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8.そばにいさせて*
しおりを挟むディートリヒがハッキリと目を覚ましたのは、その日から2日後の事だった。よく晴れた、いつもの朝のようだった。
突然、フッと意識が戻ったのだ。
まるで何処かの空間から落ちてきたかのように錯覚して、身体がビクリと一瞬震えた。しかし同時に酷く怠い身体を自覚して、ディートリヒは身じろぎも出来ずに大きく息を吐いた。
しばらくそうしていた後で。幾分か余裕の出てきたディートリヒは、あちらこちらに目をやる。探したのは当然、イェルンの姿だ。
だが今、部屋には誰の気配もないようだった。彼にはそれが、随分と寂しい事のように思えた。
頭をゆっくりと動かし、寝室とリビングとを繋ぐ廊下の方へ顔を向ける。扉の向こう側では、誰かが動きまわっているような気配がした。
それに少しだけ安心して、ディートリヒは再び目を閉じたのだった。目を瞑りながらゆっくりと思い出していく。
あの戦闘の記憶は、彼にもハッキリと残っていた。それが一体どれくらい前の事になるのか、ディートリヒには予測がつかなかった。
イェルンが、ディートリヒの目の前で戦っていた。その相手は、彼も良く見知った者達だった。何年、共に戦っただろうか。見間違いようもなかった。
イェルンはディートリヒの事を守る為に、戦っていた。或いはもしかすると、自分の領域に踏み込もうとしてくる邪魔者をただ排除しようとしただけなのかもしれない。単なる彼の自惚れなのかもしれない。けれども結果的に、それはディートリヒを守る事になった。
そして、そんな戦いの最中だった。イェルンが次々とあれらを屠っている最中に。それらの毒牙の内一本が、イェルンに迫ったのだ。
ディートリヒは知っていた。あれに刺されればきっとその命はない。いかに強力な魔法使いといえど、魔法の効かない毒に対抗する手立てはないに違いないのだと。
ずっとずっと、ディートリヒの世話を焼く不思議な男。彼に“普通”を覚えこませようとする、美しい彫像の如く笑う天使のような男。
連中は、そんなイェルンを狙った。
それを目にした途端にだった。ディートリヒは己の血が沸騰するような怒りを覚えたのだ。あれ程の憤怒に駆られたのは、彼の人生で初めての事だったかもしれない。自分の命なぞは惜しくない、だなんて。逃げ出した癖にそんな事を思ってしまう程、ディートリヒは怒りに我を忘れた。
彼を傷付ける者は、何者だろうと許せなかった。地の果てまでも追いかけて、確実に息の根を止めてやる。そう考えてしまう程に、ディートリヒはその時静かに怒り狂っていた。
暴力的な思考に支配され、彼は気付くとあれらを殺して回っていたのだ。逃げようとする者すらも追いかけ捕まえて、一人残らず。まるで死神にでも取り憑かれてしまったのかと、自分でも思うほどだった。
そうして彼が我に返った時。周囲は血の海だった。けれどディートリヒにはその時、イェルンの事しか見えていなかった。心配でならなかったのだ。以前は思いもしなかっただろうそんな感情を、ディートリヒは極自然にその時覚えてしまっていたのだった。
終わるや否や、ディートリヒは慌ててイェルンの元へと駆け寄った。即座に彼の体中を見るも、当の本人に怪我どころか、かすり傷ひとつ付いてはいないようだった。
思い出せるのは、宮廷魔法使いも真っ青だろうあの暴れっぷり。
背筋が震える程に恐ろしく、そして、ゾッとする程美しかった。ディートリヒは始終、見惚れてしまっていたのだ。
あの場にいた全てのいのちが、たった一人、その男の手の中に握られていた。ディートリヒですら例外ではなく、その内の一人に過ぎなかった。
神の遣いの如き彼によって、次々とかき消され、天へと送られていく男達。あの光景はきっと、芸術そのものだった。まるで芸術に触れたことのないディートリヒですら、そんな事を思う程に、その光景に魅せられてしまっていた。
それは、イェルンに毒牙が迫るその瞬間まで、続いたのだった。
しかし、全てを終えて駆け寄って初めて、ディートリヒは気が付いてしまった。この時のイェルンの様子は、明らかに普通ではなかった。
普段から底抜けに明るく、常に己自身の事しか考えていないようなそんな男が。戦いの最中も、そして終わった後の呼び掛けにも上の空。まるで、魂か何かが抜け出てしまったかのようで。
それを知ったディートリヒは、心臓を後ろからひょいと突然鷲掴まれたかのような、そんな怖ろしさを感じていた。そして同時に、足元が崩れ落ちるかのように愕然とした。
これはまた、自分のせいなのかもしれない。自分がまたしてもヘマをして、あれらに関わってしまったから。だからイェルンはこう、なってしまったのだと。早く、彼のいつもの笑顔を見て安心したいのに。
それからのディートリヒの行動は早かった。ゆっくりとイェルンをその場から引き剥がし、連れ帰った。どんどん重たくなる己の身体を引き摺りながら、奇妙な程に従順なイェルンを引き連れて、この小屋へと戻ったのだ。
自分が死ぬのはいい。けれど、あの、ディートリヒと共に居てくれた彼は居なくなってしまって、イェルンという存在は一生、このままになってしまうのではないか。そう思うと嫌で堪らなかった。
彼の嫌な想像は止まらない。
茶を入れて彼を落ち着かせ、寝室へ連れて行き眠りにつかせる。その間もイェルンはひどく従順で、ディートリヒには不安ばかりがつのっていった。
横になって目を瞑った彼の隣を一晩中、片時も離れる事なく見守り、柄にもなく、ディートリヒは祈り希った。
“あの”イェルンが、ちゃんと戻ってきますように。死ぬ前に一度でも良いから、ディートリヒは彼のいつもの笑顔が見たかった。そんな事を思ったのだった。
じわじわとそんな夜の事を思い出しながら、ディートリヒはただじっと、扉をじっと見つめ、その時を待った。
自分を見た瞬間、ニコリと花が咲いたように笑うその顔が見たかった。今までに見た事のない程に美しい、厳しくも慈愛に満ちた神の御遣いのようなそれこそが。ディートリヒに唯一必要なものだった。
それから一体どれ程経ったのか。ディートリヒは再び眠ってしまったようだった。
その時目を覚ましたのは、額にひんやりとした柔らかいものを乗せられた時だ。それの気持ちの良さにひと息をついて、ゆっくりと目を開ける。
するとすぐ目の前に、ディートリヒの望んでいた彼の姿があった。ハッと息を呑み、大きく目を見開くその人。
自分の記憶と違わぬいつもの様子に、ディートリヒはようやく安堵の息を漏らしたのだった。自然と、緩やかな笑みが溢れ落ちる。
「よか、った」
起き抜けにそんな事をポロリと口に出してしまうと。
その時突然、イェルンが動いた。
ベッドの上で覆い被さるように、彼はディートリヒにぎゅうと抱き付いてきたのだった。イェルンは何も言わずに、しかし痛い程にディートリヒを抱きしめて離そうとしない。
突然の事に目を見開いたディートリヒは、いつものようにされるがままだった。キスもセックスも伴わない、ただの抱擁。痛い程に締め付けられるそれが、何故だかひどく離れ難く思われた。ディートリヒにはそれが、心地良かったのだ。
そのまましばらく。二人は抱き合ったまま、ジッとして動かなかった。
「バカ。ディートリヒの阿呆。それ、僕のセリフだよ」
ようやく沈黙を破ったかと思えば、イェルンはディートリヒに向かってそんな事を言ってのけた。まるで子供のようである。
けれどもそんな彼が、普段と全く変わり無い、ディートリヒの良く知るイェルンそのものであって。ちゃんと、いつもの彼は戻って来てくれたのだ。そう思うと、ディートリヒは嬉しくて堪らなくなった。
「全く。ディートリヒ、何食らってんのさ。僕が出た意味ないじゃん。君は、こうして僕に飼われてたらいいの。あんな汚い連中の前になんて出なくていいの。……アレは、僕程の使い手じゃなかったら……今頃どうなってた事か。あんな──」
「イェルン」
イェルンが全くいつもの調子で、けれどもどこか叱るような雰囲気でそんなことを語っていた時。ディートリヒは突然、遮るように言った。
以前のように何の感情もこもらない声ではない。どこか芯のある、静かな声だった。
「なに?」
「お前もしかして、俺の事を全部知ってたのか?」
抱きつくイェルンをゆっくりと引き剥がしながら、真っ直ぐに見上げて言う。
それと同時に、イェルンの艶やかな金糸がさらりと耳から零れ落ちて微かに揺れた。艶やかなその髪が、ディートリヒのものとは全く違う、滑らかな肌触りである事を彼は知っている。
「そんなの当たり前でしょ。もうぶっちゃけて言うけど、僕は『魔女』って呼ばれるような存在だよ? 人の域なんてとっくに超えてる。僕に知れない事はないよ」
「いつからだ?」
「拾って、すぐだったかな?」
首を傾げながら笑って言うイェルンに、ディートリヒは穏やかながらも真剣な顔を崩さなかった。
彼にはどうしてだか分からなかったのだ。イェルンが何故、自分なんかを傍に置こうとしたのか。危ない事は解っていたはずなのに。それだけはどうしても知りたかった。
「何で、お前は──お前程の魔法使いが、俺のような厄介者なんかを拾った? 知っていたなら尚更、面倒になるのは目に見えていたはずだ。もちろん、これで終わりじゃないはず」
そう、どこか訴えるような声で言ったディートリヒにも、イェルンはいつもの笑みを崩さなかった。
「うん、まぁ、最初はね、ただ面白そうだと思っただけだった。好奇心だよ。だって君、せっかく逃げ出せて助けてもあげたのに、ずっと死にそうな顔してたんだもん」
「死にそうな」
イェルンにそんな事を言われ、ディートリヒは少しだけ目を見開いた。そんな事を言われたのはもちろん、初めてだったからだ。
ディートリヒの周囲には、同じような者達しか居なかった。同じような目をした従順な狗達ばかり。たまに外の人間に目撃される事はあれど、狗達は証拠を残さない。その印象が知られる事など皆無だった。
「うん。自覚なかった? もういっそ、ずっと生きながら死んでるみたいな」
子供の頃の記憶は、ディートリヒの中ですっかり薄れてしまっていて、ほとんど覚えてすらもいない。それ以降よりはずっと良かった事だけは覚えている。
思い出しただけで今が辛くなる。死にたくなる。ただ生きているだけの今を生きる為に、ディートリヒは忘れるしかなかった。
従順に言いつけさえ守っていれば、今以上に悪くなる事はなかった。諦めていたのだ。逃げ出す事なんて、考えもしなかった。他よりも優秀な狗であったディートリヒに、監視の目は何処へでも付き纏っていたのだから。
と、そのような事を思い出してしまいながら、ディートリヒはこの時何も答えられなかった。
イェルンは、真っ直ぐにディートリヒだけを見つめていた。
「君は、あそこから捨てられて逃げ出したんだよね?」
笑みを引っ込めながら、イェルンはディートリヒを見下ろしつつ静かに言った。ディートリヒは、それをジッと見返しながら彼にも言う。
「そうだ。捨てられた。殺されそうになった。だから返り討ちにして逃げた」
そう淡々と告げたディートリヒに、イェルンは尚も続けて聞く。その問いにはどこか、目的があるかのようにディートリヒには感じられた。
イェルンが再び口を開く。
「これさ、ずっと聞こうと思ってたんだけど──逃げられて、君は嬉しくはなかったの? やっと、自由になれたのに」
問われてディートリヒは、その問いに一瞬考えてから答える。そんな言葉は、あそこから離れられても尚考えもしなかった。
「自由だなんて、そんなもの──覚えている事も期待する事もなかった。その時は特に何も。今までと同じで、生きなければならないと、ただ必死で」
心の奥底でいつかはと、恐らく考えた事くらいはあっただろう。けれどもそれは、いつしか考えにも上らなくなり、ディートリヒはすっかり忘れてしまっていたのだ。自由になれるだなんて、そんな夢物語。
イェルンはそれに、ふぅんと相槌を打つと、更に続けて言った。
「それなら、今はどう? 僕といれて嬉しい? 僕が無事で、ホッとした?」
「それは、」
直球で問われてそこで、ディートリヒは言葉に詰まってしまった。自由だ何だのと考えた事はなかったけれども。
彼の頭はここに来てからはずっと、イェルンの事ばかりを考えていたのだ。何せ彼の傍は心地良かった。時折彼に求められる事も含めて、ずっとここに居られれば良いのに、だなんて思ってしまう程に。
追われてさえいなければきっと、ディートリヒはここを離れようとさえしなかっただろう。居心地が余りにも良すぎたのだ。
ディートリヒは言葉に詰まった。どうするのが正解なのかが分からない。命令なんて何も無いから、この気持ちを正直に話してしまっても本当に良いものか。イェルンはそれで本当に良いのか、ディートリヒには分からなかった。
そして更にイェルンは続けて言った。まるでディートリヒの迷うその気持ちに気付いて、畳み掛けるように。押して傾かせるかのように。
「言ってよ、ディートリヒ? 僕は君の事を助ける事ができて嬉しいよ。とられなくて良かった、って思ってる。もうね、どうしてだか、今の僕には君が居ない生活は考えられないんだ。──ねぇ、ディートリヒは? 僕と一緒は嫌? 他に行きたいところでもあるの? ないなら、別に僕の所でもいいじゃない。僕はどんなものにも負けないし、絶対に殺されないと約束するよ。だからね、いいでしょ?」
お願いだよ、ディートリヒ。
そうやってにっこりと。文字通り目と鼻の先にまで顔を寄せられ微笑まれてしまうと。ディートリヒは途端に我慢が利かなくなる。その心が、抑えきれなくなってしまう。言葉が自然と溢れてしまった。
「俺のせいで、お前がいなくなるのは、嫌だ」
「ふふふ。もう、ひと声欲しいな。僕と、いたい? ずーっと僕と一緒は、嫌だ? 君の怖れる連中がやってこれない所へ、共に行く事も可能だよ。ねぇ、ディートリヒ? 君の口から聞きたいな」
まるで誘導尋問のようだ。そう思ったディートリヒだったのだけれども。その尋問に乗る形で答えるのは、嫌ではなかった。いっそ彼もまた、同じことを思っているのだから。
言ったところできっと今までと生活は変わらないはず。今までと同じ。けれども、今までとは何かが変わってしまうような気がした。
「お前と────イェルンと、いたい。離れるのは嫌だ」
視線を僅かに逸らしながら、ディートリヒは消え入りそうな声で、しかしハッキリと告げた。
「イェルンが、いい」
それから先はもう、言葉にはならなかった。それ以上、二人には言葉などいらなかったのだ。
そのまま、どちらからともなく唇を合わせる。
いつもとはまるで違う、優しく互いの存在を確かめ合うかのような口付けだった。
今までしてきたセックスとはまるで違った。どこを触られても、吸われても、何をされてもヨかった。
ただ、請われて上に乗るように言われた事だけは、ディートリヒの羞恥心をいたく煽った。人の上に乗るだなんてそんな経験はもちろん皆無で。当人にはえらく荷が重いように感じられた。
「イェ、ルンッ──!」
「ん。ゆっ、くりでいいからさ? そのまま腰、好きなように振ってみなよ」
「ま、て、深い、無理っ、だ! いつものじゃあ、駄目なのかっ」
壁際に背を預けているイェルンの腰の上に、ディートリヒは乗らされた。自重で腹の深くまで届いているそれに、変に意識がイッてしまう。まだ押し入ってきてからそれほど経ってはいないというのに。すっかり開発されてしまった奥の方が、既にじくじくと疼いていた。
「だって、せっかくディートリヒがちゃんと言ってくれたんだし、ね? シたいように動いてよ。僕、君が動いて気持ち良くなるとこ、見たいんだ」
その目の中にありありと欲望を激らせているのに、うっとりとその目を細めながらディートリヒが動くのを待っている。
そしてそのまま突然、イェルンの手がディートリヒの腹部に触れた。中にイェルンのものを挿れたまま動けないでいるというのに。その手は、遠慮もなく腹を押し込むように、指でぐいぐいと腹を揉みしだいた。それには堪らず、ディートリヒの身体がわかりやすくビクリと揺れた。
「君も気持ち良くなりたいでしょ? 頑張ってよ。腰振って、僕のでオナるみたいにさ」
ニコリと笑いながら言ったイェルンに、ディートリヒは絶望にも羞恥にも似た感情を覚えた。表情が歪むのは、自分でも分かった。
無理だ、と首を振りながら訴えるようにイェルンに視線を合わせたが、彼はただその笑みを深めるばかりだ。
美しくも残酷な、人智を超える天使のように。
「かぁーわいい。動かないとずっとこのままだよ。──まぁ、これはこれでスローセックスみたいで僕はイイんだけど。さて、ディートリヒはいつまで耐えられるかな?」
そう言って、まるで遊んでいるかのようにひとしきりクスクスと笑ってみせたかと思うと。イェルンは不意に、ディートリヒの腕を引いて彼の唇に自分のそれを寄せた。リップ音と共に、触れるだけの可愛らしい口付けが唇に落とされる。
そんな不意打ちの行動に驚きながら、バランスを取ろうとイェルンの肩を咄嗟に掴んだディートリヒにイェルンは続けて優しく言った。
「なんてね、冗談。それじゃあさ、今日は特別に僕が少しだけ動かすの手伝ってあげるから、同じようにディートリヒも自分でやってみなよ。それで勘弁してあげる」
そう言うや否や、イェルンは動けないでいるディートリヒの腰を両手で掴み上げた。上気した顔でうっそりと微笑み、色気を撒き散らしながらぐいと腰を引いて突き上げる。
最早挿れられる事に慣れ親しんだイェルンのものが、ディートリヒのイイ所を擦ると、待ってましたとばかりに快感が背筋を走る。思わず声を詰めたディートリヒにイェルンは、はぁ、と大きく息を吐き出したのだった。
「んッ──!」
「んふふ、そう、こんな感じだよ。ほら、ディートリヒやってみて。キモチイイ所に自分で当ててみてよ」
一度そこに当てたっきり。イェルンは動く事もなく、たたジイッとディートリヒの様子を覗っていたのだった。
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