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無敗の吸血鬼
10.死に至るやまい
しおりを挟むジョシュアが目を覚ましたのは明け方近くだった。窓の外からうすら聞こえる鳥の声が、これからも目にすることはないだろう朝を告げていた。
起き抜けのぼんやりとした頭でも、気絶する前の事は克明に思い出された。
何度も何度も、泣きたくなる程殺された。避けても受けても吹き飛ばされる。気付くと手脚は無くなっているし、無理矢理血を与えられれば驚く程の速度で生えて来る。
死神の如き赤毛の戦いぶりに、ジョシュアは吸血鬼の戦い方というものを嫌でも覚え込まされた。
そして同時に気付くのだ。己はもはや人間ではないのだと。思い知ってしまった。悲観する暇も余裕も、ジョシュアには無かった。
もはや身体も精神もボロボロで、しばらく戦いと名の付くものは遠慮したい。けれどもきっと、あの分ではしばらくミライアどころか赤毛のお許しすら出ないのだろうな。そう思うと、ジョシュアは自然大きなため息を吐いてしまうのだった。
そう、ひとしきり絶望した後で。ジョシュアは横になったまま、ぐるりと周囲を見回した。場所はいつもと同じ、赤毛に連れてこられた大きな屋敷の二階だ。
この家には誰も住んでいないのか、はたまた家主が出かけているのか、自分達以外の気配を一切感じなかった。
思いのほか広い地下室と、生活に必要な物の置かれたパントリーや広間のある一階、そして、寝室など複数の部屋を有した二階。
平民、というには大き過ぎる家だ。どこぞの貴族のセカンドハウスのようにも見える。何故、このような場所に赤毛が自由に出入り出来ているのか。ジョシュアには疑問でしか無かった。
けれどあの男ならば、女も男も誑かして好きに(人を)使っているのだろう。もう何も突っ込むまい、とジョシュアは心の中で言い聞かせた。
寝かされていたのは、二階にある部屋の中でも一、ニを争う程に大きな部屋で、客か主人でも迎えられるような豪華な造りをしている。
家主に断りも入れず豪華な部屋に寝ていた事に恐縮してしまうのは、彼の貧乏性が故か。毎度ながらボロ衣のようになっていた衣服は、いつものように綺麗なものに着替えさせられている。それをやったのがあの赤毛だと思うと、少し、いやかなり微妙な気分にはなるのだが。背に腹は代えられない。ミライアでない事を幸運に思うしかない、と、ジョシュアは無理矢理に納得させた。
そんな起き抜けの思考に区切りをつけたジョシュアは、ようやく起き上がる決心をする。
起き上がってしまったら、またあの訓練が始まるのだと思うと憂鬱だった。逃げ場なんてどこにもないのはジョシュアも承知しているし、それに、辛いばかりという訳でもないのだ。
彼は元々ハンターだった。人間の、軍や騎士達の手に負えない化け物に立ち向かう、化け物退治の専門家。
その在り方は違えど、ミライアに付いて回ればジョシュアもいつか、正真正銘のハンターになれるのではないか。そんな淡い期待を抱かせる。
起き上がるために、掛けられていた薄い毛布を捲る。
そしてその瞬間、ジョシュアは硬直した。
布団の中、彼の腹の辺りに腕を回しつ、何と、赤毛がそこで眠っていたのだ。
ここ数日ほど行動を共にしてはいるが、赤毛の眠る姿を見るのは初めての事だった。あまり眠らなくても平気だとか、他人の前では眠りたくないだとか、赤毛は色々と喋ってくれたのだが。では一体、これはどういう訳なのだろうか。ジョシュアは考え込んでしまった。
ミライアも含め、吸血鬼は基本的に他者とは連まない。各々個性が強すぎる所為もあるのだろうが、戦闘を好む性質が故、いつ誰が敵になるか分からないという所が大きい。
それは戦闘が苦手だと言い張る赤毛も同様の事で、寝首をかかれぬ為にも他者の前では眠らないのだ。当人はそう言っていた。そのはずだった。
「…………」
思わず無言で見つめる。これは一体何の拷問なんだろう、と回らぬ頭で考えた。けれども、疲れの抜け切らない中では頭も碌に動いてはくれなくて。ジョシュアは早々に思考を諦めた。
そうして何とか、起こさぬようにしながらその腕から逃れようと思考を凝らす。腕を引き剥がそうとしたり、その腕の中からすり抜けようとしたりと。だが赤毛の馬鹿力に阻まれ結局は無駄だった。
かと言って諦めようにも、寝起きのジョシュアの身体はひどく水分を欲している。今すぐにでも、部屋の向こうに置いてある水差しの水が飲みたくてたまらないのだ。
はて困った。ジョシュアは動きを止めて考えた。眠っているところを起こすのも気がひけるし、他に方法なんてあるのだろうか、なんて。無言でうんうん唸っていると。
ふと、腰に引っ付いて離れない赤毛の身体が、微かにブルブルと震えている事に気が付く。
すると途端、ジョシュアはハッキリと苛立ちを覚えた。
このふざけた男は、ジョシュアがこの腕から抜け出そうと奮闘するその様子を、最初からそこで笑って見ていたに違いないと。
「……おい、アンタ、起きてんのか?」
苛立ちを隠しもせずに声をかけると、赤毛の震えは益々強くなっていった。それでも尚、無言のまま震え続けるので、彼は苛立ち紛れに赤毛に蹴りを入れる。
もう、寝ているのを起こさないように、だのという遠慮は必要ない。結構本気で蹴り付けながら、ジョシュアは脱出を試みたのだった。
するとようやく、狸寝入りの赤毛から悲鳴が上がった。
「あ、痛っ、それ痛い、骨当たってる」
「煩い。起きてんなら退かせ」
「ひぇっへっへっへ」
「おい!」
最早完全に笑いながらジョシュアを拘束している赤毛に対して、何とも名状し難い歯痒さを覚える。
先刻の死闘で散々恐怖心を煽っておきながら、一歩訓練から離れれば童心に返ったようなこの有り様。どこまで踏み込んで良いものか、どこまで態度を緩めて良いものか、未だ判らずにいる。
ミライアにすれば威嚇されそうな言動も、赤毛ならば笑って許してくれそうな気もする。けれども恐ろしさで言えば、容赦をしない、話を聞かない赤毛の方が、理解し難い分、断然恐ろしいのである。
ジョシュアは困惑していた。この男の事が、理解出来なかったのだ。
その場で大きくため息を吐く。抜け出す事は諦め、ジョシュアは脱力しながら赤毛に問うた。
「アンタ……ほんと、何なんだよ一体。他人の前では寝ないんじゃなかったのか」
「んー?」
「俺は一体、どうすれば良いんだ……水を、飲みたいんだが」
「ああー、それで必死だったのね」
「……寝惚けてんのか?」
「んー、かもしれない、久々に眠ったよぉ」
「昼間も、起きてるのか?」
「うん。ここの地下に籠ったりしてる。後は女の子と遊んだりー、カードしたりー、色々」
「……そうか」
赤毛の気分が変わり手放してくれる事を願いながら、ジョシュアは赤毛の話に付き合う事にした。
「眠ったってただお腹空くだけだし。俺さぁ、結構寂しがりなんだよねぇ」
「…………」
「かと言って、同族呼んでも戦えだ何だのとウザいだけだし。女の子だったらそういう心配ないしー、美味しそうだしー、愛でるには最適ってね」
突然始まった赤毛の話に、ジョシュアは何も言わず聞き入る。今は茶化すような場面ではなさそうで。ジョシュアは腰にへばり付いたままの赤毛をそのままに、その後頭部を見つめた。
“赤毛の”と呼ばれる程見事な彼のトレードマークは、ジョシュアが今まで見た者達の中でも、最も鮮やかに色付いて見えた。
「俺さぁ、同族ん中でも大食感なんだよね。最初の頃、加減出来なくて人殺し過ぎて、姐さんに始末されかけた事あんの」
不意打ちで告げられた内容に、ジョシュアは思わず絶句した。そんな雰囲気でもなかったはずなのに。一体、この男は何を考えているのだろうか。考えても解る筈が無かった。
「そんでぇー、血ィ飲みすぎる前に他の欲でも満たして、色んな奴から血を貰えって姐さんに言われてね、今こんなんなのよ」
「…………」
「後で話聞いたら、モンスターやらにでも突っ込んで戦って発散してこいって意味だったらしいけど。ま、俺はこっちのが好きだし今んとこ上手くいってるから結果オーライ、みたいな?」
赤毛らしいといえばらしい話だ。そう語る男は余りにも普段通りで。一体どういう顔でその話を受け止めれば良いのか解らぬジョシュアは、ただそれを黙って聞くだけだった。
ここで話し上手な者ならば、気の利いた言葉のひとつでもかけるのだろうが。ジョシュアはそういった事は苦手なのである。ただ何も言わず、普段通りを貫く。
それが正解なのかどうなのかも解らないけれども、この男が口下手なジョシュアにこの話をしたという事は、特に何か言って欲しい訳ではないのだろう。そう思うしかなかった。
だがしかし。ここで忘れてはいけないのは、ジョシュアが今相手をしているのが常識というものが全く通じない赤毛なのだという事。
この男は、他の吸血鬼とは違い、生粋の遊び人なのである。
「って事でさぁ――、戦い方も教えてあげてるんだし、相手、してくんない?」
「…………は?」
唐突な赤毛の問いかけに、理解が追い付かず奇妙な声が出る。
それにも構わず、赤毛は再び、ハッキリと告げた。
「セックスの」
唐突に爆弾を投下してきた赤毛に、ジョシュアは思わず、言葉を失った。信じられないものでも見るような表情で見下ろせば、赤毛はジョシュアを見上げていた。意味深に笑って、コテン、と首を傾げてみせる。
そしてもう一度、念押しするかのように、赤毛はハッキリと言ってのけた。
「セックス。俺の相手」
「…………他所をあたれ」
慌ててジョシュアは首を横に振る。けれども赤毛はめげなかった。
「だって朝きちゃうじゃん」
「ぐ」
「途中でぶっ倒れた君をここまで運んであげたのは誰かなぁ? 血ィいっぱいわけてあげたのは誰かなぁ?」
「…………」
「あーあッ、俺もしかしたら人襲っちゃうかもしれないなぁー!」
ジョシュアの弱味に付け込んで言いたい放題である。しかしジョシュアも、伊達に赤毛と共に時を過ごしていない。多少なりとも、赤毛への耐性は付きつつあるのだ。
世の中には、素直に言う事を聞いてはいけない人種も山ほどいるのだと。
「アンタ、どさくさに紛れて血は口にしてただろッ! ーーそれに、『他の欲求を満たす』って意味ではあの戦闘もその内だろうが」
そんなジョシュアの反論を聞いた赤毛は、途端にびっくりとした表情になる。まるで、彼がそんな事を言ってくるなど想像もしていなかったかのように。
「わぁー……バレてたの。“影の”はほんと、慣れてきちゃったねぇ、俺の扱い」
「自分で言うなッ。アンタの言葉をイチイチ真に受けてたらどんな目に遭わされる事か」
「アッハハ、流石に気付いちゃったか! いやぁ、訳も分からずで素直な君も中々面白かったけど……まぁ、その方が後々困らないよ。一つ、課題クリアかな? この俺のお・か・げ」
語尾にハートマークでも付きそうな口調で言った赤毛にジョシュアは脱力する。そこまで分かっていた上で、ジョシュアの課題をひとつひとつ潰す為にそう言った言動をしているというのであれば。赤毛は中々の策士なのだろう。
早々に気付けた事を幸運に思いながら、しかし今後も数日は行動を共にしなければならない事をジョシュアは嘆いた。
「さぁて、残る課題は後何日でクリア出来るかなぁー? あんまり遅いと姐さん一人でさっさと王都行っちゃうかもねぇ、最近この街出たりしてるみたいだし」
「えっ」
「あれ、知らなかった? ちょくちょく他の街出かけて行ってるよ。“影の”置いてかれてやーんの、ぷーくすす」
「…………」
「あっ、もし姐さんに捨てられたら俺拾ってあげるからねぇ!」
相変わらずのハイテンションと馬鹿力な赤毛に振り回されながら、ジョシュアは頭を抱えた。本気なのか冗談なのかもよく分からない彼の言葉に、しかしジョシュアは心乱されてしまっていた。
本当に、ミライアに置いていかれたらどうしようか。そんな考えても仕方のない事に、ジョシュアは不安を覚えた。
また、置いて行かれる。
赤毛に拾われようが拾われまいがどちらでも良い。ただ、ジョシュアの中の何かを見出してくれたミライアが、もしジョシュアに本当に幻滅してしまったら――そう思うと、急に恐ろしくなってしまったのだ。
ミライアならば、人間を吸血鬼にしておいて捨てる、なんてそんな無責任な事をやらかさないだろうという勘のようなものはある。けれども、人ーー吸血鬼の心なぞジョシュアが理解しきれるはずも無く、ミライアの心変わりがあればそれをジョシュアが止めるすべもない。ジョシュアの知らないミライアの人格が、あるのかもしれない。
そんな事を考えてしまうと、急にガラガラと足元が崩れていくような感覚を覚えて、胸の奥がぎゅうと締め付けられるような気がした。本人が思っているよりも更に、ジョシュアは動揺していたらしかった。
ミライアが、自分よりも何倍も強い女性だからか。嫌でもその時の事を思い出してしまうからか。
ジョシュアの昔の話。
才能に溢れる相棒を見送った時の事は、今でも夢に見る。
本当は一緒に行きたかったのだ。自分にも彼女ほどの、彼等ほどの才能があればと何度も思った。中央で名を馳せ、この世界でも有数の伝説的な存在になった彼女らは、かつては自分の仲間だったのだと。
その名前を聞く度に、ジョシュアは吐き出してしまいたかった。アレはかつて自分と共に旅をした仲間なのだと。知り合いなのだと。まるで虎の威を借る狐のようにみっともなく。
性懲りも無く自分の夢を諦めきれなかったのは、幾度とない窮地にも死にもせず、五体満足で生き残ってしまっていたから。とっとと死んでしまっていれば、戦闘不能になる程の怪我でも負っていれば、諦めもついたのかもしれない。
中途半端な勘の良さというものは、自分でも嫌になる程に優秀だったのだ。使い熟せもしないくせに、一丁前に自分の命を張り付くように守っている。
それでもようやく、ジョシュアは彼女らに追いつけたかもしれないのに。人の身ですら無くなってしまった。自分の犠牲の上で掴んだそのチャンスですら、無為にしてしまっている。本当に、自分は何て駄目な奴なんだろうか。
ジョシュアは久々に考え込んでしまった。それはこの身体になってからは、初めての事だ。ミライアが共に居ない事で、少しだけ気が緩んでしまっていたのかもしれない。考えるキッカケが出来てしまったからかもしれない。それはジョシュアに定期的訪れる、死にも至るやまい。
「“影の”?」
突然黙りこくってしまったジョシュアを変に思ったのだろう、赤毛が首を傾げながら声をかける。だが、その返事がない。かと言って、わざと無視をしている雰囲気でもなく。赤毛は身体を起こしてジョシュアの顔を覗き込みにかかる。
その時、赤毛は気付いただろう。黙り込んだジョシュアの目が、酷く遠くを見ている事に。本人にはその自覚こそ無いだろうが、それは人間が死にに行く時の目に、良く似ていた――。
その時だった。起き上がったままだったジョシュアの身体が、突然バランスを崩し、そのままベッドへと逆戻りしてしまったのだ。
「――! なんッ」
その衝撃で思考の渦から突然現実に引き戻されたジョシュアは、突然の異変に仰天する。けれどもそれも一瞬で、それをやらかした犯人なんてこの場では一人しか居ない。
一体何事かと目を白黒させるジョシュアに向かって、赤毛はわざとらしく言う。
「はいはい、お疲れのバブちゃんはゆっくり寝ましょうねぇー」
「お前……」
大変、癪に触る言い方である。
けれどもそれは、余裕が無い程に疲れ切っているジョシュアを気遣っての事であるのには違い無くて。顔を顰めるものの、ほんの僅かだけ赤毛に感謝する。久々に深く陥ってしまった自己嫌悪を、少しでも紛らわす事が出来たのだから。
まぁ、その原因を作ったのも赤毛本人であるには違いないのではあるのだが。それでもジョシュアを何とかしようとしている気概は感じるのであって。
ジョシュアはその時ようやく観念して、ベッドに引きずり込んでくる赤毛のされるがままとなった。
「ああ、そういや喉乾いてるんだっけか。……なら仕方ない、君には俺のをあげるから我慢してねぇ」
「おい待て、俺のってどういう意味だ“赤毛の”」
「え? 何、嫌なの? しょうがないなぁ、それじゃあ特別にあげるから……“影の”のえっち!」
「おい待て、待て待て待て! 寄るな! 触るな! 見るな!」
「ヤダコレ辛辣ぅ、師匠の俺に向かって」
「ぐ、」
その後も一悶着あって、ジョシュアが赤毛に散々振り回される事になったのはご愛嬌。けれどもそれは、ジョシュアの暗い思考を跡形も無く吹っ飛ばすには十分な威力であって。その前に考えていた事などはとっくに忘れ去られてしまったのだった。
指から血液を与えられながら、しぶしぶ従うジョシュアからはもう先程までの負のオーラは感じられない。それをニヤニヤと見つめる赤毛はいつも通りで、ジョシュアはその日、眉間に皺を寄せながらも、なんとも言えない気分を味わう事となった。
「ねぇ、指フェラって知ってる?」
そんな赤毛の言葉を聞くまでは。
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