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無敗の吸血鬼
11.赤毛の吸血鬼 前
しおりを挟む幾日も幾日も、同じ事の繰り返しだった。
あれから赤毛の攻撃を食らい続けておおよそひと月程。ジョシュアはもう腹に風穴を開ける事も、手脚を失う事も無くなっていた。
相変わらず赤毛の攻撃は食らってはしまうものの、身体に傷を作る事も随分減っていた。
それに加え、時折赤毛からかまされるセクハラ発言やどぎつい冗談にだって、ジョシュアは嫌でも耐性がついた。それをさらりと流すような技術も、覚えてしまったのだ。その度に残念そうにする赤毛がやけに目に付いたが、彼は気にしない事にしていた。
見た目は壮年の男にそういった発言をかます、赤毛のその心理はいまいちよく分からない。けれども、見た目では判断しないその心根だけは、ジョシュアは素直に信用する事にした。
「なーんだぁ、もう慣れきっちゃってつまんないの。血ィ飲めないじゃんか」
いつものように、一階の広間で休息をとっていた所で。赤毛が何故だか、残念そうに言った。
大ぶりのソファにぐでっと身体を預けていたジョシュアの隣、前のめりになって両脚に肘を付き、顔の前で手を組んで深妙な顔付きをしている。相変わらず理解しきれない赤毛の物言いに、ジョシュアは思わず口を挟んだ。
「師匠だって言うなら喜べよそこは」
「えーー?」
「血なら俺以外からも貰ってるだろ」
「うーーん」
「……一体、何が不満なんだ」
いつも以上に意味の解らぬ赤毛に、ジョシュアは眉間に皺を寄せた。その日は一日、赤毛はうんうん唸っていたが、次の日には元通りだった。ジョシュアも、あの男の気紛れだろうと気にもしなかったが。その理由は後日知れた。
いつものようにボロボロにされて、クタクタになりながらベッドに潜り込んだジョシュアは、その日もまた気絶するように眠りについた。
すっかり夜型の生活にも慣れてしまって、明け方前に床に入り、赤毛に合わせるように昼間はこんこんと眠りにつく。眠りから覚めればもうすっかり夜も更けて、魔の者達が活動を始める時間だった。
何日も同じ事を繰り返していれば、ジョシュアも違和感など感じなくなっていった。その日もまた、同じ日の繰り返しだと、ジョシュアはそう信じて疑わなかった。
ジョシュアが眠りについてそれほど経たない頃だろう。ふと気配を感じて、ジョシュアは目を覚ました。けれどもまだ寝足りない頭では目を開けている事もままならず、ゆっくりと目を閉じる。
赤毛がまた布団に潜り込みに来たのだろう、と寝ぼけた思考で、その気配だけを追った。
けれどもいつまで経っても、その気配は動く様子を見せなかった。
ただ、その気配がジョシュアをジッと眺めて、声もかける事なく佇むだけ。あの男らしくもない。違和感を感じたジョシュアは、目を開けて首を捻った。するとすぐ傍らに、ジョシュアを見下ろす赤毛の姿があった。
その目と、ジョシュアの視線が合わさったその瞬間だ。背筋がゾクリと震えた。頭で警告音が鳴り響く。逃げなければ、と頭では分かっていても、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場から動く事が出来なかった。
いつものような、どこか軟派な赤毛の気配はすっかり成りを潜め、ただ無心に、獲物を狙う時のような冷たい目をしていた。目の前に居るのがジョシュアだとすら分かっていないかもしれない。
普段のようなおちゃらけた軟派な雰囲気も、殺気を出した時のような力強さすらもない。ただの無機質な怪物だ。まるでハンターの倒すべき化け物のようだった。
何故赤毛がそんな状態になっているのか、ジョシュアには分からない。けれどもその目が、本気で彼を捕食しようとしている事だけは確かだった。
身体が動かない。あの一目で、赤毛の術にかかってしまったのだろう。吸血鬼という魔族の恐ろしさをまざまざ感じ取りながら、ジョシュアは何度目かも分からない死をすら覚悟する。
赤毛の目と視線を合わせてしまった時点でもう、手遅れだったのだ。普段の赤毛の様子から忘れがちではあるが、赤毛はジョシュアなんかと比べれば、何倍も吸血鬼らしい吸血鬼なのである。
赤毛はゆっくりと動き出した。
ジョシュアは必死で、赤毛の術を破ろうと抵抗した。けれど未だ、昨晩の傷を引きずっている身体だ。普段ならばまだしも、今のジョシュアには到底敵いっこなかった。
せめて術の源である赤毛の目が、少しでも逸れさえすれば。ジョシュアにも勝ちの目はあるのかもしれない。
けれどそこは、元が用意周到な赤毛の事だ。無意識下においても、そのような下手を打つ事はなかった。
赤毛は、舌舐めずりをしながらゆっくりとジョシュアのベッドの上へと乗り上げてきた。碌に動けもしない彼を転がし、上衣の首元をずるりと引き下げる。
目の前に現れたであろうその首筋を赤毛は何故だかしばらくの間、噛んで、舐めて、まるでその質感を愉しむかのように好き勝手に弄り倒した。
赤毛の視線が逸れた今が、ジョシュアの絶好の機会であるはずなのに。彼の体は竦んでしまった。
またしても急所の喉元を狙われている。その緊張感か、はたまた死んだ時の記憶の所為か。ジョシュアはその好機を逃してしまったのだ。
気付けば赤毛は、獲物を前にしてその大口を開けていた。勢いを付けてガブリと、そのジョシュアの首筋へと思い切り喰らい付いたのだった。
「ぐッーー!」
一瞬の痛みと共に、ぐいぐいと奥まで食い込んでくる牙が、吸血の本気度を物語っている。
赤毛が正気では無いのなんてすぐに気付けたが、その対処法なんてものはどう考えたって思い浮かばなかった。力では到底、この男には勝てないのだから。
悪い事態というのは、立て続けに起こるものである。
ジョシュアはそこで、とんでもない事に気付いてしまった。牙の食い込んでいる傷口は確実に痛い筈であるのに、そうではない感覚を同時に覚えてしまったのだ。
痛みの中から僅かに湧き上がる快の感覚。認識した途端、それがじわじわと広がっていくような感覚に、ジョシュアは悶えた。
「う、ぐぁ、あッーー!」
ずるずると容赦なくその血液を吸い上げていくその感覚に、何故だか身体が火照った。全身から力が抜けていく。
それこそが、吸血鬼が獲物を喰らう為の能力の効果である。獲物の抵抗を減らし、楽に捕食する。ましてや、相手はミライアと比較しても遜色ない程に力のある吸血鬼だ。
例え相手が効果の最も効きづらい同類の、しかも男であってさえ、このように効いてしまうと言うのだから。その強力さは窺い知れよう。
最早、抵抗する為の魔力を巡らす事もできず、ジョシュアは完全にされるがままとなってしまった。ミライアに殺された時ともまるで違う、全力の魅了の力。ここ1ヶ月ほどで、赤毛の血を多量に摂取してしまったのも悪かった。
眷属にこそされてはいないが、己よりも強力な力の者に服従してしまうのは吸血鬼含む魔族に共通する性質だ。
そんな本能から、ジョシュアは赤毛に対する抵抗する気力をかなり削がれてしまっていた。おまけにこの間中ずっと、彼は赤毛に散々痛め付けられているのだ。いっそ恐怖心すら抱いているのかもしれない。
そういった様々な事情も重なり、ジョシュアは大変危険な状態にあった。
血が抜け出ていく事を意識する度、ぞくりと背筋が震えてあらぬ所にまで熱が集まり出す。時々赤毛の舌がぬるりと愛撫するように蠢いたり、首筋やら耳元やらを指でなぞったりするものだから。ジョシュアはその度に、身体を震わせる事しか出来なかった。
まずいまずいと危機感を覚えはすれども、身体の方がまともに言う事を聞かなかった。自分の頭の妙に冷静な部分で、コレが吸血鬼の魅了というものか、なんてその効果の強力さを考えるなどする。
いやさそんな事を考えている場合ではないのだ、最悪本当に殺されるか、或いは赤毛に別の意味で喰われるに違いないと。そこまで考えた、ところで、ジョシュアはようやく我に返った。
危うく快楽に溺れるところだった。赤毛の魅了の魔力にジョシュアが慣れて、頭が動き出したせいだろうか。
やはりこんなでも、伊達に長年ハンター生活をしてはいない。ポンコツだ何だと言われ罵られても、ジョシュアは決して一般人ではないのだ。
覚醒したジョシュアは途端、素早く魔力を身体中に巡らせた。少しでも魅了の魔力の影響を薄め、抵抗するだけの気力を回復する為だ。
眠っていたミライア由来の力を無理矢理叩き起こし、身体の内の一点、右脚に力を集中させる。力を無駄遣い出来ぬ状況下で、確実に逃れ、あわよくば赤毛を正気に戻す為に。ジョシュアはここぞという好機を狙った。
その右脚で、喰らい付いたままだった赤毛の腹を、思い切り蹴り飛ばしたのだった。
「ぐうッーー!」
食事の最中だ。完全に油断し切っていたらしい赤毛は、攻撃をまともに腹に受け、呻き声を上げながらべしゃりとベッドの向こう側へと落ちていった。
それからすぐに身体を起こして体勢を整えたジョシュアは、戦闘時のような緊張感やら貧血やら、おまけに中途半端に焦らされた熱やらを持て余しつつ、枕元にあったナイフを右手に握った。
その手が震えていたのは、恐怖なのか武者震いなのか。ジョシュアにもよく解らなかった。血も足りぬ中で突然動いた反動か、頭がクラクラとしてまともに動かなかった。吐き出すその息が荒いのは、自分でも嫌と言うほど分かっていた。
左手で首筋に触れるとそこがぬめりとした。生暖かい己の血の感触だ。
計四本、開けられたその傷口は未だ塞がってはおらず、その血は次々と溢れ出てきた。それを少しだけ自分の口に含んだ後、ジョシュアは血を止めるように首の根本を圧迫した。吸血鬼なのであるし、そう易々と死にはしないだろうが。それはもう、ジョシュアの気分の問題だった。
その手に、ドクドクとした己の血の巡りを感じた。荒い鼓動を反映するように、暴れるように脈打つ感覚は酷く生々しく感じられる。自分達を生かす、生命の源。
しばらくの間、部屋は沈黙に包まれた。
動きがあったのはすぐだった。ベッドの向こう側、もぞもぞと動く気配がする。ジョシュアにとっては長い長い時間のようにも感じられたが、実際にはほんの数分程の出来事だったのかもしれない。それでも確かに、赤毛が動き出す気配がした。その音に無意識に、ジョシュアの身体が震えた。
「あ、れーー? 俺、何してたんだっけか……」
そんな静かな声と共に、のそりと赤毛が立ち上がるのが見えた。先程のジョシュアの蹴りは随分と効いたのか、赤毛は痛そうに腹を押さえていた。その顔は、随分と険しく歪んでいるようだった。
ふるふると顔を振てから、赤毛が顔を持ち上げる。そこにはもう、先程までの冷たい眼差しは無い。けれども当のジョシュアはといえば、ぐにゃぐにゃと踊り始めてしまった視界にくらくらとしていた。赤毛の変化に気付く事も出来ず。険しい顔のまま、赤毛のその様子を窺っていたのだった。手元のナイフを固く握りしめながら。ジョシュアはその時を待っていた。
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