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ふと、視線に気づく。
関係者の一人が、じっとこちらを見ていた。知らない顔だ。聞き耳たてたことが分かっちゃったのだろうか。素知らぬ素振りをしながら、上寺智は立ち上がって湯殿へと退散した。
貧乏籤な名湯、ああ、そう云われればしっくりと来る。一時的に人が押し寄せても、やがてはダムの底に消えて、名前どころか存在さえも忘れられてしまう。
今の上寺智にピッタリだ。
ジャズバンドも、ジャズも、いつか東京から姿を消してしまう。それに先駆けて、己のサックスも人から忘れられていく。いや、もう忘れられている。
世の中がそういうものなのだとしたら、随分と、残酷だ。
「あの」
不意に、背中越しに声がかけられた。
先ほど、上寺智をじっと見ていた、歳若い工事関係者だった。
「銀座でジャズを演奏されていた、上寺さんですよね」
きょとんと、その若い工事関係者をしげしげと見つめた。
「サックス奏者だった上寺智さん。ジョーさんですよね?」
「ああ、はい」
銀座のことが遠い昔で、もう、みんなが忘れたものだと思っていた。しかしこの若者の瞳には、たったいま演奏を終えて、拍手をしている最中の観客にも似た、高揚とした色が漂っていた。彼にとって、どうやら自分は過去のモノではないらしい。
「あの、寒いから。どうぞ湯殿へ」
「はい、お隣失礼します」
えっ、となり?
予想もしない反応だ。とにかく、先のことには触れたくないので、話題を探そうと思った。銀座……ジャズ……。
「ええと」
「ああ、工事関係者の寺山聖といいます」
「寺山君だね、どうも」
何だか調子の狂う若者だ。
「私は三年前、慶應義塾大学の学生だったんです。あまり銀座には馴染みのない人間だったのですが……」
身の上話しが始まった。上寺智は、どうにも一方的な話しが苦手だ。
「東京府の役人に就職が決まって、最初に出かけたのが銀ブラでした。でも、震災後の銀座って、大人から聞いていたものと様子が違っていて……」
「煉瓦街じゃないだろう?」
「はい。で、大学の友人で水上瀧太郎って奴が師事している永井荷風先生は、銀座をすごく大人な街だと吹聴しているんです。どこが大人かずっと分かりませんでした。煉瓦亭のカツレツも、ライオンのビヤーも、何か違うんです。で、ふらふらと音楽の流れるクラブに入ったら、ジャズだったんです」
支離滅裂な話だが、ようはジャズに触れた感動を口にしているのだろう。
「……ジャズか」
ジャズという言葉が、湯煙には不自然な響きではなかった。
もう、忘れたつもりでも、いつだって気持ちだけならスイッチが入る。サックスを手放したくせに、実に未練なことだった。
関係者の一人が、じっとこちらを見ていた。知らない顔だ。聞き耳たてたことが分かっちゃったのだろうか。素知らぬ素振りをしながら、上寺智は立ち上がって湯殿へと退散した。
貧乏籤な名湯、ああ、そう云われればしっくりと来る。一時的に人が押し寄せても、やがてはダムの底に消えて、名前どころか存在さえも忘れられてしまう。
今の上寺智にピッタリだ。
ジャズバンドも、ジャズも、いつか東京から姿を消してしまう。それに先駆けて、己のサックスも人から忘れられていく。いや、もう忘れられている。
世の中がそういうものなのだとしたら、随分と、残酷だ。
「あの」
不意に、背中越しに声がかけられた。
先ほど、上寺智をじっと見ていた、歳若い工事関係者だった。
「銀座でジャズを演奏されていた、上寺さんですよね」
きょとんと、その若い工事関係者をしげしげと見つめた。
「サックス奏者だった上寺智さん。ジョーさんですよね?」
「ああ、はい」
銀座のことが遠い昔で、もう、みんなが忘れたものだと思っていた。しかしこの若者の瞳には、たったいま演奏を終えて、拍手をしている最中の観客にも似た、高揚とした色が漂っていた。彼にとって、どうやら自分は過去のモノではないらしい。
「あの、寒いから。どうぞ湯殿へ」
「はい、お隣失礼します」
えっ、となり?
予想もしない反応だ。とにかく、先のことには触れたくないので、話題を探そうと思った。銀座……ジャズ……。
「ええと」
「ああ、工事関係者の寺山聖といいます」
「寺山君だね、どうも」
何だか調子の狂う若者だ。
「私は三年前、慶應義塾大学の学生だったんです。あまり銀座には馴染みのない人間だったのですが……」
身の上話しが始まった。上寺智は、どうにも一方的な話しが苦手だ。
「東京府の役人に就職が決まって、最初に出かけたのが銀ブラでした。でも、震災後の銀座って、大人から聞いていたものと様子が違っていて……」
「煉瓦街じゃないだろう?」
「はい。で、大学の友人で水上瀧太郎って奴が師事している永井荷風先生は、銀座をすごく大人な街だと吹聴しているんです。どこが大人かずっと分かりませんでした。煉瓦亭のカツレツも、ライオンのビヤーも、何か違うんです。で、ふらふらと音楽の流れるクラブに入ったら、ジャズだったんです」
支離滅裂な話だが、ようはジャズに触れた感動を口にしているのだろう。
「……ジャズか」
ジャズという言葉が、湯煙には不自然な響きではなかった。
もう、忘れたつもりでも、いつだって気持ちだけならスイッチが入る。サックスを手放したくせに、実に未練なことだった。
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