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上寺智は胸を病んでいた。
サックスの音が原因でバンドをクビになった。理由はそのときから分かっていた。上寺智は、医師からの辛い宣告をそのときには受けていたのだ。
肺を病んだら、もう、サックスプレイヤーはお終いである。
手風琴への転向は、吹けないアーティストの悪あがきだ。このまま野に果てるだろうジャズミュージシャンのことを、せめて聴衆の脳裏に焼き付けたい。永遠の記憶にしたいという、ささやかな抵抗だった。
その抵抗は、銀座で遂に試みることが出来なかった。
帝国ホテルでの、あの一回かぎり。足を止めて聞く宿泊客はいなかった。悲しいかな、それが実力だ。
肺を病んでいることと、陸軍からの統制、演奏者としての限界。この肺病は、きっと治るまい。上寺智に残された時間は、ささやかなものだろう。
ならば、月光のもとで音楽人生を締め括るのも
(いいじゃあないか)
翌日の夕方から、ほんの一時間ほど、ふたりは練習した。
寺山聖は間違いなく
「素人はだし」
だったが、情熱は本物だった。素人のなかでも、上等な素人だ。それだけで、上寺智には不服はなかった。
温泉神社の祭礼は、年々人の数が減っている。獅子舞が踊るのだが、氏子が少なくなり互助ということで、日指・岫沢・南といった三つの部落の鹿島踊りが参加し、幾分かの賑やかさを盛っている。
「寂しい村ですからね。賑やかになるなら喜ばれると思いますよ」
と、鶴屋の仲居は温泉神社の祭礼当番に紹介してくれた。
「ジャズ、ですか。浪曲じゃないんですね?」
「はい、ジャズです」
祭礼当番はあまりお気に召さない様子だった。それでも寂しいよりはマシだと、その伝手で神主や氏子総代に話を繋いでくれた。
「ジャズ、ですね!浪曲じゃないですよね?」
ちょっと似たような、しかし真逆の反応が返ってきた。氏子総代は帝都の学校に通ったこともあり、ジャズという音楽のことを知っていた。
「懐かしいな、小河内でジャズっぽいのが聴けるなんて、思いもしなかったよ」
ジャズっぽい……そうだなと、その言葉を素直に受け止めた。むしろ、いまの上寺智にはピッタリの表現じゃないのか。
「驚いたでしょう?誰だって、こういう閉鎖的な山の中では、ジャズなんて拒まれると考えますよ。ねえ、儂がインテリだからだと思いませんか?」
氏子総代は少し酔っていた。
あとからナシとかは厭ですよと、神主に念を押した。神主は素面だ、大きく頷いてくれた。それにしても、一々口説く手間が省けたのは、嬉しい誤算だ。
「ここは消えていく村だから。消えるからには、今ここにいる誰にでも、思い出として残る何かが欲しい。思い出になるのは暮らしの記憶だが、それだけじゃあ面白くもないよ。だったら、ちょっと変わったものがあるといい。皆はジャズを聴くのが初めてだ。私も初めてなんだ。きっと、忘れられない思い出になる」
神主の言葉は、少し熱っぽかった。
実は、このとき気の早い小河内村の住民は、少しずつバラけ始めていた。さっさと金を貰って出ていった者、いい場所に代替え地を貰った者、親類の伝手がある者。遅かれ早かれの問題で、ここにいる誰もが、ひょっとして明日は散り別れて、他人の土地で暮らしていくのである。このことはどんなに抗っても、今さらお上の決定が覆されることもない。
消えてゆく村に住む、名もない人たち。
みんな、村の記憶だけが欲しかった。変わった出来事があったのならば、その記憶は、きっとより深く刻み込まれるだろう。上寺智の演奏は神事とは無関係。それが変わり種である以上は、村人の記憶に異端のものとして刻み込まれるに違いない。
「ありがとうございます」
上寺智は心から感謝を述べた。
上寺智という名前は、本人が自覚のないほどに、実はジャズ好きな者にとって、知られたものだった。ジョーという呼び名もそうだ。第一、寺山聖が湯治の場で声をかけたほどじゃないか。
「小河内村の神社で、あのジョーが演奏するぞ」
この噂は、山の奥から零れ落ちて、立川あたりまで伝わった。
すると、戦前日本であまり多くないジャズ愛好家が、普段は見向きもしない多摩川上流にぽつんとしている小河内村に注目した。それどころか、銀座で火が消えつつあるジャズを楽しみに、どっと押し寄せる動きをみせたのだ。
立川は新興の花街。それだけに、文化についてどん欲な若い人も少なくない。昭和三年に出来たばかりの錦町楽天地から駆け付けた男。彼の名は布施幸四郎、病で倒れた兄貴に代わり酒屋を営んでいた。
「俺はいい音楽には目がないねえ」
と、一斗樽を抱えての小河内入りだ。その樽を温泉神社に奉納し、祭礼までの数日、演奏を練習している二人をじっと見つめ、うっとりとしていた。この切ない音楽は、いつか消えゆく日陰の村を彩るようだなと、布施幸四郎は思った。のちに彼は、立川に料亭三幸を創業する。
銀座で顔見知りだった鶯芸者たちも、上寺智の名をどこからか聞きつけて、小河内村まで駆け付けてきた。
「やだあ、ジョー久しぶりぃ」
それだけではない、お役所の人間さえも駆け付けた。止めるためではない、純粋に、個人としての趣味だ。
「私のサックスがこれほど好まれていたことを、今の今まで知りもしなかった。サックスを捨てたことを悔やまれる」
上寺智はこの村の演奏が、きっと最高で、最後になるだろうと予感していた。宛てもなく辿り着き、明日なき村で明日なき身が、一世一代のプレイをする。
なんとも粋なことだろうか。
(あのまま銀座で蹲っていたら)
きっと、このような想いは出来なかっただろう。
戦争は、いつか国民生活から潤いを奪う。そんな日がきっとくるだろう。そうなる前に、綺麗な幕引きが出来るのだ。
「有難いことだな」
偽らざる上寺智の本心だった。
サックスの音が原因でバンドをクビになった。理由はそのときから分かっていた。上寺智は、医師からの辛い宣告をそのときには受けていたのだ。
肺を病んだら、もう、サックスプレイヤーはお終いである。
手風琴への転向は、吹けないアーティストの悪あがきだ。このまま野に果てるだろうジャズミュージシャンのことを、せめて聴衆の脳裏に焼き付けたい。永遠の記憶にしたいという、ささやかな抵抗だった。
その抵抗は、銀座で遂に試みることが出来なかった。
帝国ホテルでの、あの一回かぎり。足を止めて聞く宿泊客はいなかった。悲しいかな、それが実力だ。
肺を病んでいることと、陸軍からの統制、演奏者としての限界。この肺病は、きっと治るまい。上寺智に残された時間は、ささやかなものだろう。
ならば、月光のもとで音楽人生を締め括るのも
(いいじゃあないか)
翌日の夕方から、ほんの一時間ほど、ふたりは練習した。
寺山聖は間違いなく
「素人はだし」
だったが、情熱は本物だった。素人のなかでも、上等な素人だ。それだけで、上寺智には不服はなかった。
温泉神社の祭礼は、年々人の数が減っている。獅子舞が踊るのだが、氏子が少なくなり互助ということで、日指・岫沢・南といった三つの部落の鹿島踊りが参加し、幾分かの賑やかさを盛っている。
「寂しい村ですからね。賑やかになるなら喜ばれると思いますよ」
と、鶴屋の仲居は温泉神社の祭礼当番に紹介してくれた。
「ジャズ、ですか。浪曲じゃないんですね?」
「はい、ジャズです」
祭礼当番はあまりお気に召さない様子だった。それでも寂しいよりはマシだと、その伝手で神主や氏子総代に話を繋いでくれた。
「ジャズ、ですね!浪曲じゃないですよね?」
ちょっと似たような、しかし真逆の反応が返ってきた。氏子総代は帝都の学校に通ったこともあり、ジャズという音楽のことを知っていた。
「懐かしいな、小河内でジャズっぽいのが聴けるなんて、思いもしなかったよ」
ジャズっぽい……そうだなと、その言葉を素直に受け止めた。むしろ、いまの上寺智にはピッタリの表現じゃないのか。
「驚いたでしょう?誰だって、こういう閉鎖的な山の中では、ジャズなんて拒まれると考えますよ。ねえ、儂がインテリだからだと思いませんか?」
氏子総代は少し酔っていた。
あとからナシとかは厭ですよと、神主に念を押した。神主は素面だ、大きく頷いてくれた。それにしても、一々口説く手間が省けたのは、嬉しい誤算だ。
「ここは消えていく村だから。消えるからには、今ここにいる誰にでも、思い出として残る何かが欲しい。思い出になるのは暮らしの記憶だが、それだけじゃあ面白くもないよ。だったら、ちょっと変わったものがあるといい。皆はジャズを聴くのが初めてだ。私も初めてなんだ。きっと、忘れられない思い出になる」
神主の言葉は、少し熱っぽかった。
実は、このとき気の早い小河内村の住民は、少しずつバラけ始めていた。さっさと金を貰って出ていった者、いい場所に代替え地を貰った者、親類の伝手がある者。遅かれ早かれの問題で、ここにいる誰もが、ひょっとして明日は散り別れて、他人の土地で暮らしていくのである。このことはどんなに抗っても、今さらお上の決定が覆されることもない。
消えてゆく村に住む、名もない人たち。
みんな、村の記憶だけが欲しかった。変わった出来事があったのならば、その記憶は、きっとより深く刻み込まれるだろう。上寺智の演奏は神事とは無関係。それが変わり種である以上は、村人の記憶に異端のものとして刻み込まれるに違いない。
「ありがとうございます」
上寺智は心から感謝を述べた。
上寺智という名前は、本人が自覚のないほどに、実はジャズ好きな者にとって、知られたものだった。ジョーという呼び名もそうだ。第一、寺山聖が湯治の場で声をかけたほどじゃないか。
「小河内村の神社で、あのジョーが演奏するぞ」
この噂は、山の奥から零れ落ちて、立川あたりまで伝わった。
すると、戦前日本であまり多くないジャズ愛好家が、普段は見向きもしない多摩川上流にぽつんとしている小河内村に注目した。それどころか、銀座で火が消えつつあるジャズを楽しみに、どっと押し寄せる動きをみせたのだ。
立川は新興の花街。それだけに、文化についてどん欲な若い人も少なくない。昭和三年に出来たばかりの錦町楽天地から駆け付けた男。彼の名は布施幸四郎、病で倒れた兄貴に代わり酒屋を営んでいた。
「俺はいい音楽には目がないねえ」
と、一斗樽を抱えての小河内入りだ。その樽を温泉神社に奉納し、祭礼までの数日、演奏を練習している二人をじっと見つめ、うっとりとしていた。この切ない音楽は、いつか消えゆく日陰の村を彩るようだなと、布施幸四郎は思った。のちに彼は、立川に料亭三幸を創業する。
銀座で顔見知りだった鶯芸者たちも、上寺智の名をどこからか聞きつけて、小河内村まで駆け付けてきた。
「やだあ、ジョー久しぶりぃ」
それだけではない、お役所の人間さえも駆け付けた。止めるためではない、純粋に、個人としての趣味だ。
「私のサックスがこれほど好まれていたことを、今の今まで知りもしなかった。サックスを捨てたことを悔やまれる」
上寺智はこの村の演奏が、きっと最高で、最後になるだろうと予感していた。宛てもなく辿り着き、明日なき村で明日なき身が、一世一代のプレイをする。
なんとも粋なことだろうか。
(あのまま銀座で蹲っていたら)
きっと、このような想いは出来なかっただろう。
戦争は、いつか国民生活から潤いを奪う。そんな日がきっとくるだろう。そうなる前に、綺麗な幕引きが出来るのだ。
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偽らざる上寺智の本心だった。
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