魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
29 / 126

谷中奇譚

しおりを挟む
                九



 谷中天王寺門前町。
 花吉はこの門前町の一角にある、煤けた小料理屋にいた。
 まだ日暮れ直後とあって、店内には日雇い人足風の男たちがぽつりぽつりといるだけである。適当な窓越しの席を陣取ると、花吉は沙魚の煮付けと酒を注文した。
 紀州の御山に戻れば、ろくな飯にも有付けない。
 今のうちに旨いものをと思っていたのだが、生まれ育ちからだろうか、つい庶民的な江戸の味を求めてしまう。江戸の季節の味に舌鼓を打ちながら、つい昨日のような、江戸を飛び出してから過ぎ去った十年を、花吉は染々と振り返った。
 山谷堀を飛び出したのち、花吉は人も己も傷つかない生業として、清潔な僧侶という道を志した。
 しかし、仏門は身分の差が歴然としている世界である。
 穢多生まれの花吉に、仏門は堅く閉ざされていた。唯一の功徳への道が、退魔専門の八咫聖だけだった。
(それから必死で修業をした。やることは魔斬と似ているが、汚れた金銭に縛られないことが救いだ。金銭の多少で分け隔てをする魔斬とは異なり、退魔は万民平等。そうでなければ、とても遣り切れぬ……!)
 たちまち二合徳利を干して、あと一本注文すると、軒を列ねる家々の頭上に聳える、谷中の五重塔に視線を移した。
(沙魚と塔……谷中の光。その影で、浮かばれぬ女の亡霊が今宵も彷徨う。早く成仏させてやるのが、御仏に仕える者の務め)
 花吉は徳利を傾け乍ら、ふと表の路地をみた。
 何者かが足早に駆け抜けていった。
「……あ、岩さん」
 駆け抜けたのは、今回江戸に来た面子のなかでも凄腕の業師と言われる、法阿弥・岩阿弥と呼ばれるふたりの八咫聖である。殊、岩阿弥は毎日花吉の指導をしてくれる、兄のような人物だ。
(まさか、於露の退魔を?)
 その方向は、谷中墓地だった。
 出し抜かれては叶わぬと、慌てて勘定を済まし、花吉は急いで谷中墓地へと走った。酒が回って早く走れぬ花吉は、途中で口のなかに指を突っ込んで、今し方堪能したすべてを吐き出して胃の腑を軽くした。
 ようやく谷中墓地に辿り着いた頃、ふたりの八咫聖が、既に無縁塚を取り囲んで真言を唱えていた。遠くから傍観できる処に花吉は立って、中腰で呼吸を整えながら、それを眺めていた。
 そのうち、無縁塚が振動し始めた。
 暫らく振動し、やがて、女の姿が浮かび上がった。
(あれが、於露?)
 か細く頼りなさげな様は、まさに薄幸を絵に描いたようであった。
「女、成仏せい!」
 法阿弥が叫んだ。
 於露は伏し目がちのまま、か細い、それでいて重々しく響く声で
「あの御方は、今宵も御家に居らぬ」
と呟いた。
 そして、真言を唱えるふたりの八咫聖を舐めるように見つめて
「我が君を隠したのはそなたらか。我が君に逢いたい……恋しい、怨めしい!」
 途端、女は夜叉の如く変相し、法阿弥に挑み掛かった。
 突然のことで法阿弥はたじろいだ。
 瞬時に法阿弥は五体を引き千切られた。
「ば……化物!」
 岩阿弥が真言を唱えた。
 女は牙を剥いて襲いかかってきた。真言が効かないことに恐怖した岩阿弥は身を翻したが、たちまち全身を引き千切られてしまった。
 あっという間の出来事である。
 女は元の姿に戻ると、切ない憂いを浮かべて、やがてすーっと、町の方へと去っていった。
 恐らく今宵も、高槻金太郎の長屋へ行ったのだろう。
 花吉は声も出なかった。
 何も彼もが、一瞬の出来事だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

おむつオナニーやりかた

rtokpr
エッセイ・ノンフィクション
おむつオナニーのやりかたです

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

椿散る時

和之
歴史・時代
長州の女と新撰組隊士の恋に沖田の剣が決着をつける。

信濃の大空

ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。 そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。 この小説はそんな妄想を書き綴ったものです! 前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!

明日の海

山本五十六の孫
歴史・時代
4月7日、天一号作戦の下、大和は坊ノ岬沖海戦を行う。多数の爆撃や魚雷が大和を襲う。そして、一発の爆弾が弾薬庫に被弾し、大和は乗組員と共に轟沈する、はずだった。しかし大和は2015年、戦後70年の世へとタイムスリップしてしまう。大和は現代の艦艇、航空機、そして日本国に翻弄される。そしてそんな中、中国が尖閣諸島への攻撃を行い、その動乱に艦長の江熊たちと共に大和も巻き込まれていく。 世界最大の戦艦と呼ばれた戦艦と、艦長江熊をはじめとした乗組員が現代と戦う、逆ジパング的なストーリー←これを言って良かったのか 主な登場人物 艦長 江熊 副長兼砲雷長 尾崎 船務長 須田 航海長 嶋田 機関長 池田

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

淡々忠勇

香月しを
歴史・時代
新撰組副長である土方歳三には、斎藤一という部下がいた。 仕事を淡々とこなし、何事も素っ気ない男であるが、実際は土方を尊敬しているし、友情らしきものも感じている。そんな斎藤を、土方もまた信頼し、友情を感じていた。 完結まで、毎日更新いたします! 殺伐としたりほのぼのしたり、怪しげな雰囲気になったりしながら、二人の男が自分の道を歩いていくまでのお話。ほんのりコメディタッチ。 残酷な表現が時々ありますので(お侍さん達の話ですからね)R15をつけさせていただきます。 あッ、二人はあくまでも友情で結ばれておりますよ。友情ね。 ★作品の無断転載や引用を禁じます。多言語に変えての転載や引用も許可しません。

処理中です...