当日の彼女とは別人のように神妙であった。入牢当日、彼女は手のつけられない興奮状態にあり、言動も荒っぽく
「まるで土手の於六の再来」
よと、女牢の牢名主を震え上がらせた程であった。ところが、夜が明けてみると、まるで憑物が落ちたように温和しくなったため、東の二間牢へ入れられた。
 この様子を石出帯刀は
「不思議な事」
と、石谷穆清に報告したという。
 石谷穆清は事の善悪は別として
「邪な何物の憑依が」
あったのではないかと、後日、小塚原刑場溜場に山田浅右衛門を訪れた。
 仕置を終えた山田浅右衛門の肩越しに、ちらと土壇場を覗き見た石谷穆清はたちまち蒼褪めた。首は血溜りの溝に転がり落ち、伝馬町の非人頭・長兵衛が胴を押えつけて体中の血を抜き出している最中であった。血溜りに流れ出る骸の血は、平均的に一升五合ともいわれる。
(武士が忌む仕事ゆえ、穢多どもに頼むのも理解できるわな。これほどまでに直接人の死が生々しく実感させられるのだからのう)
 顔面蒼白の石谷穆清をみて
「後ほど、奉行所で承ります」
 山田浅右衛門は促した。
 北町奉行所へ戻った山田浅右衛門は、香を薫き込んだ私服に着替えてから奉行の間へ赴いた。
「話は、件の於菊のことで?」
 山田浅右衛門の問いに、石谷穆清は無言で頷いた。
 御牢内での風聞は、山田浅右衛門の耳にも達している。確かにあの日の彼女からは、魔性を感じられたし、それだけにその後の神妙な様は興味深い。
「浅右衛門はこれをただの男女の縺れと思うておるか」
「とんでもない、御奉行の推察通りでさ」
「そうか……やはり、そうか」
 石谷穆清は何度も頷いた。
「して、山谷堀は何と?」
「浅草のお頭は、五年前の相対死に関係があるんじゃねえかと」
「五年前?」
 当時の奉行職は井戸対馬守覚弘だが、既に鬼籍にある以上、質すことも適わない。
「両国広小路吉川町に鋳物問屋がありやしてね。先の大地震で潰れちまったから名前までは覚えちゃおりませんが、そこの娘と、例の捨三って奴が、どうも乳繰りあう関係になっちまって……」
「浅右衛門、儂も嫌いではないがな、ここは奉行所の内ぞ。もそっと小綺麗な言葉を使うてくれ」
「これは……して、鋳物屋の親父は当然烈火の如く。二人はこれをきっかけに心中を」
「ふむ」
「場所は蛇骨長屋向いの誓願寺境内。ふたりして喉を切っちまいまして。ところが疵が浅かったのか、男の方だけが生き残った。三日三晩吾妻橋に晒されたのち、浅草のお頭が片割れを身請けをしたんです」
 温茶で喉を湿らせ、山田浅右衛門は言葉を続けた。
「暫らくの間はお頭の指図とおり働いていたんですがね、ある日、ぷいと姿を晦ましやがった。お頭の配下で品川を預かる非人頭・松右衛門が高輪でこいつを見つけたのは一ヵ月前。どうしてくれようかと考えている間に、かつての心中場所と目と鼻の先の蛇骨長屋前で刺されちまった」
「……因縁はあるな」
「だけど、その女の仕業かと考えるのも、ちと短絡的じゃないかと、お頭は」
 心中事件から五年も経過している。
もし女が恨みを含んでいるならば、とっくに何らかしらの事が起きているだろう。
「於菊は、その男と因果な関係が?」
「さあ、そこまでは……。それは奉行所の御役目でしょう?」
「まあ……な。とにかく、今度の事件は、何やらそなたの力が必要な気がしてならぬのだわ。それだけを云うておきたかったのよ」
「ええ、結構ですとも」
「そうか、そうであるか」
「ただし、お上の仕事の片棒を担ぐんだ。仕事料は弾んで貰いますがね」
 山田浅右衛門はにやりと笑った。

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