魔斬

夢酔藤山

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安政奇譚

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                    十八


 土手通りに出ると、何やら山田浅右衛門は胸騒ぎを覚えた。
(これは……)
 幽霊がいる。
 幽霊が、狙っている。
 この感覚は、紛れもない。
 緊張が山田浅右衛門の背筋を走った。魔斬りをするつもりではなかったので、今は大太刀を持っていない。咄嗟に備前長光へ手を添えながら、浅右衛門はゆっくりと歩き出した。
 大太刀は魔斬専用の道具である。普段、持ち歩くことなどない。
 大太刀は、かつては代々の仕置に用いた首斬刀であった。しかし長年に渡り血を吸ったため、魔だけを斬ることの出来る妖刀となった。
 ただし、間違えてはいけない。
 魔斬は道具ではなく、磨かれた技で行なう。山田浅右衛門は大太刀がなくとも、多少の幽霊くらいならば、日頃帯刀している備前長光でも斬り倒せるのだ。
 ふと、浅右衛門の目の前に、ふたつの人影が過った。
 草臥れた浪人と年増の女。夫婦のようだ。仲睦まじく語り合っている様子で、何やら微笑ましい。しかし、浅右衛門の第六感が、この夫婦への警戒心を抱かせた。
 一瞬。
 目を剥いた浪人が、獣のように五間も跳んで、山田浅右衛門に掴み掛かってきた。浅右衛門はそれを躱したが、今度は内儀が飛び掛かってきた。
 その顔に、浅右衛門は覚えがあった。
「そなた……!」
 湯島横丁の長屋にいた、魔斬の依頼にきたあの内儀ではないか。そしてもう一人、浪人の事も思い出した。橋本左内の仇討ちと称して、浅右衛門に返り討ちされた浪人だ。
「そうか……二人は夫婦か」
 浅右衛門は備前長光を抜いて、二人に対峙した。
「……殺す、殺す、殺す!」
 内儀は白目で凄んだ。
 首筋が青痣になっている。たぶんこの浪人が死んで間もなく、首を吊って死んだのだろう。さぞや浅右衛門を呪って、この世を去ったに違いない。
「しかし、小賢しい。亭主は武士の倣いで儂を狙った。仇討ちに失敗したからと、怨霊に化すとは、笑止!」
 浅右衛門は内儀に向かって踏み込んだ。その切っ先を擦り抜けて、内儀はぐっと手を延ばした。その指が物凄い力で浅右衛門の首を握った。指が首に食込み、気が遠くなりそうになった。刹那、備前長光の切っ先が下から上へ
「斬―!」
 気合を込めて、浅右衛門は内儀を真っ二つに斬った。間髪置かず、蒼白で崩れ落ちた浅右衛門の背後から浪人が飛びかかってきた。浅右衛門は横っ跳びに転がりながらそれを避け、すかさず備前長光を横払いにした。
 手応えがあった。浪人の胴は真っ二つになった。
「……殺す……殺す」
 そう呻きながら、二人の亡霊は、やがて掻き消えていった。
 息を整えながら、ようやく浅右衛門は雪を払い立ち上がった。その首には、べったりと、真っ赤な手形がついている。内儀の執念の深さに、浅右衛門は恐れ入った。辺りを見回すと湯島聖堂がみえた。
(そうか……幽霊が出てもおかしくないよな)
 いかにも寂れていそうな近くの寺に立ち寄り
「ちと井戸水を拝借したい」
 突然首が血塗れの大男が現れたので、そこの住職は仰天した。しかし、仔細の事情を聞いて、住職は更に仰天し蒼褪めた。
「あのな、御武家様」
 どうやらその内儀はこの寺の無縁塚に葬られたらしい。
「……何かの奇縁よな」
 浅右衛門は苦笑した。
 その首に食い込んだ指の痕は生々しい。たぶんこれは、生涯消えないだろうよと、涼しい口調で山田浅右衛門は呟いた。
「そのようなもので?」
「そうとも。念の籠った疵というものは、相手にその形を残すと容易に消えぬ」
「そうかもなあ、そういうものかも知れないなあ」
「生きている奴の切り傷も、消えないそうだよ」
「はあ」
「生者がそうであるのだ、幽霊なら尚のこと。その執念が晴れてくれねばこの疵も癒えまいよ。もっとも俺をそこまで憎んで怨んで死した内儀じゃ。成仏させても、念だけは首の疵となって留まるだろうさ」
 浅右衛門の言葉に、住職も項垂れた。
「拙僧も出来るかぎり、御内儀の供養を致しましょうぞ」
「忝い」
 寺で提灯と傘を借りると、山田浅右衛門は夜道を急いだ。

 帰途の道々、山田浅右衛門はいろいろと考えた。
 そもそも内儀が怨みを残した発端は〈安政の大獄〉ではあるまいか。山田浅右衛門はそう思わずにはいられなかった。橋本左内を斬ったのは、その任にある者としての仕事だった。罪人を仕置するのは、山田浅右衛門の役目である。罪状は尊皇攘夷運動。御禁制の法度に触れたのだから、それは確かに罪には違いない。が、果たしてそれがどのような罪なのか。そこまでの経緯も仔細も、山田浅右衛門は知らない。
 ただ、それが己の役目だから、首を斬った。
 罪の是非は問題ではないのだ。
 ある日、突然設けられた、善悪の物差しが庶民にはよく理解出来ない罪状……それが〈安政の大獄〉ではあるまいか。武家が武家を取締まる法度とも何か異質な、なにやらしっくり来ないものである。
 しかし、ひとつだけ云えた。
(死ななくともよい者が、芋蔓のように、何処かで死ぬこともあるのだ。あの浪人のように……あの内儀のように。だとすれば、これからも何処かで、このような幽霊が増えていくのだろうか)
 厭な世の中だ……容赦なく降る白い雪は、穢れを拭いきれないものなのだろうか。無垢なものに塗替えられないものなのだろうか。
 今年最後の雪は何も答えない。
 ただ黙って振り続けるだけである。
「南無……」
 山田浅右衛門は天を仰いで冥黙した。
 安政の大獄の張本人、井伊直弼が暗殺されたのは、それから二年後。万延元年三月三日のことである。この日も、季節外れの大雪だった。


                       《了》


明日からは「谷中奇譚」がはじまります
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