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影なる者達

85.一歩(後)

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 吸血を終えて見上げた先、思っていたよりも近い所にあったセナの顔に、ジョシュアは息を呑んだ。自分とは違って何でも出来てしまう天才は、顔立ちだってすこぶる良い。

 透き通った清流を思わせる碧眼と、淡い色合いの金髪ブロンド。そこに佇んでいるだけで、常人とはまるで違ったオーラを見せるセナ。そんな男の顔立ちをこれほど近い距離でじっくりと見る機会なんて今までになかったものだから、ジョシュアはついつい凝視してしまった。

 金髪碧眼、見た目にも若いセナの顔立ちは、どちらかと言えば綺麗な部類に入るだろう。可愛い、と言った方がしっくり来るだろうか。19歳という実年齢からしても十分若いのだが、若く見えてナメなられる、とぼやいていたのをジョシュアも耳にした事があった。

 戦う事に慣れている人間ならば、その姿を見ただけで彼のヤバさに気付けるだろうが。そうでない人間からすれば、セナはまだまだ可愛らしい子供のようにも見えるのだろう。
 こんな凶悪な子供、ジョシュアは見た事もなかったが。

 エレナが居なくなってからの彼は随分と変わった。狂犬だった頃が嘘のように穏やかになった。歳相応、あるいは前よりも随分と大人びた表情をするようになっただろう。
 彼を取り巻く環境が変わったせいもあるのかもしれない。ジョシュアが聞き齧っただけでも彼は、ハンターギルド内でもよく働くようになったとか。挑発的な態度は相変わらずのようだが、以前ほど危険な特攻もしなくなった。

――周囲がだらけで、俺も今のままじゃダメなんだろうなって思ったからさ。俺もちゃんと、強くなりたい。エレナを超えられるくらいに。

 手合わせをした時、ジョシュアは彼に聞いたのだ。なぜ今になって戦い方を変えたのかと。エレナの剣を扱う為だとはいえ、リスクが大きくはないだろうかと。
 その時セナはそう答えた。失って初めてその重要性に気付くというのはジョシュアも散々経験してきた事だったけれども、セナもまたそうだったのだろう。
 ジョシュアと同じだった。エレナに大切なものを貰って教えられて、失ったものの大きさ故に様々なものが変わってしまった。

 彼に対しては少し、ジョシュアは親近感を覚えている。だから手合わせの願い出にも快く頷いたし、以前のを無かった事にして再び血を貰っている。警戒心なんてこれっぽっちもなかった――。


 眺めていたその顔が急に近付いてきて、ジョシュアがあ、と思った時には触れていた。
 唇を吸われている、と思った時にはジョシュアの後頭部に手が回っていた。思わず腰が逃げを打ったが、ソファからずり落ちてきた彼に引き寄せられた。
 驚きに開いた唇の隙間から舌が入り込んでくる。
 余りに予想外の出来事に硬直した身体は、ジョシュアの思うように動いてはくれなかった。突き飛ばせばすぐに離れるだろうに、身体に力が入らない。まるで生娘のように。

 挿入はいってきた舌は明確な意図をもってジョシュアの舌に絡んできた。舌を啜られて噛まれる。呼吸する度、みるみる深くなっていく口付けにジョシュアは酷く混乱していた。
 口付けられる理由なんてまるで分からない。目の前にある顔はジョシュアをジッと見つめていて、その眼差しにイライアスと同じような熱を感じて益々意味が分からなかった。危機感よりも困惑の方が強かっただろうか。
 しばらくジョシュアはされるがままだった。

 転機は、彼の手がジョシュアの腰に触れた時だった。服の上から感触を確かめるような動きに、ジョシュアの頭が急激に動き出す。本気だ、と思ったのだ。

「や、め――ッ‼︎」

 腕を突き出してセナを引き剥がした。吸血鬼の腕力の前では、そう難しい事ではない。
 膝立ちになったセナの口を自分の手で塞いで、困惑気に彼を見上げる。その目はひどく静かで、揶揄うような素振りは全く見せなかった。

「一体なに考えて――」

 その先の言葉は続かなかった。
 彼の口を塞いだ手のひらに、突然生暖かく濡れた感触を感じたのだ。ジョシュアは咄嗟に手を引っ込めようとしたが、すんでの所で取られて無理矢理引き寄せられた。
 手のひらに、口付けのように唇を押し付けられて舌を這わされる。まるで以前、ジョシュアが彼の手のひらをそうした時のように。
 ざらりとした舌の感触に背筋を震えが走った。声を耐えるように口元を反対の手で覆うが、呼吸が乱れるのは抑えようがなかった。抵抗すら忘れた。
 それを見たセナは、ただ目を細めただけで何も言わない。ジョシュアにまるで見せ付けるかのように、セナはしばらく行為を続けた。

「……ん、やっぱそうだわ」

 とうとう指の間にも舌を沿わせ始めたセナがふと、小さな声で呟いた。その頃には妙な怖気に襲われ出していたジョシュアだったが、その声にようやく我に返った。
 慌ててセナの手から自分の手を奪い返し、距離を取るようにソファの上へと乗り上げる。未だに混乱した頭で彼を見下ろすと、真剣な表情で見返してくるその眼差しにかち合った。冗談、なんて言って笑い飛ばすような雰囲気などどこにもなかった。
 喉が渇いて仕方なかった。口の中に張り付いた舌を無理やり動かしながら、ジョシュアは掠れるような声で言った。

「なにを……何、考えてこんな――」
「んなの決まってる。カマトトぶんなよ」

 遮るようなセナの声に、ジョシュアの言葉は掻き消された。尚もそれを否定しようとしたけれどもしかし、セナはそれを許さなかった。

「だが――」
「アンタが、欲しいんだよジョシュア」

 言われたその瞬間、ジョシュアは呼吸を忘れた。見上げるように告げてきたセナの目は、まっすぐにジョシュアを見ている。かつてイライアスに言われた時のような心からの叫びに思われて、ジョシュアは何も言えなくなってしまった。

「昔から人間が嫌いだった。どいつもこいつも、お綺麗な顔しながら裏ではど汚い連中ばっか。父さんも母さんも死んで、俺から全部奪ってった連中は皆、優しい顔で近付いてきて。結局最後には俺を身一つで放り出しやがった。子供だから、何も出来ないと思ってバカにしやがって」

 言いながら、セナはソファの上に片脚を乗り上げてきた。一歩も動けないでいるジョシュアを囲うようにソファの背もたれに手を付き、俯いたまま独白のように言葉を重ねる。

「だから誰も信じないって決めてた。昔から何やっても人並み以上に出来たから、力さえあれば苦労しないでも生きられるこの仕事が俺には最善だった。他人なんて俺にとっちゃ何の関係もないからさ、弱い奴が野垂れ死のうが知ったこっちゃなかったよ。自分の為だけに生きてた。もうあんな惨めな思いをするのは御免だった。他人の願いを踏み躙ってでもさ……お陰で狂犬だの化け物だの言われてたけど、前はそんなの屁でもなかった」

 セナは顔を上げようともしない。他者の命を押し退けてでも生きようとした少年の姿が、目の前にありありと浮かぶようだった。まるで懺悔でもするかのような姿に、ジョシュアは奇妙な心地を覚えた。
 その考え方が分からないでもなかったのだ。

 なぜ自分だけがこんな惨めな思いをしなければならないのか。なぜ他人の為にここまでしなければならないのか。ジョシュアもまた、そういう考えに囚われそうになったのは一度や二度ではなかった。

 セナの話は更に続いた。

「なのにエレナは……ズカズカと人んに土足で踏み込んできては世話を焼くし、かと思えば手下か何かみたいに使いっ走りにしてきた……小うるさくて嫌な時もあったよ。けど、信用するには十分だった。俺が何をしでかしても、あの人だけは俺を見捨てる事はしなかった。何度も何度も、根気強く俺を止めに来たんだ。エレナ、だけだったんだ」

 その言葉にエレナと並んだ二人の姿を思い出す。
 ジョシュアが最初にそうならなかったのは、常にそんな彼女が側にからだった。彼女の隣に立てるような人間で在りたい。自分もそうなりたい。それだけがジョシュアの支えになった。
 セナの言葉に強く共感する。

「そんな時、アンタが現れた。ほんと突然、俺とエレナの間に割り込んで来て……正直、最初は気に入んなかったよ。確かに……俺の攻撃もみんな躱してみせたしちっとも捕まんなかったからできるんだろうけど。いくらエレナの古いったってさ、本名すら教えないし有名でもない癖に急に現れて俺より親しいとか……」

 言われて、初めてエレナと揃ったセナの姿を見た時の事を思い出す。胡乱な目、品定めするような彼の視線を感じていたのはきっと間違いではなかったのだ。あれは、エレナとの間に割って入ってくる相手への嫉妬の眼差しだった。

 そしてそれがどうしてだか今、こんな事になっている。ジョシュアはただ戸惑うばかりだった。

「でも、後でちゃんと分かったよ。ってすごいそっくりでさ。エレナもアンタなら信じられるって言ってたしそれに、俺も直感で分かった。アンタ――ジョシュアもエレナと同じだって」

 そう言うとセナは、俯いていた顔を上げた。まっすぐな彼の眼差しに迷いは見えない。透き通るような淡い水色に、なさけない表情をしたジョシュアの顔がぼんやりと映り込んでいた。

「俺が大切だって思う人間はみんな死んだ。ホントに、大切な人からどんどん。……でも、アンタなら絶対死なないんだろ? もう大事な人が死ぬのは御免なんだ……」

 大事に思っていた人が居なくなる。その辛さが痛い程よく分かるからこそ、ジョシュアはセナから視線を逸らす事ができなかった。

「俺と一緒に、エレナの仇とってよ。……相棒としてでもいい、あの赤毛の吸血鬼じゃなくてさ、俺を選んでよ。今だけでもいいから――」

 その気持ちを蔑ろにする事なんてできなかった。それが本気だというのも肌で感じていたから。
 赤毛に対するそれだって確かに本物であるはずなんだけれども。セナに対する情だって無い訳ではないのだ。
 共に仇を取ろうと、エレナの剣技に追いつこうと奮闘する姿も、ジョシュアの本名を知りたがった時の拗ねたような表情も。今の彼の姿は素直に好ましいと思う。

 ジョシュアの中に迷いが出ていた。
 そんなだから、再び近付いてくるセナの顔を拒絶する事ができなかった。
 不安定に揺れているジョシュアの気持ちを見透かされているようで。中途半端なイライアスとの関係にもきっと、気付かれているのだろう。
 だからこんな、イライアスの居ない時を狙ってセナはジョシュアへと告げた。彼もまた策士なのだろうと思うと、才能のある者たちとの差を痛感する。

 誰にも言えない秘密の口付けは、信じられないほど甘い気がした。


 ◇ ◇ ◇



「――君の親は全くもって吸血鬼使いが荒い! おまけに二号だのと呼ばれて僕は深く傷付いたよ」

 部屋へ戻ってきたアンセルムが、まるで子供のように騒いでいる。
 二台あるベッドの片方に突っ伏し、手足をバタバタとさせてジョシュアに向かって文句を言う。
 当人に言えないからこそ、ここでの愚痴なんだろうが。他所では見せられなさそうなみっともない姿に、ジョシュアは脱力感を覚えていた。

「君が下僕一号だから僕は二号なんだそうだよ。不服だ……せめて偽名で呼ぶように言ってもはすぐに忘れる。君はよくそれに耐えられるね。――ドMなのかい?」

 信じられない暴言に傷付く。同室に慣れてきたのか、ジョシュアに対する発言に段々と遠慮がなくなってきている。
 ジョシュアは苦い顔をしながら、彼に向かって言い放った。

「アンタはほんと口の減らない男だな。やっぱりその態度が素か? 天然なのか?」
「僕はいつだって僕だ。下手にカテゴライズしないでくれたまえ」
「カテゴライズって……俺からするとそう見えるから言っただけだ。一般的にはそういう性格に位置付けられると思うぞ」
「この部屋の外でそんな僕を晒すような愚行は犯さない。対外的なイメージというものがあるだろう? 僕は完璧な演者さ」
「……ラザールが知ったら何て言うだろうな」
「……君は影で告げ口するような吸血鬼ではないだろう? それならば何の問題もない。ラザールには少しずつ、本来の僕を知ってもらうんだ。欲しいものを手に入れるのって、そういうものだろう? 僕は恥ずかしがり屋さんなんだよ」

 ああ言えばこう言う。信頼されているのか軽んじられているのか。なんだかどうでも良くなってきてしまったジョシュアは、言い返す気力も無くして無言のまま顔を顰めた。

 つい先ほどまで、この部屋に居たセナの事が思い出されてはすぐに消えていく。
 考えが上手くまとまらなかった。
 その点、下らない話も勝手にツラツラと喋ってくれるアンセルムとの同室は存外に気が楽だった。今は何も考えずに済む。ただ、この男には問題もあるのだけれども。

「――あの方の気配を付近に感じるようになってから夢見が酷い。この街のどこかにいらっしゃるのは確実だと思うんだけれど……そのお側に馳せ参じたくて仕方なくなる。だから本当は僕、外には出ない方がいいと思うんだ。あの方に見付かったらと思うと悪夢だし、街を出歩いていて正気を失ってはコトだ。……彼女らには今日、無理やり人の血を飲まされたから、食事についてはしばらく持ちそうなのも幸いだ。彼女や赤毛の彼が共にいる時以外、僕はこの部屋に籠る事にするよ」

 ベッドに顔を押し付けているのか、くぐもった声が耳に入ってくる。先ほどまでの元気はなく、少しだけ弱々しい声のようにも思われた。

 正気を失ったような行動は減りつつあったが、決してゼロという訳ではない。そういう夜が来る度、ジョシュアが根気強く宥めている。
 そんな時には、その視界を塞いで耳元で囁くのだ。大切だと思う人を思い浮かべて自制しろと。何度も何度も繰り返し。
 それ故になのか、アンセルムのラザールに対する想いが膨れ上がっているかのようにも思う。まるで暗示のようですらあるが、今の所はそうするしか手がないから。

「君には迷惑をかけるが、どうやら君からの言葉が一番効果的なようなんだ。騒ぎを起こして君らのお荷物になるのは本意ではないしそれに、ラザールにも迷惑がかかる。……彼をこの件に巻き込んでしまったのは僕のせいでもある。何としてでもラザールは僕が――」

 アンセルムはしばらく独り言のように語り続けたが、段々とその声が小さくなり、やがて消えた。連れ回されて疲れていたのか、アンセルムは気付けば眠りについてしまった。

 話し相手ができて寂しさから解放でもされたのか、ジョシュアと二人で居る時に彼はいつも喋り続けている。元々そういう人間だったのかと思うと、この男もあの街から出られて逆に良かったのかもしれない。
 吸血鬼は単独を好むとよく聞くけれども。ジョシュアの周りに集まった吸血鬼たちは皆、どうやら噂とは違うようだ。

 静まり返った部屋で、アンセルムの寝息だけが聞こえてくる。とっくにを決めている彼が、強い者のように思えて仕方ない。

 優柔不断、自分で決める事ができない。
 そんな弱い自分が改めて炙り出されたようで、ジョシュアは独り顔を顰めた。
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