小河内ムーンライト

夢酔藤山

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 小河内村。多摩川が谷の底を流れ、昼まで山の稜線に陽が覗かず、夕を待たずに陽が隠れる山間の土地。日陰の村だと余所者に笑われるが、事実なのだから仕方がない。
 それでも余所にはない名湯が湧く。江戸時代から湯治客を迎えてきた、れっきとした自活の村だ。
 ところがこの村を沈めて、大きなダムを設ける。そうなれば井戸や上水が頼りの帝都にとって、大いなる水瓶になるのだという構想が現実味を帯びたのは、昭和七年(1907)のことである。その前年五月には、東京府水道局長から小沢一平小河内村長に対してひとつの達しが為された。
「増加する帝都の人口に備えるため、多摩川上流の雨や雪が流れこむ小菅川や丹波の水を集めて小河内にダムを作るもの」
 無論、一方的な達しだ。
 この通達を見るまでは、村民の誰もが、この無法を知ることはなかった。伺いもなく、決まったのだという命令といってよい。
「理不尽極まりない」
 土地の反対は至極当然である。
 この計画の見直しを訴える陳情は昭和一〇年より頻繁に行われた。が、東京府がこれに耳を傾けることはなかった。
「決めたのだから、村は黙って従え」
 明言こそないが、態度はその通りだった。純朴で正直な村の人々でさえ、その誠意とは程遠い命令には、怒りを爆発させた。昭和一〇年一二月六日、小沢一平村長をはじめ一〇〇〇人の村民が東京府庁に押しかけて、ダム建設反対の陳情を行った。いや、陳情と呼べるものではない。そも、これが理性的に話し合える類ではなく、多数の巡査を動員する事件へと発展したことは想像に易い。
 その後も小沢一平村長は幾度となく反対の陳情を繰り返した。
 生の感情は、情に訴える最後の術だった。が、その声は、有楽町に構える鉄筋ビルの奥には、とうとう響くことはなかった。東京府と小河内村との間に移転補償等の協定が結ばれたのは、昭和一二年六月。円満などとは程遠い決定だ。
 戦前の世相に置いて、このようなやり取り決しては珍しいことではなかった。
 少なくともこの協定により、村民は故郷を離れ移転を余儀なくされたのである。

  夕陽は赤し 身は悲し
  涙は熱く 頬濡らす
  さらば湖底の わが村よ
  幼き夢の 揺り籠よ

  あてなき道を 辿り行く
  流離(ながれ)の旅は 涙さえ
  枯れて儚き 想い出よ
  ああうらぶれの 身は何処

  別れは辛し 胸傷(いた)し
  何処に求む 故郷よ
  今ぞ当て無き 漂白(さすらい)の
  旅路へ上(のぼ)る 今日の空
  (「湖底の故郷」作詞:島田磐也・作曲:鈴木武夫・歌:東海林太郎)

 ダムに沈むふるさと。
 その悲哀は全国に歌となって広まった。
 日本人という民族はこういうときに特徴が発揮される。
「湖底に沈む前の風景を、最後に観ておこう」
と、いつも顔を背けていた筈の数寄者どもが、わざわざ交通事情が困難な小河内まで足を運ぶようになったのは、それから間もなくのことである。
 元々この村には、いで湯の湧く風光明媚な楽しみがある。東京近郊の湯治場として旅人の宿は、一応整っていた。にわかに泊り客が押し寄せたところで、受け入れる懐は十分にあった。
 工事の着工は昭和一三年だが、ダムほどの巨大な物量の工事だ。数年でどうにかなるような安易なものではなく、長期に及ぶことは必然だった。
 なにせその規模、どうせやるなら世界一というスケールだ。
 準備はコツコツと始まる。工事するから一斉に立ち退けという訳ではない。したがって住民の移転まではまだまだ猶予があった。
 当然、いで湯のある宿も、消える景色を惜しむ都会からの稀人は勿論、沈めるために働く作業員の宿舎という面でも、そのまま営業を続けることが出来た。
 いで湯は鶴の湯とよばれ、起源は南北朝の時代にさかのぼる。鶴がこの温泉で傷を癒していたところを発見したという由来で、いつしか鶴の湯と呼ばれた。とはいうのだが、勿論、本当かどうかは、誰も見た者もいないのだから定かでない。
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