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谷中奇譚
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九
谷中天王寺門前町。
花吉はこの門前町の一角にある、煤けた小料理屋にいた。
まだ日暮れ直後とあって、店内には日雇い人足風の男たちがぽつりぽつりといるだけである。適当な窓越しの席を陣取ると、花吉は沙魚の煮付けと酒を注文した。
紀州の御山に戻れば、ろくな飯にも有付けない。
今のうちに旨いものをと思っていたのだが、生まれ育ちからだろうか、つい庶民的な江戸の味を求めてしまう。江戸の季節の味に舌鼓を打ちながら、つい昨日のような、江戸を飛び出してから過ぎ去った十年を、花吉は染々と振り返った。
山谷堀を飛び出したのち、花吉は人も己も傷つかない生業として、清潔な僧侶という道を志した。
しかし、仏門は身分の差が歴然としている世界である。
穢多生まれの花吉に、仏門は堅く閉ざされていた。唯一の功徳への道が、退魔専門の八咫聖だけだった。
(それから必死で修業をした。やることは魔斬と似ているが、汚れた金銭に縛られないことが救いだ。金銭の多少で分け隔てをする魔斬とは異なり、退魔は万民平等。そうでなければ、とても遣り切れぬ……!)
たちまち二合徳利を干して、あと一本注文すると、軒を列ねる家々の頭上に聳える、谷中の五重塔に視線を移した。
(沙魚と塔……谷中の光。その影で、浮かばれぬ女の亡霊が今宵も彷徨う。早く成仏させてやるのが、御仏に仕える者の務め)
花吉は徳利を傾け乍ら、ふと表の路地をみた。
何者かが足早に駆け抜けていった。
「……あ、岩さん」
駆け抜けたのは、今回江戸に来た面子のなかでも凄腕の業師と言われる、法阿弥・岩阿弥と呼ばれるふたりの八咫聖である。殊、岩阿弥は毎日花吉の指導をしてくれる、兄のような人物だ。
(まさか、於露の退魔を?)
その方向は、谷中墓地だった。
出し抜かれては叶わぬと、慌てて勘定を済まし、花吉は急いで谷中墓地へと走った。酒が回って早く走れぬ花吉は、途中で口のなかに指を突っ込んで、今し方堪能したすべてを吐き出して胃の腑を軽くした。
ようやく谷中墓地に辿り着いた頃、ふたりの八咫聖が、既に無縁塚を取り囲んで真言を唱えていた。遠くから傍観できる処に花吉は立って、中腰で呼吸を整えながら、それを眺めていた。
そのうち、無縁塚が振動し始めた。
暫らく振動し、やがて、女の姿が浮かび上がった。
(あれが、於露?)
か細く頼りなさげな様は、まさに薄幸を絵に描いたようであった。
「女、成仏せい!」
法阿弥が叫んだ。
於露は伏し目がちのまま、か細い、それでいて重々しく響く声で
「あの御方は、今宵も御家に居らぬ」
と呟いた。
そして、真言を唱えるふたりの八咫聖を舐めるように見つめて
「我が君を隠したのはそなたらか。我が君に逢いたい……恋しい、怨めしい!」
途端、女は夜叉の如く変相し、法阿弥に挑み掛かった。
突然のことで法阿弥はたじろいだ。
瞬時に法阿弥は五体を引き千切られた。
「ば……化物!」
岩阿弥が真言を唱えた。
女は牙を剥いて襲いかかってきた。真言が効かないことに恐怖した岩阿弥は身を翻したが、たちまち全身を引き千切られてしまった。
あっという間の出来事である。
女は元の姿に戻ると、切ない憂いを浮かべて、やがてすーっと、町の方へと去っていった。
恐らく今宵も、高槻金太郎の長屋へ行ったのだろう。
花吉は声も出なかった。
何も彼もが、一瞬の出来事だった。
谷中天王寺門前町。
花吉はこの門前町の一角にある、煤けた小料理屋にいた。
まだ日暮れ直後とあって、店内には日雇い人足風の男たちがぽつりぽつりといるだけである。適当な窓越しの席を陣取ると、花吉は沙魚の煮付けと酒を注文した。
紀州の御山に戻れば、ろくな飯にも有付けない。
今のうちに旨いものをと思っていたのだが、生まれ育ちからだろうか、つい庶民的な江戸の味を求めてしまう。江戸の季節の味に舌鼓を打ちながら、つい昨日のような、江戸を飛び出してから過ぎ去った十年を、花吉は染々と振り返った。
山谷堀を飛び出したのち、花吉は人も己も傷つかない生業として、清潔な僧侶という道を志した。
しかし、仏門は身分の差が歴然としている世界である。
穢多生まれの花吉に、仏門は堅く閉ざされていた。唯一の功徳への道が、退魔専門の八咫聖だけだった。
(それから必死で修業をした。やることは魔斬と似ているが、汚れた金銭に縛られないことが救いだ。金銭の多少で分け隔てをする魔斬とは異なり、退魔は万民平等。そうでなければ、とても遣り切れぬ……!)
たちまち二合徳利を干して、あと一本注文すると、軒を列ねる家々の頭上に聳える、谷中の五重塔に視線を移した。
(沙魚と塔……谷中の光。その影で、浮かばれぬ女の亡霊が今宵も彷徨う。早く成仏させてやるのが、御仏に仕える者の務め)
花吉は徳利を傾け乍ら、ふと表の路地をみた。
何者かが足早に駆け抜けていった。
「……あ、岩さん」
駆け抜けたのは、今回江戸に来た面子のなかでも凄腕の業師と言われる、法阿弥・岩阿弥と呼ばれるふたりの八咫聖である。殊、岩阿弥は毎日花吉の指導をしてくれる、兄のような人物だ。
(まさか、於露の退魔を?)
その方向は、谷中墓地だった。
出し抜かれては叶わぬと、慌てて勘定を済まし、花吉は急いで谷中墓地へと走った。酒が回って早く走れぬ花吉は、途中で口のなかに指を突っ込んで、今し方堪能したすべてを吐き出して胃の腑を軽くした。
ようやく谷中墓地に辿り着いた頃、ふたりの八咫聖が、既に無縁塚を取り囲んで真言を唱えていた。遠くから傍観できる処に花吉は立って、中腰で呼吸を整えながら、それを眺めていた。
そのうち、無縁塚が振動し始めた。
暫らく振動し、やがて、女の姿が浮かび上がった。
(あれが、於露?)
か細く頼りなさげな様は、まさに薄幸を絵に描いたようであった。
「女、成仏せい!」
法阿弥が叫んだ。
於露は伏し目がちのまま、か細い、それでいて重々しく響く声で
「あの御方は、今宵も御家に居らぬ」
と呟いた。
そして、真言を唱えるふたりの八咫聖を舐めるように見つめて
「我が君を隠したのはそなたらか。我が君に逢いたい……恋しい、怨めしい!」
途端、女は夜叉の如く変相し、法阿弥に挑み掛かった。
突然のことで法阿弥はたじろいだ。
瞬時に法阿弥は五体を引き千切られた。
「ば……化物!」
岩阿弥が真言を唱えた。
女は牙を剥いて襲いかかってきた。真言が効かないことに恐怖した岩阿弥は身を翻したが、たちまち全身を引き千切られてしまった。
あっという間の出来事である。
女は元の姿に戻ると、切ない憂いを浮かべて、やがてすーっと、町の方へと去っていった。
恐らく今宵も、高槻金太郎の長屋へ行ったのだろう。
花吉は声も出なかった。
何も彼もが、一瞬の出来事だった。
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