魔斬

夢酔藤山

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安政奇譚

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                    十七


 駕籠は、江戸府内へと向かった。
 その道中、浅右衛門は無口である。じっと、己の手で仕置された罪人たちの事を、考え込んでいた。こんな気休めをしたところで、罪人たちが成仏出来ない事くらい、十分承知している。現にその後は、浮かばれずに彷徨い出た罪人の霊を魔斬して、やっと彼岸へと送っているのだ。
 それでも刑場廻りをするのは、首斬り稼業で喰っている浅右衛門の業である。それが生業の浅右衛門の、年にたった一度だけの〈良心の呵責〉であった。日本橋を過ぎると、年越しの支度を終えた男たちが、屋台に店先に、酒を呑み交わしている光景が見え隠れした。
(そういえば)
 浅右衛門はまだ昼飯を食べていないことに気が付いた。時刻は八つ半にもなろうか。
「おい、蔵前で下ろしてくれ」
 浅右衛門の声に、駕籠舁は応えた。蔵前に着くと陽は西に照っていた。浅右衛門は小判五両を出した。正規の駄賃より倍以上である。
「気分の悪い場所巡りじゃった。こいつで酒でも呑んで、憂を忘れてくれ」
 浅右衛門の言葉に駕籠舁たちは御礼を述べて、逃げるように去っていった。
 蔵前には大晦日なのに営業をしている食い物屋が多く軒を列ねていた。日雇いの独り者が多いためだろう。しかしその大半は、夕暮で暖簾を下ろす。
 山田浅右衛門は大川沿いの船宿に立寄った。初めて入る店だが、漂う味噌の匂いにふらふらと釣られたのである。雑多に込み合う店内で、浅右衛門は隅に陣取り、小僧を捕まえると
「熱燗をくれ。それと、何か暖の取れる肴はないのかい?」
「狸汁なんぞは如何。すぐにお持ち出来やすが」
 成程、あの味噌の匂いは狸汁のものか。
「よし、狸汁を頼む」
 さほど待たずに、小僧が大きめの蓋付椀と二合徳利を持ってきた。
 手酌で取り急ぎ二杯程呑み干し
「むう……生き返る」
 凍えていた指先に、ゆっくりと感覚が戻るのを感じながら、狸汁を啜り浅右衛門はそれを肴に、たちまち二合徳利を干してしまった。駕籠のなかとはいえ、寒風に曝された一日である。冷えきった身体には、味の染みた蒟蒻に薬味の葱が堪らない。それに熱燗とくれば、身体の芯から温まること受合いだ。
 こういう喧騒のなかに身を置いて、じっと独り酒を呑んでいると
(世の中は太平よな)
と実感させられる。首を斬ったり、魔を斬ったり、そんな血腥い毎日が、まるで嘘のようだ。遠く浅草寺の鐘の音が響く。いつしか混合う店内も人数が疎らとなった。障子をそっと開くと、巣へ急ぐ鳥の群れが大川を渡っていった。
(今年の陽も沈むか……)
 二合徳利をもう一本、それと
「腹に蓄まるものがいいな。何か出来そうかい」
 小僧は暫し考えて
「残り御飯がありますが、焼握りにしましょうか」
「それ、それ、それ。それを頼む」
 程なく運ばれた焼握りであったが、これもまた、味噌の匂いが芳ばしい。どうやらこの店は味噌にこだわりがあるのだろうか。聞けば主人の生まれが三州豊川稲荷の門前町という。
(さては八丁味噌か)
 心憎い味に、外が暗くなったことを山田浅右衛門はすっかり気付かずにいた。
「お客さん、今宵は早仕舞で」
 小僧の催促に、浅右衛門はすっかり冷めた残りの狸汁を啜り
「また来るぜ」
 そっと銭を置いて店を出た。
 寒風は川を渡りいよいよ冷たい。
(おお、せっかくの暖気が逃げちまう)
 背中を丸めながら、浅右衛門は帰途に就いた。
 雷門辺りまで来ると、ちらほらと白いものが舞い降りてきた。
(おや、先程までは夕焼けであったものを)
 恐らくは多摩辺りから、北風に乗った風花が舞い下りたのだろう。見上げると、北の空から、厚い雲がみるみると江戸へ迫るのが見える。
(こりゃあ降るぞ……ついてねえや)
 風花は風に舞いながら、次第にその粒を大きくし、たちまちのうちに大雪の様相に一変した。広小路を往来する人々は、蜘の子を散らすように家路へ急ぎ、あっという間に人気は消え去った。蛇骨長屋に馴染みの店があったが、やはり大晦日に店を開けている筈もない。
 雪は、みるみると地面を敷き詰めていった。山田浅右衛門は足早に歩いた。
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