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2.堕ちる

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「なんっと貴様余計な事をしおって……死ねんとは一体どう言うことだ!」
「うるせぇなぁ、お前が誘ったんだろうが!だから俺がてめぇを喰らってやったんだ、有難いと思え」

 悪魔と言い争いをしているエミディオは何故だか、大層元気にベッドの住人となっていた。
 ギャーギャーと騒ぎ立てながら、目の前にいる明らかに人ではない、背中に蝙蝠のような翼を生やした男と無遠慮にも言い争いをしている。言い争いの原因はそう、今のエミディオの状態について。彼はどうやら、悪魔の眷属になったらしいというそれだった。
 魔界であるというのに、ちゃんとした屋敷にそれぞれ部屋があるだなんて、そんな事にエミディオが大層驚いたというのはまた、別の話であったりするのだが。

 あの時。
 気を失ったエミディオは、確かにこの悪魔に喰われたらしいのだが。喰われたのは肉体ではなく、心臓ーー即ち心だというのだ。

 悪魔に心を喰われた人間は同じく悪魔になる。

 それはエミディオも初めて聞く話だった。そういった前例が無かったのか、それともエミディオの知識に偏りがあったのか。確認する手立てはもうどこにも無い。
 けれどしかし、エミディオは既に人ではないという事はしっかりと理解できていた。人であったひとりの青年はもう、死んでしまったのだ。

「食らってくれと頼みはしたがの、だーれが心臓を食らえと言った! どうせ喰われるならば美しいものに、と思っただけだ! しかも重篤の元人間を同時に“食う”なんて……鬼畜か貴様!」

 エミディオが何よりも許せなかったのが、この悪魔ーーサタナキアが、エミディオの意識が朦朧としている中、その身体をも貪り食らったという所だ。
 清廉潔白を絵に描いたような人生を、王の為にと清らかな人生を送ってきたエミディオにとって、無理矢理にコトを進めたサタナキアをどうしても許せなかった。
 悪魔にそんな事を言っても仕方ないだろうに。ただそれでも、自分が永らく掲げさせられていた信条やら考え方やらその他諸々の事情が故に、エミディオは文句を言わずにはいられなかった。

「だってよ、お前、絶世の美女に誘われたら断れねぇだろ」
「そっちは誘っとらん! 全く、抵抗できぬか弱き者に強姦とは……悪魔の将軍が聞いて呆れるわ」

 ベッドの中、エミディオが上半身を起こしながら盛大にため息をついてみせれば、サタナキアは相変わらず顔をしかめながらも、いけしゃあしゃあと文句を言ってのける。

「だって、あんな風に誘われたら、男ならおっ勃つって」
「そっちでは誘っとらんっ」
「お前絶対サキュバスだろ」
「私は男だ阿呆めが!」
「詐欺だ」

 エミディオの美しさは努力の賜物であって、高位とはいえどもこんな悪魔にこんな下らない文句を言われる筋合いはない。
 エミディオの叱責を聞いたサタナキアは、口を尖らせてそんな事を拗ねたように言うばかり。高位悪魔のオーラなぞ何処にも無く、その姿はまるで妻に叱られる夫のようで。エミディオは一気に脱力した。

「このっーーもう、好いわ。どう足掻いても今更人に戻れる訳でもあるまいし。全く、神官長が悪魔の眷属になるなぞほんっと、前代未聞だぞ」
「し、神官長……?」

 呆れ半分に言ったエミディオの言葉を遮るように、サタナキアは彼の言葉を反復した。心なしか、その声が上ずっていたのは気の所為ではないだろう。

「そうだ。幼き頃は神子候補であった。今の所、歴代神官長としては最年少だとな。……そもそもだぞ、あんな場所に放り込まれたら、普通の人間なら一瞬で絶命するに決まっとる。私を見た時に気付け阿呆め」
「んなっ……なぁ!? それこそ宿敵じゃねぇか!」

 ベッドに腰掛けていたサタナキアは、神官長のくだりを聞くや否や、ガバッとその場で立ち上がった。心なしか顔が青い気もする。
 そんな風に、余りにサタナキアが今更な事を言ってのけるものだから、エミディオは恨みがましくその赤い目を見上げてやった。

「だーから言っとろうが。前代未聞だと。……まぁ、あやつの仕業で私はもう悪魔に殺されたなんだと吹聴されとると思うがな。実際、死んだも同然よ」

 エミディオ達神官にとって、敵である悪魔の手の中に堕ちるなど本来ならば自害ものなのだ。今こうしてここにエミディオが座っているのだって、このサタナキアの下半身が頑張りすぎて自害するだけの余力が無かった、というのが原因であって。完全な悪魔に成り果てるまでの間に死ねるのならば、エミディオはとっくにそうしていた。
 だが今や、エミディオは悪魔の眷属として問題なく魔界に居られてしまっている。既に人間では無くなってしまったのだ。
 これではもう、手遅れなのである。こう成ってしまっては、最早自害すらも叶わない。悪魔の眷属だと言うならばつまり、主人の命にはどうしたって逆らえないのだから。

「全くだ……神官を伴侶にしたなんて……前代未聞だ」
「伴侶? なんだそれは」

 サタナキアの言葉に、エミディオはついつい口を出してしまう。眉間に皺を寄せたままそう問うたエミディオに、サタナキアは意気揚々と答えて見せた。

「言葉通りだ。人間を伴侶にすると決めた場合、眷属でないと添い遂げる事が出来ないからな。心を奪い、自分が死ぬまで相手を縛る。ーー熱烈だろ?」

 ふんっと見せつけるように嫌な笑みを浮かべながら言ったサタナキアは、それはそれは悪どい顔をして言って見せた。これまた初めて聞く話で、エミディオは驚きに目を見開いた。そして次に、大きく大きくため息を吐いた。
 こんな事で悪魔の生態を知る事になろうとはと、エミディオは半ば逃避しつつそのような考えを振り払った。

「熱烈だろって……まぁ、良い。成ってしまったものは変えられん。私も神官達に愛想を尽かしていた所だ……して、サタナキア」
「なんだ」
「私は人の世に出る事が出来るのか?」

 エミディオの素朴な疑問であった。人として生きることも死ぬこともできず、最早悪魔の眷属になってしまったのならばもう、平和に天に召される事も叶うまい。ならば。人ーー神官であった頃には絶対に許されなかった事を成しても咎められる事はないだろうと。どうせ行き着く先は地獄なのだからと。彼にはどうしても、人の世でやっておきたい事があったから。

「ああ、それは可能だ。この俺は高位悪魔だから魔王の許しが必要にはなる」
「お前も行く気か……私だけで良いんだがな」

 その言葉に安心すると同時に、エミディオはふと魔王という存在に興味を惹かれる事となる。人間だった頃からずっと考え続けてきた魔界の王。それがまさか、自分の身近なものになろうとは、何とも奇妙な事であると。

「しかし、魔王か……まさか、この目にまみえる事が出来るとは思わなんだ……お目に掛かるなど一生ないと思っておった!」
「……おい、お前、何でそんな上機嫌なんだよ」

 サタナキアには怪訝な顔で問われるが、エミディオのワクワクは止められなかった。人の為に尽くしてきたエミディオの、数多にある疑問の内のひとつだったから。
 神殿が宿敵魔界の王。それは一体、どんな姿をしているのか。倒すのは不可能とされる悪魔の王は、人型だろうか、それとも獣型だろうか、はたまた想像もつかない程の異形なのだろうか。それの本当の姿を恐れるのと同時に、エミディオはいつだって疑問に思っていたのだ。
 それがまさか、目の前に出来るチャンスが巡って来ようとは。人生(既に死んではいるのだけれども)何が起こるのか、全くもって予測もつかない。エミディオは、そうしてとうとう抑え切れずに熱弁する。

「だって魔王だぞ!?人の世では決して見られんではないか!」

 最早興奮を隠そうともせず、エミディオが身を乗り出しながらそう言えば、サタナキアは不快感をあらわに舌打ちを打った。
 それに少々驚きつつ、成る程とエミディオは関心した。悪魔は人間よりもよっぽど素直な生き物なのだなぁと。素直に思った事を表に出す男を、エミディオは純粋に羨ましく思った。

「何だお主、気持ち悪い。私が魔王に惹かれるのがそんなに気に食わんのか」
「あったり前だろうが!でなきゃ、何千年と選ばなかった伴侶を娶ったりはしない」

 からかう口調で言って見せたものの、存外真剣な表情で言われてエミディオは動揺する。余りにも素直な反応で再び面食らった反面、何故だか悦びのような気持ちが沸き起こるのだ。悪魔相手に何という感情を、とは思いつつも、それはとうとう無視できない所まできてしまっている。
 人間だった頃、彼は結局誰かの一番になることはなかったから。

「……そうか、成る程。……思えば誰かにこんなに求められる事は無かったかもしれん。ーー父上、以来か」

 最後の方はほんの、呟くような言葉にしかならなかったが、エミディオはまるで自分に言い聞かせるように言った。人間を辞めてまで生き残ってしまった自分がみっともないと思うと同時に、心の底からふつふつと湧き出してくる、許されない筈の歓喜に支配されてしまいそうだった。
 悪魔とは何て自由なのだろう。自然に思ってしまったその感情に、エミディオはふと驚く。そして、同時に感じる罪悪感と嫉みと悦びと怒りと、様々な感情に押し潰されそうになって慌ててかぶりを振った。こんな事を考えてはいけないと、己の感情を否定する。
 だが、そんな些細なエミディオの変化を、サタナキアは見逃さなかった。

「……父?」

 サタナキアはそう、怪訝に言った。悟られたくなくて、エミディオはそのまま目を逸らす。だが、悪魔の大将軍たるサタナキアはそれを許しはしなかった。
 途端に顔をその手に取られ、顔を無理矢理に向かされる。眷属としてのそれに当たるのか、エミディオは全く抵抗は出来なかった。
 微かな怒気を含ませた赤い目に見つめられて、魅入られたかのように目を逸らす事が出来ない。世の女性を従わせる事のできるという悪魔の将軍閣下。もしや男にもそれは効くのではないかと、そんな錯覚すら覚える程だった。

「話せ。この俺様とお前は、共に永遠に生きるのだ。隠し事は赦さん」

 ジッと目を見つめられ、逸らす事も抵抗すら出来ず、エミディオは囚われる。この悪魔の言葉には、従う事しかできない。それにもう、人でもない彼には隠す意味もない。だからエミディオは淡々と暴露する。神官としてはあるまじき、己の持つその業を。

「……まだ私が成人する前、父上が精神を病みーー父上におかされた。父上は泣きながら、許しを乞うておった。愛する者をまもりきれんと」
「………」
「その時は最早、父上は手の施しようがない程に壊れていた。最期まで、それを母上に知られる事はなかったが……父上は失意のまま亡くなられた。……それでも尚、誰にもーー執拗に父上を攻撃していた神官達にもうらみ言を吐かなかった。人が良すぎたのだ。優しすぎたのだ。私が……私の敗北の所為でーー」

 その時突然、サタナキアは更に話を続けようとしたその口をその手で塞いだ。そうして目を微かに大きくしたエミディオを、そのまま至近距離でジッと見つめ、いやらしい笑みを浮かべて言った。

「成る程、この俺が惹かれる訳だ。お前は美しいだけじゃない。内に秘めた業を美しく纏っていた、だから一層、この俺が魅了された。お前の恐怖、哀しみ、後悔、未練ーーそしてその怨みの全てがこの俺の力の糧となる」

 ゆっくりと手を外したサタナキアは、べろりとエミディオの横っ面を舐め上げた。精悍なその顔に似合うギラギラと光る目には、悪魔の残虐性が映し出される。しかしこの時、エミディオは最早、それすらも美しいと思ってしまった。

 この世界での死が訪れるまで、このサタナキアと共に生を貪るのも悪くない。成る程、もしかしたら先に魅了されたのは己の方であったのか。ぼんやりとした頭でそんな事を考えながら、エミディオは黙ってその目を見つめた。

「お前は俺のものだ。離れる事は許さねぇ。だが、俺も鬼じゃあない。少しならばお前の望みも叶えてやろう」

 ゆっくりと近付いてくるサタナキアの目に魅入られながら、エミディオは悪魔を受け入れる。じっとりと口内を舐られながら、ひんやりとした彼の体温を甘受した。エミディオはそして嗤う。信じられない程に気分が好かった。

 この男の所為で、自分を縛り付けていた幾重もの戒めから解放されたような気分だった。最早己の中には、人としての心は残っていないのかもしれない。エミディオは与えられる快楽に震え歓びながら思う。素直に思うがまま、生きていくのはどんなに気楽であろうと。目の前にぶら下げられた甘い誘惑に、最早抗う気すらも起きない。

 ああもう、自分は本当に、既に人では無いのだとエミディオは思う。それが悲しくもあり、そして同時に喜ぶべき事だった。それ程までに、エミディオにとって人は、とてつもなく生きにくい生だった。今ならば喜んで捨ててしまえる程に。人間界こそが、彼にとっての地獄だったのだ。

 その日エミディオは、イケナイ事の数々を教え込んでくる当人に必死でしがみつき、与えられる快楽を望むがままに貪ったのだった。
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