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 聖魔導師ヨアキムは、城内の一室、己の書斎をウロウロとしながら焦燥に駆られて居た。何もかもが上手くいったはずなのに、その日はどうしてだか妙な胸騒ぎを覚えていた。


 幼き頃から神童と呼ばれ、何もかも彼の思い通りになってきた。ライバルは全て蹴飛ばし、教わるがまま汚い手も躊躇なく使い、欲しいものも何もかもを手に入れてきた。残すところ、あとひとつ。

 もうすぐ、最後の1つが手に入るのだ。

 計画通り、勇者とそれに通じている者共を消したところまでは順調だった。あとは邪魔な魔人達を一人残らず消すだけ。まるで盤上の駒を動かすが如く、ヨアキムはただ機械的に進めていった。

 手元に残った駒は、神殿に忠誠を誓う聖騎士達だ。勇者ほどではないものの、鍛え上げられた聖騎士達は驚くほど優秀だった。彼等は魔人達を敵視している。だからこそ、彼等はヨアキムの言うがままに次々と魔人を屠っていった。

 そのような優秀な聖騎士と言えども、敵わないものはあった。それは、魔王城の周囲に張られた結界だ。いかに主人を亡くしたとはいえ、その機構は未だ人知を超える力を保持し、忌々しい魔人達を保護し続けていた。何とも邪魔臭い、魔王の置き土産である。現状では彼にはどうすることもできず、ヨアキムは二の足を踏んでいた。

 あと一手、何かが欲しい。魔王も勇者も、彼を邪魔する者はもう何もいない。王に次ぐ強大な権力を得るまでもう少し、あともう少しなのに。
 ザワザワと落ち着かない胸の内と苛立ちとで、彼はただ部屋の中をウロウロするばかりだった。

 そんな時だ。
 ヨアキムは突然、背後に不審な気配を感じた。慌てて背後を振り返るが、しかしそこには何者も居ない。ドキドキと跳ねる心臓を抑えつけながら、ヨアキムは何が起こっても良いように臨戦態勢をとった。目には見えないがしかし、ヨアキムは確かに何かの気配を感じていた。ここのところ感じる妙な胸騒ぎに、ただ己が過敏に反応してしまっているのかもしれない。そうだとしても、この騒ついた心は鎮まる気配を見せなかった。

 ヨアキムは十分に警戒しながら、気配のした方、隣の部屋とを繋ぐ扉の方へとゆっくりと歩いていった。大きな音を立てながら思い切り扉を開いてやり、薄暗い部屋の中を覗く。
 しかし、やはり何も居ない。考え過ぎなのだろうか。彼はホッと一息つき、気を緩めながら部屋の扉を閉め、元居た場所へ戻ろうと踵を返す。だが、振り返った次の瞬間、彼は凍りついた。

 彼の書斎の机の向こう側。
 そこには、真っ黒い何者かの影が佇んでいた。ゆらゆらと揺れるその影には、遠目から見たヨアキムにも分かる程、ハッキリとした顔があった。黒い靄の中、怖いくらいの無表情で、大きく目を見開いて、それはヨアキムを見ていた。
 それはつい先日、己が処刑したはずの、勇者エドヴァルド。

 ヨアキムが彼を認識し、その目が合ってしまったその瞬間。ヨアキムは息を呑んだ。その緊張感に、心臓が張り裂けそうなほどバクバクと脈打っている。そして、途端に。
 勇者の人影は、形容しがたい禍々《まがまが》しい叫び声を上げながら、ヨアキム目掛けて飛びかかってきたのだ。

「――――ッ!」

 その瞬間、ヨアキムは声にならない悲鳴を上げながら必死で浄化魔法を放った。魔法が見事に命中すると、影は魔法の眩い光と共に、跡形もなく空中に霧散していった。

 それは、ヨアキムの強い動揺を誘うには十分で、酷い動悸と目眩とで思わずその場でしゃがみ込む。彼の荒い息づかいがひとりきりの部屋に響く。
 そんなはずがない、あの男は確かに死んだのだ。アレはただの見間違い、己の疲れからくる幻覚だ。ヨアキムはそう思い込む事で冷静さを保とうとした。

 だがその日からというもの、彼の周囲からその気配が頻繁に現れるようになった。ある時は毎日、ある時は数日に一度、そしてある時は彼が忘れた頃に。それは、徐々に彼を蝕んでいった。

「そんなはずが、ない。ヤツは、死んだ……、目の前で死んだはずなのだッ、私はこの目でしかと――ッ」

 かの国の王城内で、そんなヨアキムの呟きを聞き、そしてその異様な様に恐怖を覚える者が出るようになった。それからというもの、城内で不気味な影を見た者が後を立たず、勇者の怨霊が出る、と噂になっていった。
 当人のヨアキムはといえば、日を追う毎にやつれてゆき、時折ブツブツと独り言を言ったかと思えば、突然腕を振り回したりするものだから。噂はより一層広がり、恐怖は周囲に伝染していくのだった。祟りだ呪いだと、王城は恐怖のどん底に突き落とされていく――。


◇ ◇ ◇


 そんな、人間の国の王城内で起こっている事など知るはずもなく、ようやくベッドから起き上がれるようになったエドヴァルドはといえば。魔王城内でぼんやりと時を過ごしていた。
 未だ彼に記憶はない。しかし、それでも城内の様子は何故だか彼にとっては見覚えのあるもので、戦いも諍も何も無く、ゆったりとした時の流れに身を任せていた。

「エドヴァルド様、本日の御召し物をお持ちしました」

 そんな中で、エドヴァルドには侍女がつけられた。日がな一日中ぼんやりと外を眺める彼に、甲斐甲斐しく世話を焼く女は勿論、魔人である。
 最初の頃こそ、人間、それも勇者だったという彼に警戒し、とても褒められたものではないような接し方をしていた。だが今や彼女は、魔王にするように、ともすればそれ以上に世話を焼いている。

「エドヴァルド様、朝食のお時間です……ちゃんと、見ていますからね、今日はご自分でお食べ下さい」

 記憶が無いせいなのか、それとも肉体を一度失ったせいなのか、エドヴァルドは生きるための世話を一切、自分からしようとしなかったのだ。
 食事を置いておけば平気で丸一日でも放置し手を付けないし、目を離せば一日ベッドで起き上がったまま、何もしない日もザラだった。ようやく自分から食事に手を付けたかと思えば、パンを一つ平らげた程度で、そのまま二日間何も食べなかったりするのだ。
 魔王直々に頼まれたこともあるのだが、警戒しようにも、ここまで生きていく気のない者を見たのは、さすがの侍女も初めてのことで。いつしか彼女は、いっそ母親のように、彼の行動を監視するようになっていった。

「はい、よく出来ました。では今日はお外へお散歩に行きましょう。ずっとお部屋にこもっていては台無しですわ」

 せっせとエドヴァルドをベッドから起き上がらせ、それらしい服を着せ、靴までも履かせる彼女は、もはや立派な母親だった。そうしてようやく、エドヴァルドは実に三ヶ月ぶりに外へと連れ出されたのである。
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