小河内ムーンライト

夢酔藤山

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 時計は朝六時。朝食にはまだ早い。
 昨夜聞いたとおりだ、山の稜線が遙かに高く、空は白んでも陽は照らない。重なる峰々は、まるで壁のようだった。
 朝食後、握り飯を作って貰い、付近を散策した。
 多摩川に沿って上流まで歩を進める。馬頭観音が多いのは、古来より交通の難所という意味だろうか。長閑な山村の随所には、無粋な立て看板も多い。
「幾百万市民の生命を守り、帝都の御用水のための光栄ある犠牲である」
 とって付けたような文句だ。
 この犠牲が必要な事かどうか、そんなことは分からない。それでも、ああ、この風景はいつか無くなるのだなあと、上寺智は思った。
 俯瞰して村の全景が観られる場所はないのだろうか。せっかくなら、観てみたい。
 歩き過ぎると、胸がざわざわする。
(その理由は……)
 自分でも承知している。医者から聞いた言葉は、忘れたくても忘れられない。今じゃなければ、こののち登ることも出来くなるだろう事も。しかし、路が分からない。傍らで小さな畑を耕す古老に尋ねる。
「あんたも物好きだねえ、何にもねえよ、ここは」
 それでも、親切な古老は、あれが御前山、あれが三頭山と、指さしながら教えてくれた。高い山には、ちょっと登れる自信はない。
「もう少し、低いところでいいんです」
「ならば、その道を上がっていけば、ちょっとした岩があるから。そっから村を見下ろせるよ」
「どのくらい登るんですか」
「ほんのちょっとだよ」
 田舎の基準はいい加減だ。ほんのちょっとで、もう一時間は歩いただろう。ようやく岩のようなものが見上げられる。古老のいう岩に違いない。なんだかんだで、一時間半だ。
 時間に追われてあくせくしていた人間には、このざっくばらんさが、腹立たしく思えてくる。
 と同時に、もっと気楽にやろうやと、木々や風に背を押されたような安らぎさえも思えた。相容れないふたつの感情。不思議なものだ。
 その岩は、日当たりがいい。
 岩の上に腰を下ろすと、ほどよい風が包み込むように渦を巻いている。ああ、これは秋の風だなあ。夏の終わりの乾いた風は、谷合を穏やかに駆け抜けていく。
 つい、持ってきた手風琴を奏でてみた。
 鍵盤から奏でられる音楽が、まるで五線紙に描かれたおたまじゃくしを具現化し、そのまま空へ溶けていくような気分にさせられた。勿論、そんなことなど、ない。
(ひとっこ一人いないというのは、思うよりも心地よい)
 寂しいとか、恐いとか、そういう感情がなかった。よく想像の出来る仙人みたいな世捨て人の心情とは、こんなものなのだろう。
 ガササッ。
 音がしても、不思議と恐ろしさはない。音が奏でられているのだから、熊などはきっと寄り付くまい。遠巻きに伺うのは、せいぜい好奇を隠せぬ獣くらいだ。猿か、狐狸の類のほかは、これを聴くものなどいない。
 思えば贅沢な時間だ。
(この村に来て、よかった)
と、上寺智は心地よい風の中を漂うように、時を忘れて鍵盤を弾いた。
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