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7.影に潜む狂犬
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イェルンはただ無心で腕を動かした。
まるで飛び回る羽虫を叩き落とすが若く。一人、また一人とソレが消えようが、何とも思わなかった。
「ッば、化け物が――!」
幾度となく呼ばれた呼び方で、誰にそう呼ばれようが、イェルンには最早どうでも良かった。そこいらの虫も、獣も、人ですら同じ。自分に害なすものは皆、ただの動き回る物体に過ぎない。
久々に己の魔力に存分に浸されたイェルンは、すっかり酔ってしまっていた。この世で強大な力を持つ魔法使いが皆、悩まされるというその症状に。
『魔女』と呼ばれる者達がこぞって人の世を離れるのは、己の魔力が及ぼす影響の大きさを危惧しての事。それは確かに真実ではあるのだが、それは理由の半分に過ぎなかった。そのもう半分が今、イェルンの陥っている症状のせいだ。
魔法を使えば使うほど、その魔力に浸されれば浸されるほど、彼等は皆、人のとしての心を何処かに置いてきてしまう。魔力そのもののせいなのか、それとも巨大すぎる力に精神が耐え切れなくなるからなのか。実際のところは誰にも分からない。
しかしけれども、それは身に纏う強大な魔力と共に、周囲には多大な影響を及ぼすのである。
「ヒッ、あーーー」
またひとり、その場から人間が減った。
イェルンの周囲一帯はもはや氷で覆われ、そんな季節では無いにも関わらず凍えるような冷気が漂っている。呼吸をすれば、吐き出した息は白く濁った。木々すらも凍りつき、滴れる氷柱は地に到達するほど育っている。
イェルンはそんな中、氷で出来た岩のような塊の上にただひとり座っていた。如何なる感情すらも浮かべず、遠くから淡々と人を襲う。まるで神か精霊かのように。
「あんなの――、敵うはずがない……」
誰かが小声で呟くのを、その場で誰も肯定しない。言わずとも、見れば分かる。出会ってしまったが最期、その怒りを買ってしまったが最期。その怒りに触れてしまったらもう、生きては帰れない。
あっという間に、その場にいた魔法使いは4人全てが狩り尽くされてしまった。何せ魔法使いというのは、誰も彼もプライドが高く、己が負けるはずが無いと理由もなく信じている――否、理由はもちろんあるが。
しかし、圧倒的な魔女の力の前には、国一番の宮廷魔法使いだろうが、そこいらの雑魚魔法使いだろうが、唯の人間と大差はないのだ。だから率先して突っ込み、そして率先して死ぬ。
死ぬ間際まで、彼らは己の勝利を信じてやまないのだ。
イェルンが魔法使いが厄介だと言ったのは、ただ単に自分の魔力の大部分を無理矢理押さえ付けたままでは狩りにくい、という一点につきる。今やその押さえ付けていた部分も全部、ついうっかり洩らしてしまって、イェルンはこんな状態になってしまっている訳で。
こうなってはもう、彼は敵を殺し尽くすまで止まらないだろう。そして、次にイェルンが気付いた時には。そこいら一帯はおそらく、永久凍土が如く人の住めぬ土地へと変わり果ててしまうのだ。
忙しなく動き回る彼等を一人、また一人と潰していく。まるで、地を這う虫を踏み潰してゆくが如く、捻り潰す。
だがそんな時の事だった。
イェルンの死角に、運良く滑り込んだ者が居た。
気配を徹底的に消し去り、音もなく獣のように素早く背後に、上手く回り込んなのだ。生きるか死ぬか、彼も必死だっただろう。それは、わずかばかりのチャンスを生み出した。
普段のイェルンでさえあったならば気付いていたろう。けれどもその時、イェルンはいつもの彼ではなかったのだ。
壁一枚、隔てたかのように他人事。魔力の気配には敏感だが、魔力もない、暗殺者の消し去られた気配などはほとんど追えなかったのだ。
またとない好機。彼がそれを、見逃すはずもなかった。その隙を狙い、男の持つ刃物がイェルンに牙を剥く――。
「んなッーー!」
だが、その刃はイェルンに当たる事はなく。突如横から伸びてきた手によって阻まれた。その手は、イェルンの首を狙ったその刃に掴みかかっていた。次々と血が滴り、ポタポタと地面に赤いシミを作る。
その突然の乱入に驚いたのは、何も刃を向けた男ばかりではない。声に反応して素早く背後を振り向いたイェルンもまた、先程までの様子が嘘のように驚きの表情を浮かべていた。
まるで、長い長い夢から覚めたかのように、その淡いブルーの瞳の奥に微かな意志が宿る。
「――ディー、トリヒ……」
まるで夢見心地に呟くかのような声音だった。イェルンはジッと、その時のディートリヒの横顔を眺めていた。
彼の顔には、微かな怒りの色が見られた。感情の薄い、いっそほとんど見られなかったあのディートリヒが。イェルンがそれだと分かる程に怒っている。
イェルンはそこで、ぼんやりとしながら不思議に思った。ディートリヒは一体、何を怒っているんだろうか、と。夢見心地にイェルンは心の中で呟く。
「だから、言ったんだ」
突然、ポツリと溢れ出てしまったかのように。怒りすら滲ませた声音でそう言うと、ディートリヒは。
イェルンが追えぬ程の速度で、男に何かをした。
何も見えなかった。気が付けば、イェルンに刃を向けてきたその男は、宙を舞っていたのだ。
そこからは、イェルンが再び男達を攻撃する事は無かった。
そうするよりも早く、ディートリヒが、 黒尽くめの彼等を蹴散らしていったのだ。場に漂う冷気なぞモノともせず。身体の不調すらも、老いすらも感じさせぬ程の暴れっぷりで。
ひたすら彼等から逃げ続けていた時とは大違いだった。攻撃は最大の防御とはよく言ったもので、一度屠ると決めたならばもう、ディートリヒは今なお優秀な兵器なのである。
まるで先程までのイェルンのように、ディートリヒは彼等を次々と地へ転がしていった。倒れた者達はもう、二度と立ち上がれまい。腹を括ったホンモノの殺し屋は、決して下手を打たないのである。
それからどれ程の時間が経っただろうか。イェルンはその間ずっと、ディートリヒの姿をただ眺めていた。
目にも留まらぬ速さで駆け抜け、まるで死神か何かのように、奪った相手の刃で急所を一閃する。敵の短剣もナイフも暗器ですら、彼に当たろうはずもなかった。元が違いすぎた。
例え全盛期は過ぎたとて、彼等の一族は夜を駆ける戦士なのだから。
そうしていつの間にやら戦いの気配は消え去り、周囲はすっかり静けさに包まれた。
「――大丈夫か?」
いつ、それが終わったのかも分からぬまま、イェルンがぼんやりと何処かを眺めていると。彼のすぐ傍から声が聞こえてきた。
ゆっくりと緩慢な動作で見上げれば。ディートリヒは、イェルンのすぐ近くにまで寄って来ていた。
月明かりに背後から照らされ、彼の白髪がまるで銀糸のように輝いて見える。暗がりで顔はよく見えないけれども、きっとその目は、アメジストのような淡い紫色を湛えているのだろう。きっと、ちゃんとみえればそれは、想像するよりももっと美しい色で輝いているに違い無い。
ああまるで、それは自分を迎えに来た死の天使か何かのようだ。イェルンはその時何を言われているのか考えも及ばず、ただそうやって見つめるだけ。そんなイェルンが、今や正気で無い事は、ディートリヒの目にも明らかだった。
そんな、返答も碌にできない様子のイェルンにディートリヒは。一瞬の戸惑いの後で。氷の岩に腰掛けたままの彼の肩口に、正面から、顔を埋めたのだった。彼のその肩は、微かに震えている。
「よか、った……」
大きく息をつく音と共に漏れ出た小さな声もまた、微かに震えていたかもしれない。けれども今のイェルンは、そんな事にさえ気付けなかった。
しばらくそうしていた後で。ディートリヒは、イェルンの傍からかすかに体を離した。それでも尚ぼんやりとしたままのイェルンを、ディートリヒは腕を引きながらゆっくりと連れ出す。
「帰ろう」
ポツリ、ディートリヒによって静かに口にされた言葉にもやはり、イェルンは応える事はなかった。けれども大人しく、ディートリヒについてゆっくりと歩き出す。
ここ数ヶ月ですっかり歩き慣れた道を、ディートリヒとイェルンが進んでいった。途中まで凍り付いてしまった森はしかし、ある一線を越えてしまえば元の姿のままを保っていた。あの戦闘のあった一帯は、しばらくの間あのように凍り付いたままだろう。夏には涼しくて、休憩には丁度良いのかもしれなかったが。その頃まで、ディートリヒとイェルンがそこに居るかは分からない。
そのような中を、来た時と同じように草木を掻き分け、安全な道を選んでディートリヒは進む。
虫の声と草木の擦れる音だけが響く静かな森の中。先程までの喧騒なぞ最初から無かったかのように、ひどく穏やかな夜だった。
そうして半刻程も歩けば、そこはもうイェルンの住む家だった。宮廷魔法使いにも、魔女にもおよそ似つかわしく無い、小さく小ぢんまりとした家だ。
家に入るなり、ディートリヒはイェルンを連れて真っ先に寝室へと向かった。つい数時間前までは、普段通りにふたりで好き勝手騒いでいたはずなのに。そんな気配はとっくに消え失せてしまっていた。
ディートリヒはまず、様子のおかしいイェルンをベッドへと座らせた。普段とはまるで逆の立場に、ディートリヒは何とも言えない気分を味わう。
そこまできてとうとう、熱を持ち始めた手の平を庇いつつ、ディートリヒはここで自分が出来ることに思考を巡らせた。少しでも腰を落ち着けてしまえば、ディートリヒはこの後きっと動けなくなるに違い無い。
けれど今、彼は倒れる訳にはいかないのだ。イェルンはきっと、自分の所為でこうなってしまっているのだから。彼が自分を取り戻すまでは、ディートリヒが何とかしなければなるまいと。
それでもディートリヒの気分はすぐれなかった。いつ、元のイェルンに戻るのか。そもそも元の彼に戻るのか。戻ったところで、イェルンは普段通りに自分と接してくれるのか。
ディートリヒは内心、不安で堪らない。自分の不調など忘れてしまう程に。
「そこで、待ってろ」
そう言って寝室を出ると、手慣れたように茶を沸かす。最早この家の家主程に知り尽くしたキッチンには、イェルンが好きなものに加えて、今やディートリヒが気に入ったものも多数、取り揃えてあった。
何を考えているのかさっぱり分からないと、そう言われるのが常であったのに。一体どうやってバレるのか、イェルンは目敏くディートリヒの好みをたちまち見抜いてしまうのだ。
ディートリヒはまさか、自分がこんな普通の生活が送れるだなんて想像すらもしていなかった。
だからだろう。今は、この生活が壊れる事が恐ろしくて堪らないのだ――。
◇ ◇ ◇
イェルンが目を覚ましたのは、いつもよりも遅い、昼も近い時分だった。
窓から見える日差しはすっかり熱を帯び、照り付けるような日差しをもたらしてくる。普段ならばすっかり家事を終え、昼の支度を始めるような時間だろうに。
イェルンは窓の外を眺めながら不思議に思った。何故、今日に限ってこんな時間に起きたのだろうか、と。昨晩は、一体何をしていたのだったか――。
そこまで考えた所で、イェルンは飛び起きた。何があったのか。何を見たのか。何をしたのか。イェルンは鮮明に思い出してしまった。
「ッ――!」
イェルンは起き上がってまず始めに、ディートリヒの姿を探した。キョロキョロと周囲の気配を探り、慌ててベッドから降りようと視線を下に下ろし。
そこでようやく、イェルンは目的の人物を見つけ、動きをピタリと止めた。
探し回ったディートリヒは、イェルンの側に椅子を置いてそこに座り、ベッドに上半身を預けながらその場で眠っていたのだ。
ホッと詰めていた息を吐き出すのと同時にしかし、イェルンは気付いてしまった。眠るディートリヒの息が荒い。心なしか苦悶の表情が見える。
途端、再び焦燥感を覚えたイェルンは、慌ててその額に手を当てる。案の定、熱があった。早く寝かせて身体を癒やさなければ。そう逸る心を押さえ込み、真っ先にディートリヒの様子を観察した。理由は何だ。あの程度の怪我で彼がこうなるものかと。
そして次に、イェルンはディートリヒが右手を庇うように、胸の前で両手を抱え込んでいることに気が付いた。それを身体の下からそっと引っ張り出してやれば、しっかりと巻かれた包帯に、赤黒く変色した血が滲んでいた。
そこでイェルンは、目を覚ます気配の無いディートリヒをそっと抱え上げると、自分が眠っていたベッドの上へと引き摺り上げた。
最早、意識のない彼を介抱するのも手慣れたもの。彼はディートリヒの用意したであろう椅子に腰を下ろしながら、巻かれた包帯を解いていった。
それは、イェルンを庇う為に彼が受けた傷だ。いくらディートリヒが勝手にやったのだとはいえ、暴走していた自分にもその責はある。彼は珍しく焦っていた。
そして、とうとう現れた傷口を見て、イェルンは思い切り眉根を寄せた。
「毒、か……そりゃあ使うよね。暗殺者だし……」
珍しく顰めっ面をしながら、イェルンは紫色に変色したその傷口に、黙って魔法をかけた。魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。回復魔法や解毒魔法なぞもお手の物である。
その、はずだった。だが、いつまで経っても消える様子のない毒の様子にひとつ、イェルンは眉根を寄せた。
(僕の魔法が効かない――新種か)
彼は舌打ちをした。イェルンの手にかかれば、解毒の効かぬ毒なぞはこの世に存在しないはずだった。もし、そんなものがあるのだとすれば。それはイェルンの知らぬ新たな毒物。それも、魔法耐性のあるものに違いないのである。
魔法の効かない毒というのは、大抵が人工的に造られたものである。毒を精製する段階であらゆる魔法をかけ、組み合わせ、魔法や魔力への耐性をつけてしまうのだ。
完成さえしてしまえば、それは製作にとんでもなく時間がかかり高価だしかし、並の魔法使いには手も足も出ない程には強力で、そして解毒にはかなりの時間がかかるようなそんな代物が出来上がる。最早それは、死を免れぬ猛毒とでも言えよう。そんな毒物が出来上がってしまう。
だがここでひとつ、考えてみよう。イェルンは魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。いくら魔法耐性があろうと、解毒など容易くやってのけてしまう魔法使いだった。
だからこそ、そんな魔女ですら梃子摺る毒があるとすれば。それは新たな耐性をつけた、最も強力なものであるに違いないのである。
(この、僕にできない事なんてこの世にある筈が無い。絶対、今それはあってはならない。ディートリヒは、僕のなんだからーー)
怒れる魔法使いイェルンは、ありったけの知識と魔力と道具を使い、その後一日中、ディートリヒの治療に専念したのだった。
来るもの拒まず、去る者追わず。淡白だった筈のイェルンは今、驚く程の熱量で、たった一人を生かす為に、毒とすらも格闘する――。
まるで飛び回る羽虫を叩き落とすが若く。一人、また一人とソレが消えようが、何とも思わなかった。
「ッば、化け物が――!」
幾度となく呼ばれた呼び方で、誰にそう呼ばれようが、イェルンには最早どうでも良かった。そこいらの虫も、獣も、人ですら同じ。自分に害なすものは皆、ただの動き回る物体に過ぎない。
久々に己の魔力に存分に浸されたイェルンは、すっかり酔ってしまっていた。この世で強大な力を持つ魔法使いが皆、悩まされるというその症状に。
『魔女』と呼ばれる者達がこぞって人の世を離れるのは、己の魔力が及ぼす影響の大きさを危惧しての事。それは確かに真実ではあるのだが、それは理由の半分に過ぎなかった。そのもう半分が今、イェルンの陥っている症状のせいだ。
魔法を使えば使うほど、その魔力に浸されれば浸されるほど、彼等は皆、人のとしての心を何処かに置いてきてしまう。魔力そのもののせいなのか、それとも巨大すぎる力に精神が耐え切れなくなるからなのか。実際のところは誰にも分からない。
しかしけれども、それは身に纏う強大な魔力と共に、周囲には多大な影響を及ぼすのである。
「ヒッ、あーーー」
またひとり、その場から人間が減った。
イェルンの周囲一帯はもはや氷で覆われ、そんな季節では無いにも関わらず凍えるような冷気が漂っている。呼吸をすれば、吐き出した息は白く濁った。木々すらも凍りつき、滴れる氷柱は地に到達するほど育っている。
イェルンはそんな中、氷で出来た岩のような塊の上にただひとり座っていた。如何なる感情すらも浮かべず、遠くから淡々と人を襲う。まるで神か精霊かのように。
「あんなの――、敵うはずがない……」
誰かが小声で呟くのを、その場で誰も肯定しない。言わずとも、見れば分かる。出会ってしまったが最期、その怒りを買ってしまったが最期。その怒りに触れてしまったらもう、生きては帰れない。
あっという間に、その場にいた魔法使いは4人全てが狩り尽くされてしまった。何せ魔法使いというのは、誰も彼もプライドが高く、己が負けるはずが無いと理由もなく信じている――否、理由はもちろんあるが。
しかし、圧倒的な魔女の力の前には、国一番の宮廷魔法使いだろうが、そこいらの雑魚魔法使いだろうが、唯の人間と大差はないのだ。だから率先して突っ込み、そして率先して死ぬ。
死ぬ間際まで、彼らは己の勝利を信じてやまないのだ。
イェルンが魔法使いが厄介だと言ったのは、ただ単に自分の魔力の大部分を無理矢理押さえ付けたままでは狩りにくい、という一点につきる。今やその押さえ付けていた部分も全部、ついうっかり洩らしてしまって、イェルンはこんな状態になってしまっている訳で。
こうなってはもう、彼は敵を殺し尽くすまで止まらないだろう。そして、次にイェルンが気付いた時には。そこいら一帯はおそらく、永久凍土が如く人の住めぬ土地へと変わり果ててしまうのだ。
忙しなく動き回る彼等を一人、また一人と潰していく。まるで、地を這う虫を踏み潰してゆくが如く、捻り潰す。
だがそんな時の事だった。
イェルンの死角に、運良く滑り込んだ者が居た。
気配を徹底的に消し去り、音もなく獣のように素早く背後に、上手く回り込んなのだ。生きるか死ぬか、彼も必死だっただろう。それは、わずかばかりのチャンスを生み出した。
普段のイェルンでさえあったならば気付いていたろう。けれどもその時、イェルンはいつもの彼ではなかったのだ。
壁一枚、隔てたかのように他人事。魔力の気配には敏感だが、魔力もない、暗殺者の消し去られた気配などはほとんど追えなかったのだ。
またとない好機。彼がそれを、見逃すはずもなかった。その隙を狙い、男の持つ刃物がイェルンに牙を剥く――。
「んなッーー!」
だが、その刃はイェルンに当たる事はなく。突如横から伸びてきた手によって阻まれた。その手は、イェルンの首を狙ったその刃に掴みかかっていた。次々と血が滴り、ポタポタと地面に赤いシミを作る。
その突然の乱入に驚いたのは、何も刃を向けた男ばかりではない。声に反応して素早く背後を振り向いたイェルンもまた、先程までの様子が嘘のように驚きの表情を浮かべていた。
まるで、長い長い夢から覚めたかのように、その淡いブルーの瞳の奥に微かな意志が宿る。
「――ディー、トリヒ……」
まるで夢見心地に呟くかのような声音だった。イェルンはジッと、その時のディートリヒの横顔を眺めていた。
彼の顔には、微かな怒りの色が見られた。感情の薄い、いっそほとんど見られなかったあのディートリヒが。イェルンがそれだと分かる程に怒っている。
イェルンはそこで、ぼんやりとしながら不思議に思った。ディートリヒは一体、何を怒っているんだろうか、と。夢見心地にイェルンは心の中で呟く。
「だから、言ったんだ」
突然、ポツリと溢れ出てしまったかのように。怒りすら滲ませた声音でそう言うと、ディートリヒは。
イェルンが追えぬ程の速度で、男に何かをした。
何も見えなかった。気が付けば、イェルンに刃を向けてきたその男は、宙を舞っていたのだ。
そこからは、イェルンが再び男達を攻撃する事は無かった。
そうするよりも早く、ディートリヒが、 黒尽くめの彼等を蹴散らしていったのだ。場に漂う冷気なぞモノともせず。身体の不調すらも、老いすらも感じさせぬ程の暴れっぷりで。
ひたすら彼等から逃げ続けていた時とは大違いだった。攻撃は最大の防御とはよく言ったもので、一度屠ると決めたならばもう、ディートリヒは今なお優秀な兵器なのである。
まるで先程までのイェルンのように、ディートリヒは彼等を次々と地へ転がしていった。倒れた者達はもう、二度と立ち上がれまい。腹を括ったホンモノの殺し屋は、決して下手を打たないのである。
それからどれ程の時間が経っただろうか。イェルンはその間ずっと、ディートリヒの姿をただ眺めていた。
目にも留まらぬ速さで駆け抜け、まるで死神か何かのように、奪った相手の刃で急所を一閃する。敵の短剣もナイフも暗器ですら、彼に当たろうはずもなかった。元が違いすぎた。
例え全盛期は過ぎたとて、彼等の一族は夜を駆ける戦士なのだから。
そうしていつの間にやら戦いの気配は消え去り、周囲はすっかり静けさに包まれた。
「――大丈夫か?」
いつ、それが終わったのかも分からぬまま、イェルンがぼんやりと何処かを眺めていると。彼のすぐ傍から声が聞こえてきた。
ゆっくりと緩慢な動作で見上げれば。ディートリヒは、イェルンのすぐ近くにまで寄って来ていた。
月明かりに背後から照らされ、彼の白髪がまるで銀糸のように輝いて見える。暗がりで顔はよく見えないけれども、きっとその目は、アメジストのような淡い紫色を湛えているのだろう。きっと、ちゃんとみえればそれは、想像するよりももっと美しい色で輝いているに違い無い。
ああまるで、それは自分を迎えに来た死の天使か何かのようだ。イェルンはその時何を言われているのか考えも及ばず、ただそうやって見つめるだけ。そんなイェルンが、今や正気で無い事は、ディートリヒの目にも明らかだった。
そんな、返答も碌にできない様子のイェルンにディートリヒは。一瞬の戸惑いの後で。氷の岩に腰掛けたままの彼の肩口に、正面から、顔を埋めたのだった。彼のその肩は、微かに震えている。
「よか、った……」
大きく息をつく音と共に漏れ出た小さな声もまた、微かに震えていたかもしれない。けれども今のイェルンは、そんな事にさえ気付けなかった。
しばらくそうしていた後で。ディートリヒは、イェルンの傍からかすかに体を離した。それでも尚ぼんやりとしたままのイェルンを、ディートリヒは腕を引きながらゆっくりと連れ出す。
「帰ろう」
ポツリ、ディートリヒによって静かに口にされた言葉にもやはり、イェルンは応える事はなかった。けれども大人しく、ディートリヒについてゆっくりと歩き出す。
ここ数ヶ月ですっかり歩き慣れた道を、ディートリヒとイェルンが進んでいった。途中まで凍り付いてしまった森はしかし、ある一線を越えてしまえば元の姿のままを保っていた。あの戦闘のあった一帯は、しばらくの間あのように凍り付いたままだろう。夏には涼しくて、休憩には丁度良いのかもしれなかったが。その頃まで、ディートリヒとイェルンがそこに居るかは分からない。
そのような中を、来た時と同じように草木を掻き分け、安全な道を選んでディートリヒは進む。
虫の声と草木の擦れる音だけが響く静かな森の中。先程までの喧騒なぞ最初から無かったかのように、ひどく穏やかな夜だった。
そうして半刻程も歩けば、そこはもうイェルンの住む家だった。宮廷魔法使いにも、魔女にもおよそ似つかわしく無い、小さく小ぢんまりとした家だ。
家に入るなり、ディートリヒはイェルンを連れて真っ先に寝室へと向かった。つい数時間前までは、普段通りにふたりで好き勝手騒いでいたはずなのに。そんな気配はとっくに消え失せてしまっていた。
ディートリヒはまず、様子のおかしいイェルンをベッドへと座らせた。普段とはまるで逆の立場に、ディートリヒは何とも言えない気分を味わう。
そこまできてとうとう、熱を持ち始めた手の平を庇いつつ、ディートリヒはここで自分が出来ることに思考を巡らせた。少しでも腰を落ち着けてしまえば、ディートリヒはこの後きっと動けなくなるに違い無い。
けれど今、彼は倒れる訳にはいかないのだ。イェルンはきっと、自分の所為でこうなってしまっているのだから。彼が自分を取り戻すまでは、ディートリヒが何とかしなければなるまいと。
それでもディートリヒの気分はすぐれなかった。いつ、元のイェルンに戻るのか。そもそも元の彼に戻るのか。戻ったところで、イェルンは普段通りに自分と接してくれるのか。
ディートリヒは内心、不安で堪らない。自分の不調など忘れてしまう程に。
「そこで、待ってろ」
そう言って寝室を出ると、手慣れたように茶を沸かす。最早この家の家主程に知り尽くしたキッチンには、イェルンが好きなものに加えて、今やディートリヒが気に入ったものも多数、取り揃えてあった。
何を考えているのかさっぱり分からないと、そう言われるのが常であったのに。一体どうやってバレるのか、イェルンは目敏くディートリヒの好みをたちまち見抜いてしまうのだ。
ディートリヒはまさか、自分がこんな普通の生活が送れるだなんて想像すらもしていなかった。
だからだろう。今は、この生活が壊れる事が恐ろしくて堪らないのだ――。
◇ ◇ ◇
イェルンが目を覚ましたのは、いつもよりも遅い、昼も近い時分だった。
窓から見える日差しはすっかり熱を帯び、照り付けるような日差しをもたらしてくる。普段ならばすっかり家事を終え、昼の支度を始めるような時間だろうに。
イェルンは窓の外を眺めながら不思議に思った。何故、今日に限ってこんな時間に起きたのだろうか、と。昨晩は、一体何をしていたのだったか――。
そこまで考えた所で、イェルンは飛び起きた。何があったのか。何を見たのか。何をしたのか。イェルンは鮮明に思い出してしまった。
「ッ――!」
イェルンは起き上がってまず始めに、ディートリヒの姿を探した。キョロキョロと周囲の気配を探り、慌ててベッドから降りようと視線を下に下ろし。
そこでようやく、イェルンは目的の人物を見つけ、動きをピタリと止めた。
探し回ったディートリヒは、イェルンの側に椅子を置いてそこに座り、ベッドに上半身を預けながらその場で眠っていたのだ。
ホッと詰めていた息を吐き出すのと同時にしかし、イェルンは気付いてしまった。眠るディートリヒの息が荒い。心なしか苦悶の表情が見える。
途端、再び焦燥感を覚えたイェルンは、慌ててその額に手を当てる。案の定、熱があった。早く寝かせて身体を癒やさなければ。そう逸る心を押さえ込み、真っ先にディートリヒの様子を観察した。理由は何だ。あの程度の怪我で彼がこうなるものかと。
そして次に、イェルンはディートリヒが右手を庇うように、胸の前で両手を抱え込んでいることに気が付いた。それを身体の下からそっと引っ張り出してやれば、しっかりと巻かれた包帯に、赤黒く変色した血が滲んでいた。
そこでイェルンは、目を覚ます気配の無いディートリヒをそっと抱え上げると、自分が眠っていたベッドの上へと引き摺り上げた。
最早、意識のない彼を介抱するのも手慣れたもの。彼はディートリヒの用意したであろう椅子に腰を下ろしながら、巻かれた包帯を解いていった。
それは、イェルンを庇う為に彼が受けた傷だ。いくらディートリヒが勝手にやったのだとはいえ、暴走していた自分にもその責はある。彼は珍しく焦っていた。
そして、とうとう現れた傷口を見て、イェルンは思い切り眉根を寄せた。
「毒、か……そりゃあ使うよね。暗殺者だし……」
珍しく顰めっ面をしながら、イェルンは紫色に変色したその傷口に、黙って魔法をかけた。魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。回復魔法や解毒魔法なぞもお手の物である。
その、はずだった。だが、いつまで経っても消える様子のない毒の様子にひとつ、イェルンは眉根を寄せた。
(僕の魔法が効かない――新種か)
彼は舌打ちをした。イェルンの手にかかれば、解毒の効かぬ毒なぞはこの世に存在しないはずだった。もし、そんなものがあるのだとすれば。それはイェルンの知らぬ新たな毒物。それも、魔法耐性のあるものに違いないのである。
魔法の効かない毒というのは、大抵が人工的に造られたものである。毒を精製する段階であらゆる魔法をかけ、組み合わせ、魔法や魔力への耐性をつけてしまうのだ。
完成さえしてしまえば、それは製作にとんでもなく時間がかかり高価だしかし、並の魔法使いには手も足も出ない程には強力で、そして解毒にはかなりの時間がかかるようなそんな代物が出来上がる。最早それは、死を免れぬ猛毒とでも言えよう。そんな毒物が出来上がってしまう。
だがここでひとつ、考えてみよう。イェルンは魔女とまで呼ばれた魔法使いだ。いくら魔法耐性があろうと、解毒など容易くやってのけてしまう魔法使いだった。
だからこそ、そんな魔女ですら梃子摺る毒があるとすれば。それは新たな耐性をつけた、最も強力なものであるに違いないのである。
(この、僕にできない事なんてこの世にある筈が無い。絶対、今それはあってはならない。ディートリヒは、僕のなんだからーー)
怒れる魔法使いイェルンは、ありったけの知識と魔力と道具を使い、その後一日中、ディートリヒの治療に専念したのだった。
来るもの拒まず、去る者追わず。淡白だった筈のイェルンは今、驚く程の熱量で、たった一人を生かす為に、毒とすらも格闘する――。
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fujossyや小説家になろうにも掲載中。
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