我が身は死人の世界

一ノ清たつみ(元しばいぬ)

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王都とギルド潜入

32.たわむれに 後*

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 部屋を覆うかぐわしい血液の香りに、ジョシュアは堪らずゴクリと喉を鳴らした。
 一呼吸置いてから、セナの右手を持ち上げると、その手に握られているナイフからも僅かに赤い血が滴った。極力それを見ないように目を背けながら、ジョシュアはセナを睨み付けた。
 彼は相変わらず、愉快そうに笑っている。初対面で感じた時のような悪寒が、背を駆け抜けた気がした。

「ほら、もう手遅れだ。血ぃ出ちゃったんだから、舐めても何もしなくても同じだよ。勿体ないし、傷口治して貰わないと床も汚れちゃうだろ」

 早く飲めと、その眼差しにも言われたような気がして。ジョシュアは葛藤した。
 彼の手の中で、赤いその体液はじわじわと吹き出してきている。それを口に含めば、たちまち体に力が戻るのをジョシュアは知っている。その赤から目を逸らせなくなるほど、夢中で貪ってしまいそうになるほど、体が欲している自覚がある。
 なら、どうしたら良いのか。
 そこで迷えるほど、ジョシュアに余裕はなかった。

 しぶしぶ――或いは喜んで床に膝を着くと。ジョシュアはセナの手元へと顔を近付けた。
 服の布地を隔てず、より近くに血の香りを感じる。それだけで、ジョシュアは言いようのない興奮を覚えた。
 この空腹感が満たせる。それしか、今は考えられなかった。

 溢れそうに掌に集まっている血液に見惚れながら。ゆっくりと一度、舌先を這わす。
 ほんの僅かな血液をひと舐め口に含んだだけ。たったのそれだけなのに。
 たちまちジョシュアは遠慮も何もどうでもよくなってしまう。
 一瞬、ビクリと震えたその手を掴み、いっそ引き寄せながら、ジョシュアは夢中でそれを啜り舐め取っていった。
 溢れそうだった血液もすっかり無くなってしまうと。ジョシュアは次に、舌全体を使いながら、その掌全体に広がっていた血液を余す所なく舐めていった。
 一滴も漏らさずにその舌で味わう。無意識の内にそんな事を考えていたジョシュアは、すっかり吸血以外の思考を放棄していた。

 ビクビクと震えるその手だとか、時折上から降ってくる息を呑むような音だとか、そんなものが些細な事のように思えていた。まるでホンモノの吸血鬼のように、ジョシュアは夢中で貪り食らった。
 掌の傷はとうに治り切り、新たな血液を滲ませる事はなくなっていた。
 残っていた血液を全て舐め取り、満足気に吐息を漏らして顔を離す。久しぶりに満たされたその心地よさに、ジョシュアは浸っていた。しかし、それも長くは続かなかった。ジョシュアは突然、我に返ったのだ。

 引き寄せているその手をジッと見つめ、自分の行動を順に思い出していく。吸血により血色を取り戻したはずの顔から、サァッと血の気が引いていった。
 今しがた、自分はとんでもない事をやらかしたんではあるまいか。自覚すればするほど、ジョシュアは気絶しそうになった。
 そして恐る恐る、ジョシュアは顔を持ち上げる。
 するとそこには、なんとも言えない表情で顔を赤くしたセナが。その手で口許を覆い隠しながら、目の前のジョシュアを見下ろしていたのだった。

「……なんなのアンタ、舐め方無駄にエロいんだけど……どうしてれんのこれ」

 これ、と言われ、チラリと目をやってしまうも。服の上から分かってしまうほど、セナの自身が兆している事に気が付く。
 ジョシュアはその場で非常に困ってしまった。そもそもこれは自分のせいではない、セナが無理矢理やらせたのだ、とよっぽど言ってはやりたかった。ただ言われるがまま、この男の言葉――或いは命令に従っただけ。それなのに、そんな事を言われるような筋合いなど無いのにと。
 ジョシュアもまた、理性が多少ぶっ飛んで夢中になってしまった感じは否めないのであって。更に悪いことに、吸血鬼の能力の一つに催淫の効果だってある。
 知らず知らず、ジョシュアがそれらを発揮してしまったのは恐らく間違いはなくて。ジョシュアは文句の一つも言ってやる事が出来なかった。
 そんなこんなで、どんなに力をつけたとしても、ジョシュアはやっぱりジョシュアだった。目を泳がせながら言い訳を探す。

「いや、何というか……すまん。吸血鬼には催淫やら催眠やらの作用があるから……しばらく、休めば治るだろう。ここで大人しく――」

 そんなジョシュアの言葉は、途中で途切れてしまった。
 セナがその時突然、ジョシュアの肩に掴みかかってきたからだ。膝立ちで中途半端な姿勢だったのもあって、ジョシュアは簡単に後ろに倒れ込んでしまう。
 そしてそのまま、セナはジョシュアの上に馬乗りに乗り上げ、押し倒してきたのだ。あまりに突然のことに、ジョシュアは反応が遅れた。
 まさか彼がそんな行動に出るだなんて露にも思わない。何事かと目を白黒させている間に、魔術で両腕を拘束される。
 吸血鬼であるジョシュアが舌を巻く程に、あっという間の鮮やかな手口だった。もはや得もいわれぬ。ジョシュアは絶句していた。
 そして、そんな彼に向かって、セナは愉しそうに言ってのけたのだ。

「アンタのせいでこんなになっちゃったんだからさ、手伝ってよ」

 何をか。それを聞く暇すらなかった。
 セナは、ジョシュアの上で前を寛げたかと思うと。先程の行為のせいで起立していたそれを、まるで見せつけるかのように取り出したのだ。
 ギョッとしてジョシュアはその手を引こうとするも、セナの押さえる方が早かった。
 抵抗してブルブルと震えるジョシュアの手に、無理矢理セナの自身が押し付けられる。

「大丈夫、俺ソッチの気はないから手ぇ貸してくれるだけでいいよ」

 にっこりと、人懐こい素敵な笑顔でそう言ってのけたセナだったが。爽やかな見た目に反し、その言葉はまったくもって微塵も素敵ではなかった。
 お前は大丈夫でも俺が大丈夫ではない、とジョシュアはよっぽど言ってやりたかったのだが。
 余りに予想外の展開に頭が付いていけなかった。これは夢か何かなのでは、なんて、羞恥と未知すぎる体験とで、ジョシュアの頭の中は真っ白だ。
 他人のブツを握るなんて経験、ジョシュアはしたくもなかった。赤毛のものは結局、触らされるなんて事も無かったから。

 熱く激ったそれは、ジョシュアの手の中で体液を溢しながらぐじゅぐじゅと擦られている。顔を思い切り背けて見ないように出来る事が救いだったが、手の中の感触は生々しかった。
 時折上から降ってくる張り詰めたような声も、手の中で更に大きくなるいやらしい音も、ジョシュアにしてみれば混乱させる要素にしかならなかった。
 こんな事になるならば、やはり吸血なんてするものではない。吸血に対する苦手意識を一層募らせながら、とんでもない状況に耐えるジョシュアは知らない。
 こんな事態になっているのは、実はジョシュアの吸血の仕方が原因なのであって。歯を突き立てて吸われる分にはこのような事には普通はならないのだ。
 催淫の作用をもたらすのは、多くの場合、多量の唾液を相手の体内に入れてしまう事が原因なのである。
 そんな大切な事を、ジョシュアは知らない。知らされていないのだ。それをわかっていながら、わざと教えなかったミライアや赤毛のせいであるのだが。
 ジョシュアまだそれを知らない。

「う、っく――!」

 手の中でそれがビクビクと震え、精液がジョシュアの上に吐き出された。白いシャツの上とは言え、点々と汚された服はきっと、そのまま捨てられる事になるだろう。
 目を瞑ったそれらをままやり過ごしたジョシュアは、ようやく終わりを見出して薄らと目を開く。ホッと詰めていた息を吐き出した。
 ようやく彼から解放されるのだと安堵した。

 その時だった。何故だか突然、セナはジョシュアの上に上体を倒して来たのだ。それにもまたびっくりとしたジョシュアは、慌ててその男の様子を見ようと顔を向ける。
 セナは未だに荒い息を吐き出しながら、何故だかジョシュアの肩口へと顔を埋めていた。そして、眠そうな声で一言、言ってのけた。

「アンタってほんと、訳分かんないな。俺の事全然怒んないし、化け物の癖に腰低すぎだし、他人の事心配しすぎだし──少し、ホッとする」

 こんな事をしでかしておいて何て事を言うのか。そう思わないでもなかったが、何故だか、セナが小さな少年のように見えてしまって。ジョシュアは怒る気も文句を言う気もすっかり失せてしまった。その場で思い切り脱力する。
 ジョシュアは可能な限りそっと、彼に声をかけたのだった。

「もう、気は済んだか。退け、重いし痛い、拘束を外せ」

 セナはそれっきり、何かを話すことなく。黙ったままジョシュアの上から退くと。言われた通りに拘束を外し、飛び散った汚れを布切れで綺麗に拭き取った。
 そうして何かを言う事もなく、彼はまるで嵐のように部屋から出て行ってしまったのだった。

 一体、今の出来事は何だったのだろうか。白昼夢でも見ていたんだろうか。何て日だ。
 すっかり整えられて部屋に残されたジョシュアはひとり、眠れない夜を過ごしながら延々と考えるのだった。
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