魔斬

夢酔藤山

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安政奇譚

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                    一


 墨壺のような漆黒の夜空は、手探りするほどに闇が濃く、その〈闇の奥〉を自在に徘徊することは、難儀というより他ない。
 大川畔の地蔵堂のなかで、一本の太い蝋燭が揺らめいた。
その仄かな灯りに照らし出された女は、経を唱え続ける大男に向かい、思い切って声を掛けた。
 幽霊が、出るのだと。
「そりゃあ、まあ……そいつは俺の領分ですがね。ところで、御内儀。俺が事は、いったい、どちらから聞いたのかね」
「……」
「まあ、いい。俺の噂を知って、こんな闇夜に、大川くんだりまで来てくださったんだ。当然、仕事料の噂も聞いただろうよ」
「え?」
「魔斬(まぎり)の仕事料は、どなたさんが払ってくださるんですかい。こちらも命懸けですからね、それなりの額になりますが」
「あの」
「御内儀さんが払うとでも?」
 大男は背を向けたまま、諭すように吐き捨てた。
「そんな……あたしは、長屋の衆を代表して来ただけで……」
 しどろもどろになるのも無理はない。
 大男のいう仕事料が、法外なのだ。
「だったら、辛抱なさい。どうせ危害はないのでしょう?それでも厭ならば、何処かの坊主にでも頼りなせえ」
「しかし」
「わざわざ湯島から、無駄足だったねえ」
「……」
 気の弱そうな女である。取りつく島のない大男の言葉に、がっくりと項垂れ、どうしようかと途方に暮れる様子であった。大男は大男で、それきり、口を利こうともしない。
 女は諦めて帰ろうと、腰を上げた。
 と、蝋燭がふっと掻き消えた。
 女は悲鳴を上げて、頭を抱えて蹲った。
 大男は振返ると、白木の鞘に収められた大太刀を左手で掴み、ゆっくりとした所作で立ち上がった。そして、堂の外の暗闇を、格子越しにじっと見つめた。
「御内儀、尾けられましたね」
「はっ?」
「亡霊って奴はね、自分の妨げになる者を、捨て置かない性分なんですよ」
 大太刀をゆっくりと抜き払いながら、大男は舌舐めずりした。女は腰が抜けたのか、動こうとはしない。
「まあ、遅かれ早かれこうなる運命だったのでしょうな。向こうから出向いて来たんだ、魔斬の仕事料は、今回に限り、おまけにしといてやりますよ」
 地蔵堂の格子扉を押し開くと、青白い顔の女が立っていた。その恨めしげな表情から、既にこの世の者ではないことが伺えた。
 大男は、この女の顔を知っていた。
「ほう、成仏出来なんだか」
 その場に似付かわしい陽気な声で、女に問い掛けた。
「成程、お前さんの土壇場は小塚原だったな。確か神田明神の近くに暮らしていたんだっけ。そういやあ、御内儀の住居は湯島、近いものなあ。それで、誰かしらに縋ろうと彷徨い出たのかい」
 大男は大太刀を翳した。
 一瞬、振り回すのも一苦労と思われたその大太刀が、目にも留まらぬ速さで一閃した。
 地の底から響き渡る悲鳴に、御内儀は頭を抱えて丸まった。
 やがて
「御内儀、済みましたよ。もう遅いから、早う家に戻りなさい」
 大男が背を叩いた。
「だ……駄目です」
「駄目?」
「……腰が抜けて……」
「仕様のない御方だ。どれ、家の傍まで送ってやろうか」
 大男は御内儀を肩に担ぎ上げ、片手に提灯を持ち、大太刀を腰帯へ落とし差しにして、土手沿いに足取り軽く歩いていった。
 御内儀の長屋は、湯島横丁にある。どこの町内にもある、貧乏だが気立てのよい、全うな人間の棲まう木賃長屋だ。その長屋の路地では、住まう者たちが、不安げに、御内儀の帰りを待ち侘びていた。
「あ、あんた」
 御内儀は大男の肩を叩いて、下ろしてくれと促した。地に足がつくと、御内儀は亭主と思しき浪人の傍らへ走り、先程の一件を興奮したように捲くし立てた。長屋の大家らしい老男がよろよろと歩み寄り
「この度のことは、何と申したら……」
と、何度も礼を述べた。
「礼はいらぬ」
「といわれても」
「それより、これだけの男が雁首(がんくび)揃えときながら、だらしがねえじゃねえか。こんな夜に、女一人だけで俺のような者のところへ差向けるとは、何事じゃ。恥ずかしくならねえのかい、ええ?」
 大男は大声で叱り飛ばすと、いま来た道を立ち去ろうとした。
 その捨て台詞が気に障ったのか
「てやんでえ、首斬り浅め」
と、浪人風の男が吐き捨てた。大男は一瞬立ち止まり、やがて、何事もなかったかのように歩き出して、夜の闇の中へと消えていった。

 大男は身の丈六尺(約一八〇㎝)。眼光鋭く焼香の臭いを纏い、編笠を深く被り顔を隠していた。昼は愛刀・備前長光を、夜は数代に渡り血を吸って妖刀と化した大太刀を身に帯び、江戸の闇を練り歩く。
 その名を、山田浅右衛門という。
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