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壊れてしまえと
しおりを挟むチカゲはぼんやりとした表情で、風を受けながら空を眺めていた。
随分と昔、生まれ故郷である日本で見たような一面のスカイブルー。空も海も、そして草木ですら青青として、故郷と何一つ違いがない。さんさんと光り輝く太陽の下、雄大な自然を残す大地が目下に広がっている。心地のよい、けれど少しばかり冷たさを含む風がひゅうと抜けていった。
まるで、自分がその頃からずっと変わらず故郷に居続けているかのよう。チカゲは気を抜けばそんな錯覚すら覚えそうになった。全く異なる世界で、全く異なる真理を持つ世界に居るのだとしても、それは唯の自分の妄想なのではないかと。
もう二度と、あの地には戻れるはずなどないのに。
チカゲが今、人を乗せられるほどに巨大な大鷹に乗り、主人と共に国々を飛び越え移動している最中だなんて。それこそがまるで、ただの自分の頭の中での妄想であるかのように錯覚してしまう。
「セヴラン、ちゃんと掴まれ。落ちるぞ」
セヴラン。それは今の主人が呼ぶ彼の名前だ。本当の名前はチカゲというのだけれども、この国の言葉を話すことも理解する事もできなかったチカゲを、この主人はセヴランと名付けた。
だからチカゲは、主人と居る時はセヴランなのだ。
遠い目をしていたチカゲに気付いたのか、チカゲの主人は優しく背後から声をかけると、腕を腰に回して彼を抱き寄せた。
彼が顔を後ろへと向けると、見慣れた涼しげな美貌が彼を見下ろしているのが見えた。その右頬をザックリと抉る醜いい傷さえなければ、彼はきっと貴族だと言われても遜色はないだろう。
こんな事さえしていなければ、人を惹きつける彼の素晴らしい能力は、きっとどこでも歓迎されたはず。チカゲの主人はそういう男だった。
チカゲがその声に応えるように首を縦に振ると、薄い表情の中に微かな笑みが宿る。慣れた者にしか解らない程度の微かな変化だったが、チカゲにとっては十分なものだった。
満足気だ。そんな感想を持ちながら、チカゲは再び前を向き、背中に身を寄せる逞しい肉体に身体を預けたのだった。
今から数年程前の話。
チカゲは突然、この地へやって来た。連れて来られた、というのが正しい。学生だったチカゲは帰宅途中、近くを歩いていた高校生程の男子と共に、この地へと引き摺り込まれてしまったのだ。
突然足元に現れ、瞬く間に二人の姿を覆い尽くしてしまった眩いばかりの白い閃光。それが消え、二人が目を開けると、何処とも分からないだだっ広い部屋のど真ん中に立っていたのだ。まるで西洋の教会のような、神殿のような、厳かな雰囲気の白い建物。
訳も分からず混乱する中、二人の目の前には、これまた白く煌びやかな衣服に包まれた男達が雁首を揃えて並び立っていた。
ニコリともせず、緊張したような面持ちで、或いは威圧するような気配を滲ませて、彼等は二人の周囲をぐるりと取り囲んでいたのだ。口々に何事かを語りかけ、懇願するように、或いは脅し付けるように、言葉を発していた。
チカゲは恐怖した。チカゲには彼らの言葉がまるっきり理解できなかったのだ。ただ、その場の雰囲気くらいは伝わって来る。
歓迎する気はあるのだろうけれども、上から押さえ付けるかのような言い方が、より一層チカゲの恐怖心を煽った。
この時ひとつ、チカゲにとって救いだったのは、共にやってきた高校生――名をユウキと言った――が、彼等の言葉を理解出来るという点だった。
チカゲの言葉も、彼等異世界の言葉も、ユウキは不思議と理解出来たのだ。
チカゲはユウキに縋った。言葉も事情すらも理解出来なかったチカゲにとって、ユウキは正しく命綱だったのだ。
そんなユウキのお陰で、チカゲもまた事の顛末を知る事ができた。二人は元居た世界とは別の世界へ召喚されたのだと。そして、魔のものに侵されたこの国を救って欲しいとも。自分達だけでは手に負えない。
寝耳に水も良いところである。しかも、それだけではなかった。それに驚く二人に、更に追い討ちをかけるような事実が明かされる。
この異世界から元の世界へは帰る手段がないのだと言う。
チカゲも、そしてユウキも言葉を失った。目の前に突き付けられたのは、二度と普通には暮らせないという酷い現実だった。
ユウキは高校生だと言うのに、大人顔負けに抗議した。けれども、彼らの言葉を理解できず喋ることもできないチカゲは、その様子をただ不安そうに見つめる事しかできなかったのだった。
それからの暮らしは、そう悪いものではなかった。環境や習慣は全く違えども、その国の王城や神殿での暮らしは快適だったのだ。
ユウキに付き合ってもらいながら言葉を習ったり、この国での習慣や歴史を習ったり、生活はそれなりに充実していた。
ただそれも、ユウキが居たからこそ出来た事で。その国でのチカゲの暮らしは、ユウキという存在に大きく依存していた。何をするにも彼の傍に着いて行く。
慣れとは怖いもので、そのような生活が半年も続けば、チカゲは側にユウキの存在が在る事を当たり前だと思うようになった。彼が居なければ、チカゲは不安で堪らない。言葉が少し分かるようになってからは一層、チカゲはユウキに依存するようになっていった。
――ユーキ様が居なければお前など……
ユウキの居ない所で度々言われる言葉に、チカゲは恐怖した。ユウキの傍でなければ自分は生きていけない。チカゲはそう、思わされていた。
召喚術という技術は、召喚した者に有利に働くように出来ている。召喚物は召喚者の言葉や命令が理解出来るよう、その性質を書き換えられてこの世界へとやって来るのだ。ユウキがそうであったように。
だからこそ、ユウキのおまけとして付いて来たチカゲは、彼等にとっては異様な存在だったのだ。召喚者の力の及ばぬ召喚物なぞは気味が悪い。手元に置く事すら憚られる。
彼等のそんな気持ちは、言わずともチカゲにも伝わっていたのだ。だから一層、チカゲはユウキの傍を離れなかった。
召喚物であるはずのチカゲが、何故彼等の言葉を理解出来なかったのか。その理由をチカゲが知る事になるのは随分と後の事だったが。
それを知るよりも前に、チカゲは不幸な巡り合わせによって王城から追放されてしまった。正攻法ではない。
とある男の思惑によって、話す事を封じられ、記憶すら封じられて。チカゲは何処とも解らぬ土地へと転送されてしまったのだった。
突然現れた、記憶も身寄りもない小綺麗な男なぞ、その地では人買いの好い餌食だった。すぐにその手の商人にとっ捕まり、チカゲは売られた。言葉も満足に解らぬまま、話す事も出来ず、チカゲはされるがままだった。
最初は貴族の家に売られた。次も貴族だった。その次は、何処かの怪し気な組織へと売られた。そして流れ流れ、チカゲは不良品として今の主人の元へやって来たのだった。
チカゲにはある種の才能があった。それに初めて気付いたのは、今の主人だった。
それが故に、チカゲはそこで様々な訓練を受けさせられた。死ぬほど辛い思いをして様々な技術を叩き込まれ、危ない事も沢山やらされた。
けれどもその頃にはもう、チカゲはすっかり感覚が麻痺してしまっていた。幸せだった日本での過去の事ですら、すっかり忘れてしまう程に。
どうしてだか声は出ないし、自分が何故このような異世界に来たのか、理由も解らない。
しかし既に、チカゲにはそんな事はどうでも良かった。ただ少しでも良い方へ転がるだけ。そう考えたチカゲは、ただ従順に命令に従った。
今の主人は、これでも幾分かマシだった。
愛玩動物のように扱われる事も無かったし、暴力もそれ程酷くは無かった。知識や戦いの技術を叩き込まれ、すべき仕事を与えられ、それの成功に応じてそれなりの報酬が手に入る。
元々売られた身で、契約に縛られる中ではチカゲに選択肢などない。だから再び売られぬよう、チカゲはただ成功を積み重ねるだけだった。
チカゲには才能があった。故にそのお陰で、チカゲはかの組織におけるボスである主人の目に留まり、こうして主人と共に彼等の目的を果たす為にとある国へと向かっているのだ。
「もうすぐ着く。着いたら拠点に行くぞ。しばらく補給を整えたら進軍だ」
何も無いチカゲの中にも、たった一つだけやらなければならない事があった。
あの国へ行く。理由は解らない。けれども自分はそうしなければならないと理解していて、チカゲはその事だけを考え生き抜いてきた。話せないが故に、それを誰かに伝えた事はなかったが。
「セヴラン、今回はお前が最前線だ。いつものように引っ込んで貰う訳にはいかない。突撃したらまず――あの連中の息の根を止めろ」
けれどももしかしたら、そんなチカゲの目的を主人も察しているのかもしれない。だからこうしてかの国に向かう中で。
チカゲをその傍に置き、同じ大鷹に乗せているのだ。チカゲを利用しようとしているのかもしれないけれども、彼はこの好機を逃す訳にはいかなかった。
チカゲの主人の事だ。国を渡る程の大規模な作戦を行うだなんて、ロクでもない理由だろうというのは分かりきっている。
けれども、自分が自分の為に動いた事で誰がどうなろうとも、最早チカゲの知った事では無い。勝手にこんなクソみたいな世界に来させられて、右も左も解らぬままに放り出され、この身を好き勝手に蹂躙されたのだ。どうして好きになれようか。
破滅こそ願えど手助けなんぞはもってのほか。チカゲはもう、全部ぶっ壊れてしまえばいい、本気でそう思っていた。
主人による極単純な命令にこくりと頷くと、チカゲは不思議と胸を昂らせていた。じわじわと目下に見えて来た大都市を眺め、破壊の衝動に胸が躍る。
戻って来た、などという感動などでは決してない。何せその事をチカゲは忘れているはずだから。
それは、来たる戦闘に対する昂りだった。
「珍しくヤル気だな。頼むから、間違って俺達を吹っ飛ばしてくれるなよーー」
身の内に宿る炎をこれでもかと滾らせていたチカゲに、主人は嗜めるようにチカゲの頭を優し気に撫で付ける。どうしてだかそれが心地良くて、チカゲは人知れず目を細めた。
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