魔斬

夢酔藤山

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安政奇譚

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                    二


 安政五年(1858)晩秋。
 この頃の日本は右往左往の大騒ぎであった。諸外国の開国要請は強硬で、何の方策を見出だすこともなく、幕府はその圧力に屈し、横浜・長崎・函館を開港するに至った。
 ここに、三百年の鎖国の夢が破れたのである。
 未曾有の国難にありながら、それでも幕府上層部は主義も思想も見出せず、それを詰るかのように長州の吉田松陰といった攘夷運動の先駆者達が幕府を激しく非難した。江戸や京都では、主義主張を唱えて、生命を削る武士たちの情熱が駆け巡っていた。
 世はまさに、激動の時代。
 そしてこの年、彦根藩主・井伊掃部頭直弼が幕府大老に就任をした。井伊直弼は強硬な政策を推進し、やがて、尊皇攘夷運動を大罪とした。世にいう〈安政の大獄〉である。が、これは歴史に名を刻む武士の世界だけのこと、町人たちにとっては何ひとつ関わりのない、雲のうえの出来事に過ぎない。そう、この年の江戸は、大地震の傷跡や疫病を除けば、表向き平穏なのであった。
 市井の暮らしは良くも悪くも貧しいが、決して不幸ではない。
 浅草界隈にはいつものように善男善女が集い、観音様に己の欲望の長けをぶつけ、香具師に束ねられた威勢のいい出店が参道にずらりと軒を列ねている。
 この光景は、徳川三百年の泰平のなかで、何ら変わることはない。

 外桜田を西へ凡そ九町(約一キロメートル)。半蔵門に程近い平河町に、山田浅右衛門吉利の屋敷はある。
 山田浅右衛門の身分は、浪人である。が、それにしては、大層な屋敷に住まい、金の張るものを食らう。世にいう浪人とは、大きな違いだ。
 その理由は、皆が知っていた。
 表向き、山田浅右衛門の身分は腰物奉行支配。将軍家御奉納刀の御試斬りを御役目としていた。それとは別に、町奉行職からの依頼で罪人の仕置もする。この務めは、穢れに繋がる。それだけに、人が嫌がるこの仕事は、報酬もよい。誰もが蔭で侮蔑する〈首斬り浅〉という呼び名は、この罪人斬首を指していう、蔑みとやっかみの象徴であった。
 山田浅右衛門は明け六つ(午前六時)に起床すると、まず庭に出て白木の木刀で千回素振りをする。雨が降ろうと、雪が降ろうと……。これは天地が引っ繰り返ろうが、浅右衛門の日課であった。素振りを終えると井戸から水を汲み上げ、汗を洗い落としてから仏間に籠った。手向ける線香の本数は、本日の仕置に見合う人数である。その日課を済ますと、その日、斬首が予定されている南北いずれかの奉行所へと出仕した。
 これが山田浅右衛門の一日の始まりである。
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