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それが、昭和という時代の暗部だった。元号が大正から変わってすぐまでは、まだよかった。しかし震災から復興し、新しい都市景観になるほどに、東京という場所は、何かが窮屈になった。ひょっとしたらきっかけは、二.二六事件かも知れない。世の中は、次第におかしくなった。具体的に〈なにが〉ということは難しいのだが、感覚的にいえば、そういうことなのだ。それだけは断言してもいい。
が。
忌々しいことだが、陸軍に喧嘩を売っても、ただでは済まない。店側がそっと泣き寝入ることなど、昨今、珍しい話ではなかった。
「ジャズとは、舶来の音楽なり」
と、当節は厳しい風も吹き始めた。
日中戦争が始まったこともあり、世の中で幅を利かせるのは、全てにおいて大日本帝国陸軍だ。当然、銀座の界隈にある店の悉くは、陸軍サンの顔色を伺わねばならぬ。閉鎖した店の者を受け容れでもしたら、どのような目に遭わされるものか。
そこまでの、根深い問題だった。
「だからさ、お前、いいときに辞めたよな」
「メンバーも、散り散りですね」
「ああ、解散した。色々と余計な荷物を置いていったから、お前、好きなの持って行っていいぞ。ここにあっても、邪魔なだけだ」
バーの物置には、ギターとドラムセット、楽譜が幾つか残されていた。そのうち真新しい楽譜を手に取った。
「ムーンライト・セレナーデ?」
「それは一度も演奏されなかったってさ」
「じゃあ、楽譜を貰っていくよ」
「そうか、またどこかでジョーの音楽が聴けるのを待ってるよ」
「ありがとう、マスター」
銀座の根が、完全に切れた。
何となく、心が空っぽになった気分だった。かつて月に二度くらいは煉瓦亭でカツレツを食べられるくらいの、金銭的な余裕があった。今は日銭で、食うにも困っている。
(医者の薬代も、馬鹿にならないなあ)
食欲がなくなると、人間は生気を失う。今の上寺智は、その狭間に立っていた。
ふと足もとに、ビラが風に泳いでいる。拾い上げて、文字を追った。
「沈みゆく小河内村の名湯」
という太い文字を読んだとき、何かが心の奥で弾けた。理由もなく、行ってみようかという気にさせられた。
上寺智は小河内村を目指そうと思った。
が。
忌々しいことだが、陸軍に喧嘩を売っても、ただでは済まない。店側がそっと泣き寝入ることなど、昨今、珍しい話ではなかった。
「ジャズとは、舶来の音楽なり」
と、当節は厳しい風も吹き始めた。
日中戦争が始まったこともあり、世の中で幅を利かせるのは、全てにおいて大日本帝国陸軍だ。当然、銀座の界隈にある店の悉くは、陸軍サンの顔色を伺わねばならぬ。閉鎖した店の者を受け容れでもしたら、どのような目に遭わされるものか。
そこまでの、根深い問題だった。
「だからさ、お前、いいときに辞めたよな」
「メンバーも、散り散りですね」
「ああ、解散した。色々と余計な荷物を置いていったから、お前、好きなの持って行っていいぞ。ここにあっても、邪魔なだけだ」
バーの物置には、ギターとドラムセット、楽譜が幾つか残されていた。そのうち真新しい楽譜を手に取った。
「ムーンライト・セレナーデ?」
「それは一度も演奏されなかったってさ」
「じゃあ、楽譜を貰っていくよ」
「そうか、またどこかでジョーの音楽が聴けるのを待ってるよ」
「ありがとう、マスター」
銀座の根が、完全に切れた。
何となく、心が空っぽになった気分だった。かつて月に二度くらいは煉瓦亭でカツレツを食べられるくらいの、金銭的な余裕があった。今は日銭で、食うにも困っている。
(医者の薬代も、馬鹿にならないなあ)
食欲がなくなると、人間は生気を失う。今の上寺智は、その狭間に立っていた。
ふと足もとに、ビラが風に泳いでいる。拾い上げて、文字を追った。
「沈みゆく小河内村の名湯」
という太い文字を読んだとき、何かが心の奥で弾けた。理由もなく、行ってみようかという気にさせられた。
上寺智は小河内村を目指そうと思った。
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