魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
21 / 126

谷中奇譚

しおりを挟む
                    一


 この日、山田浅右衛門は首斬りの正業がなく、取り立てて急ぎの用もなかったので、平河町の自宅で太刀の手入れをしていた。諸事多忙な彼にとって、このような落ち着いた日は、そう滅多にあるものではない。
「おまいさん」
 ふと、妻の於貞が声を掛けた。
 寡黙な妻・於貞は日頃喋らないためか、何やら舌足らずで
「お前さま」
と云っているつもりが、どうしても
「おまいさん」
になってしまう。もっとも、そんな細かいことなど気にもしない山田浅右衛門である。
「おう、どうした」
「ただいま御門に、井伊様御家中の御方が」
「ほう」
 井伊様といえば、今をときめく御大老・井伊掃武頭直弼のことだろう。差程に驚いた様子もみせず、衣服も改めぬまま、山田浅右衛門は備前長光を落とし差しにして
「これは、ご苦労さまで」
と応対に出ていった。
 井伊家の使いは一瞬、不快な顔をしたが、すぐに取り澄まして
「今度上様に献上する御刀がある。ついてはワラを一束求めたい」
 ワラとは藁、即ち山田浅右衛門が収蔵している刑死者の胴体の隠語である。試し斬りのためにワラを求める大名は存外多く、これは山田浅右衛門の役得でもあった。
「井伊様には、どのようなワラを御所望でござろうか」
「将軍家献上御刀ゆえ、よく斬れることを証明したい。なるべく肉置の太いワラが好ましいが」
「ああ、ならば最近、いいワラが手に入りましたので」
 勿論、仏の身元など、教えたりはしない。
(下らぬ弾圧で巻添になった者じゃ。最後まで面倒見てやるんだな)
 山田浅右衛門は内心安政の大獄を
(天下の愚策)
と思っている。こういう骸を高値で売り付けるのも、ちょっとした抵抗だった。
 夕刻になって、浅草弾左衛門配下の助六がやってきた。
「旦那、仕事でさ」
 近頃八咫聖が稼ぎを妨げている話を、山田浅右衛門は耳にしていた。だから急ぎの仕事に違いない。
「おれは、一日休みと洒落込んでいたのによ」
と文句を云いながら、衣服を改め、大太刀を片手に編笠を目深に被り、山田浅右衛門は軽やかな足取りで屋敷を出た。
 駿河町呉服問屋三井の裏手に、薄暗い長屋がある。先日借金苦を理由に首を括った老夫婦がいた。ところが自殺をした老夫婦、どうやら怨めし気に、夜な夜なその長屋を彷徨い歩くのだという。
「依頼は長屋の衆からでさ」
 助六の言葉に、大きな欠伸をしながら
「徘徊だけじゃあ、別にいいじゃねえか」
 山田浅右衛門は乗り気でないこの仕事を手早く片付けようと、抜き身で長屋の一画に立ち、老夫婦が現われるのを待った。
 そのときである。
 ふと何処からか飛礫が飛んできた。身を捩ってそれを躱すと、今度は頭上から匕首を持った男が降ってきた。
「誰じゃ!」
 山田浅右衛門は大太刀の峰を返すと、その男の脛を強打した。横転する男の顔をみて
「あ……兄貴!」
 思わず助六は叫んだ。
 その言葉に、男は一瞬立ち止まった。その首筋に、山田浅右衛門は峰打ちを与えようとした。
 が。
 その切っ先を躱しながら、男は助六へ一瞬の一瞥を投げて、夜の闇へと逃げ去っていった。その行方を追いながら
「助、お前ぇ……兄貴って」
 山田浅右衛門は助六をみた。
「あれは十年も前に山谷堀を逃げ出した実の兄・花吉です。ええ、間違いありやせん」
 助六の言葉に、山田浅右衛門は絶句した。
 男の身形は、確かに八咫聖であった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

おむつオナニーやりかた

rtokpr
エッセイ・ノンフィクション
おむつオナニーのやりかたです

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

明日の海

山本五十六の孫
歴史・時代
4月7日、天一号作戦の下、大和は坊ノ岬沖海戦を行う。多数の爆撃や魚雷が大和を襲う。そして、一発の爆弾が弾薬庫に被弾し、大和は乗組員と共に轟沈する、はずだった。しかし大和は2015年、戦後70年の世へとタイムスリップしてしまう。大和は現代の艦艇、航空機、そして日本国に翻弄される。そしてそんな中、中国が尖閣諸島への攻撃を行い、その動乱に艦長の江熊たちと共に大和も巻き込まれていく。 世界最大の戦艦と呼ばれた戦艦と、艦長江熊をはじめとした乗組員が現代と戦う、逆ジパング的なストーリー←これを言って良かったのか 主な登場人物 艦長 江熊 副長兼砲雷長 尾崎 船務長 須田 航海長 嶋田 機関長 池田

椿散る時

和之
歴史・時代
長州の女と新撰組隊士の恋に沖田の剣が決着をつける。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜肛門編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おぽこち編〜♡

x頭金x
現代文学
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

信濃の大空

ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。 そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。 この小説はそんな妄想を書き綴ったものです! 前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!

処理中です...