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赤煉瓦の眩しい駅舎を見上げながら、ふと、足元に落ちている屑の文字を追う。そこにも、あの文字があった。
「沈みゆく小河内村の名湯」
硬券を握りしめながらホームに立ち、汽車に乗った。
本当に、目的などなかった。風に吹かれるまま、上寺智は小河内村を目指していた。
青梅電気鉄道の終点は御嶽駅だった。そこから工事計画中の奥多摩電気鉄道氷川駅までは、路線バスが運行されていた。未舗装の路を揺られて、そこから乗合の小型ハイヤーに乗り換えれば、小河内村の温泉宿まで至る。
九月の小河内村は、秋の気配が漂う。ハイヤーを降りた先で、立派な看板をみた。
「鶴屋……か」
上寺智は鶴屋の敷居を跨いだ。
ダムのことがなければ小河内村の生活は、少なくとも昭和一〇年代、平野部と何ら変わることの無い開けた物になる予定だったと、高橋源一郎氏の著書は記す。戦前に記された石川達三の「日陰の村」という作品にみるほどの、杣民の背負う悲壮感だけが全てではなかった。
しかし、その楽天的な側面は、ダムに沈むからという理由で、開明的な生活への変化が根こそぎ打ち切られ、少なくとも大正まで地道に積み重ねてきた素朴な営みの部分だけが結果として残った。
「お客さん、変わった荷物ですね」
素朴な温泉宿の仲居は、ジャズなど聞いたこともなく、楽器にも疎い。一〇二型大衆型手風琴なんて、見たことも聞いたこともないだろう。
上寺智はそれを説明する気もなかった。面倒くさいし、素人に楽器のことを話したところで、道端の地蔵に語るのも同然である。
「湯はずっと開けてますので、好きな時間にどうぞ」
「ありがとう」
特にすることがある訳でなし、上寺智は湯殿へと向かった。
「ここは、いい湯ですから」
通りすがりの余所者たちは、笑顔で上寺智に語る。こんなにも肌がツルツルになる、鶴の湯サマサマだと、聞いてもいないことを教えてくれた。
「そうですか」
乏しい感情を滲ませた表情で愛想笑いをするしかない。
「沈みゆく小河内村の名湯」
硬券を握りしめながらホームに立ち、汽車に乗った。
本当に、目的などなかった。風に吹かれるまま、上寺智は小河内村を目指していた。
青梅電気鉄道の終点は御嶽駅だった。そこから工事計画中の奥多摩電気鉄道氷川駅までは、路線バスが運行されていた。未舗装の路を揺られて、そこから乗合の小型ハイヤーに乗り換えれば、小河内村の温泉宿まで至る。
九月の小河内村は、秋の気配が漂う。ハイヤーを降りた先で、立派な看板をみた。
「鶴屋……か」
上寺智は鶴屋の敷居を跨いだ。
ダムのことがなければ小河内村の生活は、少なくとも昭和一〇年代、平野部と何ら変わることの無い開けた物になる予定だったと、高橋源一郎氏の著書は記す。戦前に記された石川達三の「日陰の村」という作品にみるほどの、杣民の背負う悲壮感だけが全てではなかった。
しかし、その楽天的な側面は、ダムに沈むからという理由で、開明的な生活への変化が根こそぎ打ち切られ、少なくとも大正まで地道に積み重ねてきた素朴な営みの部分だけが結果として残った。
「お客さん、変わった荷物ですね」
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「湯はずっと開けてますので、好きな時間にどうぞ」
「ありがとう」
特にすることがある訳でなし、上寺智は湯殿へと向かった。
「ここは、いい湯ですから」
通りすがりの余所者たちは、笑顔で上寺智に語る。こんなにも肌がツルツルになる、鶴の湯サマサマだと、聞いてもいないことを教えてくれた。
「そうですか」
乏しい感情を滲ませた表情で愛想笑いをするしかない。
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