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王都とギルド潜入
38.乱入者達
しおりを挟む魔族が真名に縛られて他者に隷属させられる。そんなものはとうに忘れ去られたものだと思っていた。
それがまさか、実際に目の前で起こっているとは。イライアスは全く予想だにしていなかった。首筋からチラリと覗いたそのしるしに、人知れず動揺していた。
――俺はもちろん安くないけど、どうするよ?
離れていたこのたった半月で、この男に一体何があったのか。勝手に消えるような、あんな別れ方をしておいてこんな事を言うのもなんだったが、イライアスは本当に気になって仕方がなかったのだ。
いやさ、ミライアの影響でこの男が色んなところから興味を持たれてしまうのは仕方ないとして。こんな陰険な魔族達に目をつけられてしまうとは、引きが強いというか悪運が強いというか、何とも筆舌に尽くし難い。
そういうイライアス自身も、我慢できずにつられて王都なんかに来てしまったクチではあるのだが。
この血の匂いに気付いてふらふらと地下に潜っていなかったらと思うと、イライアスは何とも奇妙な気分になるのだ。半月前に感じたモヤモヤとするものが、心に燻るようだった。
この魔族の思い通りになるのは癪だった。まるで自分のものに手を出されたような気がして。
こんな気分になるのは随分と久しぶりの事だ。それをどうにかしたくて、けれどもどうしようもなくて。イライアスは、苛立たしげに後ろ首に手をやると、後ろへ軽く結んだ自分の赤毛を一度、ピンと弾いた。
――人間の血液を全て飲み干すと、その魂を自分の中で生かすことができる――なんて、そう言うロマンチックな事を言う吸血鬼もいるよ。信じるかどうかは君次第だけど。ま、そんな事しでかした連中、普通はみんな始末されちゃうんだけどね。
そういった複雑な内心を全部覆い隠しながら、イライアスはいつもの調子を崩さず、ジョシュアに向かってああやって言ったのである。
自分を見上げる情けないジョシュアの顔が、目に焼き付いて離れなかった。きっと、その腕に抱いていた女は彼にとって大切な人だったのだろう。
その程度の事、イライアスにはすぐに分かってしまう。そんな自分の能力が、今は少しばかり鬱陶しく思えた。
けれどあの状態ではもう、助けられないように思われた。いくら腕の良い魔術師だか何だかがこの場に居たとしても、失ったものはすぐには戻らない。流れ出てしまったものは元には戻らない。
大切なひとを失う。それは一体どのような感覚なのだろうか。イライアスには疑問だった。
あんな顔は初めて見たのだ。
あれはきっと、身内を失う者のする表情なのだろう。始めから何も無かったイライアスにしてみれば、理解しきれぬ感覚だ。
持つ者と持たざる者とが永遠に分かり合えないような、そんな隔たりがそこにはある。
ずっとずっとひとりきりで生きて行かねばならなかった彼からするとそれは、とても羨ましくも妬ましい、普通の者が持つものだった。
もし、自分にもそういうものがあったなら。自分もまた、あの男と同じような事になるのだろうか。想像もできない。
ただ願わくば、自分が死ぬ時にはあのように悲しんでくれる者が居ればいいと、イライアスは漠然とそんな事を思った。ジョシュアの腕の中で、惜しまれ悲しまれ見守られながら逝くあの女のように。
最期はあのようにされたい。今まで一度も考えた事もないような事を、この時イライアスは初めて考えたのだった。
なんて、イライアスが珍しくもそんな感情をさめざめ覚えていた時だ。突然、己の手で締め上げていた魔族が口を開いた。思考の渦に溺れていた意識が、瞬く間に現実へと引き戻される。
「くっそ、何で、お前程の吸血鬼がアイツらに味方してんだっ」
「ん?」
「お前達は他者の事なんてどうでも良いんじゃなかったのか!? なぜ、あの悪魔共に味方を――!」
目の前で首を掴み上げたその魔族が、口煩くキーキーと騒いでいる。随分と上玉の魔族である事には違いないが、イライアスにはそんな事はどうでも良い事だった。
今の彼が求めているのはジョシュアの血だ。それ以外の事は皆不要、要らぬものなのだ。それだというのに。この不快な気分は一体、何なのだろうか。
それからもしばらく、余りにも小うるさく騒ぎ立てるものだから。とうとう我慢ならなくなったイライアスは、その頭をもう片方の手でふんずと掴み上げて、それを思い切り壁へと投げつけたのだった。
壁に大きな音を立てて激突したそれは、蛙が潰れたような声を上げて地面に落ちる。ぶるぶると震えながら地に這いつくばるその姿を見ながら、イライアスはつまらなさそうに口を開いた。
「俺は、アンタのような小綺麗な魔族がどこで何をしようが知ったこっちゃないんだけどさぁ、お気に入りに手を出されたり、自分の領地にちょっかい出されるのって無性に腹が立つんだよねぇ。今日もさ、せっかく美味しいもの食べに来たってのに……俺のこの気持ち、察してくれない?」
イライアスがそれに向かってにっこりと笑いかける。するとその魔族は、彼を忌々しそうに睨み上げながら、大きな声で叫んだのだ。
「ッ、台無しだ──おい、お前達! そっちはいい、こちらの相手をしろ!」
何をどうするのか、とイライアスが魔族の様子を窺っていると。不意に、彼の背後から近付いてくる者達の気配がした。
別の魔族と人間とが二人。イライアスにとってはものの数にも入らないような連中だ。けれども、今この状況においては、これほどに邪魔臭い横槍なんて他にない。
とっととこの面倒な状況を片付けて、ジョシュアを慰めて目的の血液を貰いたいところなのだから。それ以外の事も、もしかしたらイライアスは望んでいるのかもしれなかったが。
まるで食事時を妨害する害虫の如く、イライアスにはそれが不快で不快で堪らなかった。
「は? 何、人間と魔族が一緒にって? そんな些細な事、俺にはどうでもいいんだけどさぁ、邪魔ァッ!」
言うや否や、イライアスは飛び掛かってきた彼等をそれぞれ、壁際へと投げ飛ばす。先程の魔族と同じように、彼等は受け身も取れず壁に激突したかと思うと、地面にべちゃりと落ちていった。
その上で、イライアスはほとんど音もなくその二人の元へと移動したかと思うと。ふらふらになりつつ身体を起こそうともがいていた彼等の頭を、その手でむんずと掴み上げ、そのまま地面へと思い切り叩きつけたのだった。
その激突の勢いたるや。石造りだというのに、地面には微かにヒビが入った。
地面に頭を勢いよく叩きつけられた彼等がそれに耐え切れるわけもなく。その場で昏倒し、ピクリとも動かなくなってしまったのだった。
ホンモノの吸血鬼の、圧倒的な戦闘力。それを直に目にする事は滅多にない。
うっかりすぐ真横でそれを目撃してしまった魔族に、イライアスは笑いながら顔を向ける。にこりと微笑む表情とは裏腹に、その目は全くと言っていいほど笑ってはいなかった。
ぎらりと光る仄暗い赤の目が、その表情と相まって一層の恐怖を駆り立てる。まるで悪魔のよう。ミライアとはまた違った種類の恐ろしさがそこにはあった。
「俺さぁ……痛いの嫌いだし戦うの苦手だし、我慢させられるってのもめちゃくちゃ苦手なんだよね。特に、美味しいものを前にしてお預けをくらった時だとかさぁ? どうしてくれようか」
どちらか悪役か判ったものではない。
それ程に、イライアスには凄みがあった。数ある魔族達の種の中でも長寿を誇る吸血鬼。
その中でもほんのひと握り、数百年は生きた強者のみが出せる独特の気配に、その魔族は呑まれてしまっているようだった。
イライアスを睨み付けるその格好は崩さずに、しかしその目には僅かながら恐怖の色を浮かべていた。
「お前さえ、来なければ……」
ジョシュア達へ向けたものとは全く異なる反応だ。この魔族がいかに吸血鬼達の乱入を快く思っていないか、手に取るようだった。
イライアスは一層、笑みを深めた。こんな陰湿な連中、とっとと潰してしまうに限ると。あの城塞都市で自分を欺こうとしていたのならば、遅かれ早かれ、自分にも何かしらの影響が出ていたかもしれない。
そうなってからでは遅い。この魔族を見ていると、イライアスは不思議とそんな気がした。
だからこれは良い機会なのだ。あの黒尽くめの吸血鬼には、さしものイライアスですら敵わない。苦手だった。
戦闘狂には戦闘狂をだ。
ミライアが折角こうして始末しようとしてくれているのだから、自分もそれに加担するように動く。ただそれだけだ。
ジョシュアへは手助けだ何だのとは言ったが、イライアスとってもこれは、願ってもいない好機である。
逃げ惑う魔族を追いかけ、逃さぬようにいたぶりながらイライアスは微笑む。
その表情は、世の女性たちが見れば誰も彼もがうっとりと見惚れるようなものだったかもしれない。けれど考えている事は、それなりに酷いものだ。その容姿に、騙されてはいけないのだ。
(こういう、妙な自信を持った連中の思惑をぶち壊してやるのは気分がいいけど……こいつ地味にしぶとい。あっさりとされてもそれはそれでつまんないだろうけど。少し遊んだら、ご褒美たんまり貰おうかな)
それがこの、赤毛のイライアスという男なのである。
さっさとケリをつければ良いものの、イライアスはそうはしなかった。しぶといのは確かにその通りではあったが、手を抜いていたのは事実だ。
まるで獲物を遊びいたぶる猫の如く、これまでの鬱憤を晴らすかのように暴れ回るのだった。
しばらく対峙した後での事だ。中々へばらない魔族に、多少の違和感を感じ始めた時の事だった。
イライアスはふと、背後に何者かの気配を感じた。
それを予想してはいたのだが。少しばかりその気配が違う気がした。けれども彼は、その場では深くは考えなかった。
動きを止めてサッと振り返る。そこにはイライアスの予想通り、ジョシュアの姿があった。
ジョシュアはきっと、この魔族と対峙する為にイライアスの元へとやって来るだろう。自分の手で打ち倒す為に。そう、思っていた。
だからこそとどめも刺さず逃さず、彼はとっておいたのだ。
「ああやっぱり、来たね。君は――」
どうしたいのかと、イライアスはそう聞くつもりだった。この魔族を自らの手で殺したいかどうかを。
だがその言葉は、最後まで告げられる事なく、イライアスの口の中で止まってしまった。
ジョシュアの表情を目にした瞬間、イライアスはその雰囲気に呑まれてしまったのだ。
「俺がやる」
そう言って、怯む事もなくいつもの武器すら持たず、魔族の元へと進み出るその男はもう、ただの吸血鬼ではなかった。
これはあの、ミライアの正真正銘の眷属なのだ。イライアスとミライアとの間にあるような半端な繋がりではなく、然りとした血の繋がりを持った吸血鬼同士。
成る程、ミライアはこの男のこういう部分を見透かして、滅多に作らない眷属を作るに至ったのだろう。
相変わらずの眼識に恐れを抱きながら、イライアスはその背に声をかける事もせずにそれを見送った。
その目に攻撃的な性質をちらつかせ、何をしてでも敵を打ち滅さんとするその強固な意志は。やはりミライアにとってはお似合いの下僕だったのだろう。イライアスは柄にもなくそんな事を思うのだった。
ジョシュアからはどこか、他人の血の匂いがした。
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