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しおりを挟むベアトリーチェは変装したミルコに対して、男爵令嬢の誘拐と監禁を依頼した。アルバーノの知人の紹介だと言えば、彼女はミルコを疑いもしなかった。アルバーノがバッソフォンドの出身である事をベアトリーチェは知っている。アルバーノに後ろ暗い人間との繋がりがあっても、彼女は微塵もアルバーノを疑わないのである。
ミルコへの依頼も元々は、かの令嬢をほんの少し脅かすだけの目的で、閉じ込めるだけで何もするなというような依頼だったのだ。
『あの女に思い知らせて差し上げて。将来王妃になるというのがどれほどのものか……』
そこにはきっと嫉妬だってあったのかもしれない。
公爵令嬢として――将来の王妃としての役割を期待される者に求められる立ち振る舞いは、一朝一夕でどうにかなるようなものではなかった。足を掬われないよう毎日毎日、血のにじむような努力をしてきた。それをアルバーノも見てきたのだ。
それを、ぽっと出の苦労も知らなさそうな令嬢に奪われた。少しくらい八つ当たりしたって――、彼女がそう思うのも無理はなかった。
結局はそれが原因で何もかもが駄目になったのだが。
アルバーノが必要以上にやりすぎたのもきっと、ベアトリーチェの努力を知っていたからに他ならなかった。
王妃になるような人間は当然、誘拐騒ぎや暗殺などの標的にされやすい。何の後ろ盾もない、成り上がりの男爵家には絶対に荷が重いはず。ベアトリーチェはそれを、かの男爵令嬢に解らせる為にその小芝居を思い付いたのである。お前には不相応だ、今すぐその付き纏いを止めろと。さもなくば本当に危ない目に遭うだろうと。
だがその依頼にミルコは少しだけ手を加えた。もちろんそれも、アルバーノの指示である。
『嬢ちゃん、貴族ってのはあれだろ? 毎日のように風呂入っていい匂いのするもん体中に塗りたくってんだろ? 市中の女とは違ってよぉ……喰ってくれって言わんばかりじゃねぇか。俺らが味見したって別に、バレなきゃ問題ねぇよなぁ? どうせ嬢ちゃんは家には帰れないんだからよ』
『いや、いやあああー!! 来ないで!! 誰か、誰かああ!!』
かの男爵令嬢に対し、散々言葉で脅して乱暴を加えるフリを、それも王太子が助けに入る寸前に行ったのである。恐怖に泣き叫ぶ男爵令嬢と、怒りで我を忘れる王太子達。
『ッソフィア!! 貴、様ら……一匹残らず地獄へ落としてやる――!!』
『よくもソフィア姉を……お前ら、生きて帰れると思うなよ!!』
王族や貴族とは思えない口汚い言葉で威嚇する彼らを前に、逃げ惑うフリをするミルコ達御一行。現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。
しかしそのような中にあっても、ミルコ達はアルバーノの手引きでその場から見事に逃げ仰せた。そして王太子と男爵令嬢の恋はたちまち燃え上がってしまった、と言う訳である。
一歩間違えればミルコ達も首が飛んでいただろう。だが、そうはならなかったのがこのアルバーノの凄い所なのである。
アルバーノはその現場に敵役として紛れていた。変装に変装を重ねた上で王太子の護衛すら足止めし、何もしてませんよ、というていで公爵家へと報告に戻ったのだ。
アルバーノは見事、自身で作り上げたその計画を完遂してみせたのである。
アルバーノがしでかしたものはこれのみにとどまらなかったが、まさにそれが決定打となり、ベアトリーチェは婚約破棄されるに至った。怒りは人間の正常な判断力を失わせる。それをアルバーノは上手く利用したのだ。
お陰でアルバーノは夢を叶え、こうしてミルコに追加の報酬を取らせる今に至った、という訳である。
何て危ない橋を渡ったのだと人は言うだろうけれども。アルバーノにしてみればこんなものは序の口なのである。
騎士であり、そしてこの危険なバッソフォンドで泥水を啜りながら生きてきたアルバーノからすれば、こんなのはただの日常の一部、瑣末な出来事のひとつなのである。
ベアトリーチェの依頼の件で、不服そうにアルバーノを見るミルコに向かってアルバーノはいつものように言葉を返した。
「大丈夫だ。お前が例え公爵家に捕まったとしても、俺がちゃんと助けに入るつもりだった。俺が兄弟を見殺しにする訳ないだろ」
「……そんでお前、平民の命救ったヒーロー気取りすんだろ?」
「当たり前だろう。お嬢様があの屋敷で快適に暮らす為にも、俺の名は売っておかないとならない」
「そうやってあけっぴろげに言えるお前ってすげぇよな。……こんなんで大丈夫か? お嬢様に嫌われてねぇか?」
本気で心配したのか、ミルコは不安げにアルバーノを見やった。しかし、アルバーノはいつも通りに返事をするばかりだった。
「大丈夫だ。俺は真面目な騎士で通ってる。そんなヘマをする訳がない」
「さようでっか……」
投げやりにミルコが返事を返してその話は終わった。そして話題は、アルバーノがここへ来た目的の話へと移っていった。
「ミルコ、受け取れ。先日の報酬と、今月分のお前の取り分だ」
ローブの中に潜ませていた袋を取り出し、アルバーノがカウンターへと置いた。ズシリと重たいその袋の中には、国の金貨や銀貨が詰め込まれていた。平均的な平民の生活費の、おおよそ半年分にも相当するだろう。このバッソフォンドでは尚更、一生楽をして生きられる程には価値がある。
それを見ただけで察したのか、ミルコは一瞬目を見開くと、袋を開けて中を覗き込みながら感嘆の言葉を漏らした。
「……おおー、こりゃまたすげぇな……まいどあり」
「危険な分、ミルコ達にも報酬は惜しまない。兄弟としても、客としてもだ」
「おお……そりゃぁ殊勝な心掛けだな。……少しは俺も、労わって欲しいがな」
「……止めろ、俺の身も心もベアトリーチェ様のものだ。いくらミルコでも、お嬢様に捧げているものをおま――」
「ああーっ、はいはい分かった! その話はもういい! 俺が悪かったわ!」
「……そうか」
アルバーノは至極残念そうに呟いた。
「――んでよアル、今日来たのは報酬の為だけ、ってワケじゃないんだろ?」
そうして話に一区切りがついた所で。唐突にミルコがアルバーノへと尋ねた。
「ああ、そうだな。今月の依頼内容についてだが……引き続きお嬢様の周囲の護衛と、例の男爵家の動向を探っておいて欲しい」
アルバーノがそういった途端、ミルコは素っ頓狂な声で聞き返した。
「男爵家? ……お前がけしかけたあの成金のか?」
「そうだ」
「……何でまた、アレは使い終わったヤツだろう」
不思議そうに聞いてくるミルコに、アルバーノが丁寧に説明してやる。
「突然権力を持った人間が何かしでかさないとも言い切れない。お嬢様の今後のためにも、妙な行動を取らないかの監視役が欲しい」
「ああ……なるほどな、そういうもんか」
「ああ。お嬢様の邪魔になりそうなものば全部潰しておきたい。それと、あの令嬢周辺も一応は守ってやってくれ」
次々と出てくるアルバーノの不思議な頼みごとに質問を繰り返しながら、ミルコは分かったような分からないような声音で、うんうんと返事を返していった。
「あ? 男爵令嬢も?」
「そうだ。その内に俺も近衛として城に上がる。何かあれば把握しておきたい」
「ほう……さすがの騎士様だな」
「あの殿下も含めてお嬢様に近付かれては困る。お前にも出入りの商人として城に上がれるよう手配したい」
ふと何でもない事のように言ったアルバーノの一言に、ミルコは一際驚いたような声を上げた。
「おい待て、出入りの商人て……できんのかよそんな事」
王城へ出入りする商人。つまり、身元の確かで信用のある商人であるという証でもあるのである。
「渡した金で高級服飾店でも買い取れ。そういう所のオーナーともなれば、門前払いをされる事もないはずだ」
「買い取るったって……」
ミルコのそんな言葉に、アルバーノは用意してきた羊皮紙を2枚、カウンターに置いて見せてやった。
「これは、目ぼしい所をリストアップしたものだ。見ながら選べばいい。それとこれが――お前の身分証だ。程々に書き換えてある」
「ま、まじか……おい、これってつまり――」
「お前にもバッソフォンドの外に住んでもらいたい。ちゃんとした屋敷に住め」
そんなアルバーノの要求に、ミルコは一時言葉を失った。
バッソフォンドで暮らす人々の多くは、市民権を持っていない。つまり、その地区以外では暮らす事も儘ならないのだ。
バッソフォンドのあるデッラローヴ領地内では、家を借りるにも、そしてきちんとした仕事を得るのにすら市民権が要る。無駄に制度の整った公爵領ではそれが当たり前なのだ。市民権を持った民は、きちんとした身分の保証された人間とのみ安全な付き合いができる。一般的な民衆は手放しでそれを喜び、市民権の制度を高く評価するのである。
だが、バッソフォンドで暮らす者の場合にはそれが重荷になる。ほとんどの人間は市民権を持っておらず、一生同じような暮らしを余儀なくされる。まともな職にすらありつけない。
彼らの多くが、犯罪紛いの仕事をして稼ぐしかない。その結果としてバッソフォンド地区は、更なる汚名に塗れる事になるのである。
アルバーノのように、その能力を買われて貴族に拾われるだなんて幸運、普通はある訳がない。
ミルコもまた、例外なくその内の一人だった。
だからこそ、突然自分に齎されたものに頭が追い付けない。ミルコはまさにそんな表情をしていた。
「お前は家族のようなものだ。随分と時間がかかってしまったが……一緒にここまで頑張ってくれたお前へのプレゼントだ」
「……おう、そうか。今までで一番嬉しいわ……あんがとよ」
「同志として、共にお嬢様を守って欲しい」
「ああ、うん……お前の頭にはそれしか無いってのは分かってた」
「頼んだぞ」
「おう……や、それでも嬉しいわ。ここまでされちゃ、俺も本気出さねぇワケにもいかないわな。しばらくしたら挨拶に出向くわ。ちゃんとした、それなりの商人としてな」
「ああ。それを楽しみに待ってる」
そう言って互いに微笑み合い、二言三言穏やかに言葉を交わした後で。二人はそこで別れた。
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