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2章:普通なあたしのふつうな日常
はねるうさぎ
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--満天の星空
それが視界いっぱいに飛び込んできた。
ほんの一瞬、瞬きひとつした途端に目の前の光景全てが変わってしまっていた
さっきまでの茜に輝く黄昏の空から、頭上に広がる星降る満天の空へ
まるで書き割りの背景が切って落とされたみたいに、本当に一瞬で切り替わってしまった。
「透子、私たちさっきまでロープウェイの駅にいたのよね……」
あやめの呆然とした声。普段はものに動じないこの子でも、この状況はすんなり受け入れるのは難しいみたい。まあそうだよね、こんなの普通に生きてたら体験することないもんね。
くるりと視線を走らせただけでわかるくらい、あたし達の周りは何もかも変わってしまっていた。
さっきまであった何もかもがなくなっていて、あたしたちの他にあるのは見渡す限り続く地面と星降る夜空。
ただそれだけ。
星灯りだけが頼りなのでそう遠くは見渡せないけれど、見える限りの範囲には何もない。さっきまですぐそばにあったはずのロープウェイのゴンドラも、ロープウェイの施設自体もなくなっていた。
それどころか湾岸地区のあらゆる施設すら、あたしたちの視界から消えてなくなっている。
「うぁぁ、やっちゃったぁ…… こんなに深く診るつもりなかったのに……」
はい、これ。完全にあたしのやらかしです。瀬川くんをうっすら覆っていた常世の影、それを軽く診てみるだけのつもりだったのに、それに 見入ってしまった。
見て、入ってしまった。
瀬川くんを薄く覆っているだけだった常世の影は、今やあたし達の現世を覆い隠してしまっていた。影がより深くより色濃くなってしまったのは、私が彼のを覆う影を迂闊に深く榮目してしまったせい。
( 彼岸をはっきり認識しちゃったら現世に呼び寄せちゃう体質、ほんと制御不能で困るんですけど……)
あたしがそう認識してしまえば、黄昏を境に常世と現世は容易に反転してしまう。幼い頃から私を悩ませるこの体質のおかげで、あたしは二つの世界の間に何度となく足を踏み入れて来た。
(そして、今度はこの二人を巻き込んでしまった、と。こういうことがないように、人付き合いを避けて来たんだけどな……)
あたしはそっと一つため息をついた。
ところで、私の厄介な体質に巻き込まれた二人はといえば、二人で仲良くケンカの真っ最中みたいだ。あやめと瀬川くん、全然なかよくないと思うけどそこはそれ。言葉のあやってやつ?
「おい、鬼頭。おまえ、いい加減そこどけよ」
「いやよ。あなた何するかわかったもんじゃないもの。彼女に手を出したら絶対許しませんからね!」
冗談はともかく、あたしが状況を確認している間に、二人はかなり険悪な感じになっていた。あたしに手を触れようとする瀬川くんを体を張って割って入ったあやめが止めてくれている。そんなあやめに瀬川くんは随分とイラついてるように見えた。
「はっ! 何が許さねーだよ。お前だってどうせその女の血を狙ってるんだろ? ああ、それともあれか? 前からの知り合いみてーだし、そいつの血、独り占めしてんのか?」
「失礼な事言わないで! 人の血なんて、いらないわよ! あなたと一緒にしないで!」
「じゃあいいじゃねーか。俺はそいつの血を取り込んでもっと強くなりてーんだよ。おめーはそこで指咥えてみてるんだな!」
興奮した様子の瀬川くんが強引にあやめを押し退ける。あやめは背が高いとはいえ、ほっそりとした普通の女の子。瀬川くんみたいな体格のいい男の子が本気になったら逆らうことなんてできない。
「何するのよ! 」
押し退けられて体勢を崩したあやめが、怒りの声を上げる。瀬川くんはそんなあやめを鼻で笑ってあたしの腕を取ろうと腕を伸ばしてくる。
「透子に手は出させないって言ったわよ!」
その時空気が切り裂かれる、鋭い音がした。
咄嗟に振るわれたあやめの腕が空気を切り裂いた音。
あたし達がそれを理解したのは、瀬川くんの服の袖がぱっくりと切り裂かれ、彼が痛みに腕を引っ込めてからだった。
「お前、鬼の血の力、そこまで引き出せたのかよ……」
瀬川くんの端正な顔が驚きと警戒で歪む。一瞬で見せたあやめの動きはそれほどまでに鋭くて、とてもじゃないけど人間では無理だと思わせるものだった。
でもこの場で一番動揺していたのは当のあやめ自身。あやめは自分の体に流れる古い血で、自分が鬼になってしまうことを何より恐れているんだから当たり前だ。
「鬼の力? なんで? 私、こんなの知らないわ…… うそよ、私にこんなこと、できるわけない…… 私は、鬼じゃないもの!」
「あやめ、しっかりして。大丈夫、あたしがいる。あやめにはあたしがついてるから大丈夫!」
よろけたあやめに背中からぎゅっと抱きついて、支えながらあたしは呼びかける。腰に回した私の腕、その手首を震えるあやめがすがるように握りしめた。
「つっーー」
なんて力なんだろう。
骨が、軋む。
あたしは漏れそうになった悲鳴を咄嗟に飲み込む。ここで悲鳴なんてあげたら、あやめはきっと心を痛めてしまう。絶対に、声なんて上げられない。
「透子、私、大丈夫だよね。ちゃんといつもの私だよね?」
「大丈夫、ちゃんといつものあやめだよ。大丈夫」
あやめの気持ちを落ち着けるように語りかけながら、手首に指を食い込ませるあやめに手を重ねる。
大丈夫、大丈夫と呼びかけながら、あたしは繰り返しあやめの手の甲をさすってあげた。
それでようやく落ち着きを取り戻したのか、あやめはやっと手首を離してくれた。
「ごめん、取り乱してしまったわ。もう大丈夫よ。透子が落ち着いていてくれと、本当に助かったわ」
「ううん、いいよ。あやめは大丈夫って信じてたから。それより、少しだけ瀬川くんお願いしていいかな?」
ぽんと、あやめの背中を一つ叩いて、あたしは彼女から身を離す。
「あたしはその間に出口探す」
「わかったわ」
言い切るあたしに、短く返事を返してくれるあやめ。
「できるの?」だとか「なんで?」とかではなく、ただ純粋な肯定の返事。それがあたしへの信頼だとわかるから、こんな状況だというのにあたしの胸が少し暖かくなる。
「なんだよ、俺と本格的にやり合おうっていうのかよ? ちょっとくらい血の力を引き出せたからっていい気になるんじゃねーぞ?」
「いい気になんてなってはいないわ。私たち、瀬川くんのことなんてどうでもいいの。放っておいてもらえると嬉しいのだけど?」
「俺はお前のこと、前よりもずっと気になっちゃってるぜ? なぁ、相手してくれよ鬼頭ぁ!」
二人は互いに動きを探り合っているみたいだった。
瀬川くんはあやめと向き合ってジリジリと位置をかえてくる。あやめを警戒しているのがありありと見える動き。
対してあやめの方はすっと背筋を伸ばした自然体。あたしと瀬川くんの間に常に割って入るように立ち位置を変えている。
(やっぱり、あやめ、すこし古の血が表に出て来てるみたい)
瀬川くんと相対するあやめの横顔、それをそっと盗み見る。
あやめの瞳がいつかの屋上みたいに紅に濡れていた。
今あたし達がいるこの場所が常世に近いことが原因なんだと思う。鬼だとかなんだとかは、もともとこっちの住人だと曽祖母ちゃんからは聞いていた。
( 出口は、どこ? あやめのためにも早く現世に戻らないと)
もう一度手順を踏んで右目に触れて常世《かくりよ》の影を見通す力を右目に宿す。
片目を瞑って周囲を見回す。
星灯りの闇に重なって、元いた世界の影帽子が揺れる。
不意に誰かに呼ばれたような気がしてあたしの目は自然とそちらに注目した。
ーーあった。あそこだ……
扉を開けたゴンドラと、その扉の横に立って私たちを手招きする人影が見える。
「あやめ、先に行ってる。呼んだらすぐに来て」
あやめに小さく囁いて、あたしはあやめに背を向けた。あやめの答えは聞いてない。聞かなくても大丈夫。きっとあやめには伝わっているはず。
あたしは星灯りの闇に足を踏み出す。
一歩、二歩、三歩、小さく跳ねながらウサギのように
一歩、二歩、三歩、少し足を引き摺りながらウサギのように
3拍子を守りながらゆっくりとゴンドラの扉を目指す。
「後ろがつかえますからお早くお願いします」
慇懃に急かす係員の声が殊更はっきり聞こえた時、あたしはゴンドラの中に足を踏み入れていた。
それが視界いっぱいに飛び込んできた。
ほんの一瞬、瞬きひとつした途端に目の前の光景全てが変わってしまっていた
さっきまでの茜に輝く黄昏の空から、頭上に広がる星降る満天の空へ
まるで書き割りの背景が切って落とされたみたいに、本当に一瞬で切り替わってしまった。
「透子、私たちさっきまでロープウェイの駅にいたのよね……」
あやめの呆然とした声。普段はものに動じないこの子でも、この状況はすんなり受け入れるのは難しいみたい。まあそうだよね、こんなの普通に生きてたら体験することないもんね。
くるりと視線を走らせただけでわかるくらい、あたし達の周りは何もかも変わってしまっていた。
さっきまであった何もかもがなくなっていて、あたしたちの他にあるのは見渡す限り続く地面と星降る夜空。
ただそれだけ。
星灯りだけが頼りなのでそう遠くは見渡せないけれど、見える限りの範囲には何もない。さっきまですぐそばにあったはずのロープウェイのゴンドラも、ロープウェイの施設自体もなくなっていた。
それどころか湾岸地区のあらゆる施設すら、あたしたちの視界から消えてなくなっている。
「うぁぁ、やっちゃったぁ…… こんなに深く診るつもりなかったのに……」
はい、これ。完全にあたしのやらかしです。瀬川くんをうっすら覆っていた常世の影、それを軽く診てみるだけのつもりだったのに、それに 見入ってしまった。
見て、入ってしまった。
瀬川くんを薄く覆っているだけだった常世の影は、今やあたし達の現世を覆い隠してしまっていた。影がより深くより色濃くなってしまったのは、私が彼のを覆う影を迂闊に深く榮目してしまったせい。
( 彼岸をはっきり認識しちゃったら現世に呼び寄せちゃう体質、ほんと制御不能で困るんですけど……)
あたしがそう認識してしまえば、黄昏を境に常世と現世は容易に反転してしまう。幼い頃から私を悩ませるこの体質のおかげで、あたしは二つの世界の間に何度となく足を踏み入れて来た。
(そして、今度はこの二人を巻き込んでしまった、と。こういうことがないように、人付き合いを避けて来たんだけどな……)
あたしはそっと一つため息をついた。
ところで、私の厄介な体質に巻き込まれた二人はといえば、二人で仲良くケンカの真っ最中みたいだ。あやめと瀬川くん、全然なかよくないと思うけどそこはそれ。言葉のあやってやつ?
「おい、鬼頭。おまえ、いい加減そこどけよ」
「いやよ。あなた何するかわかったもんじゃないもの。彼女に手を出したら絶対許しませんからね!」
冗談はともかく、あたしが状況を確認している間に、二人はかなり険悪な感じになっていた。あたしに手を触れようとする瀬川くんを体を張って割って入ったあやめが止めてくれている。そんなあやめに瀬川くんは随分とイラついてるように見えた。
「はっ! 何が許さねーだよ。お前だってどうせその女の血を狙ってるんだろ? ああ、それともあれか? 前からの知り合いみてーだし、そいつの血、独り占めしてんのか?」
「失礼な事言わないで! 人の血なんて、いらないわよ! あなたと一緒にしないで!」
「じゃあいいじゃねーか。俺はそいつの血を取り込んでもっと強くなりてーんだよ。おめーはそこで指咥えてみてるんだな!」
興奮した様子の瀬川くんが強引にあやめを押し退ける。あやめは背が高いとはいえ、ほっそりとした普通の女の子。瀬川くんみたいな体格のいい男の子が本気になったら逆らうことなんてできない。
「何するのよ! 」
押し退けられて体勢を崩したあやめが、怒りの声を上げる。瀬川くんはそんなあやめを鼻で笑ってあたしの腕を取ろうと腕を伸ばしてくる。
「透子に手は出させないって言ったわよ!」
その時空気が切り裂かれる、鋭い音がした。
咄嗟に振るわれたあやめの腕が空気を切り裂いた音。
あたし達がそれを理解したのは、瀬川くんの服の袖がぱっくりと切り裂かれ、彼が痛みに腕を引っ込めてからだった。
「お前、鬼の血の力、そこまで引き出せたのかよ……」
瀬川くんの端正な顔が驚きと警戒で歪む。一瞬で見せたあやめの動きはそれほどまでに鋭くて、とてもじゃないけど人間では無理だと思わせるものだった。
でもこの場で一番動揺していたのは当のあやめ自身。あやめは自分の体に流れる古い血で、自分が鬼になってしまうことを何より恐れているんだから当たり前だ。
「鬼の力? なんで? 私、こんなの知らないわ…… うそよ、私にこんなこと、できるわけない…… 私は、鬼じゃないもの!」
「あやめ、しっかりして。大丈夫、あたしがいる。あやめにはあたしがついてるから大丈夫!」
よろけたあやめに背中からぎゅっと抱きついて、支えながらあたしは呼びかける。腰に回した私の腕、その手首を震えるあやめがすがるように握りしめた。
「つっーー」
なんて力なんだろう。
骨が、軋む。
あたしは漏れそうになった悲鳴を咄嗟に飲み込む。ここで悲鳴なんてあげたら、あやめはきっと心を痛めてしまう。絶対に、声なんて上げられない。
「透子、私、大丈夫だよね。ちゃんといつもの私だよね?」
「大丈夫、ちゃんといつものあやめだよ。大丈夫」
あやめの気持ちを落ち着けるように語りかけながら、手首に指を食い込ませるあやめに手を重ねる。
大丈夫、大丈夫と呼びかけながら、あたしは繰り返しあやめの手の甲をさすってあげた。
それでようやく落ち着きを取り戻したのか、あやめはやっと手首を離してくれた。
「ごめん、取り乱してしまったわ。もう大丈夫よ。透子が落ち着いていてくれと、本当に助かったわ」
「ううん、いいよ。あやめは大丈夫って信じてたから。それより、少しだけ瀬川くんお願いしていいかな?」
ぽんと、あやめの背中を一つ叩いて、あたしは彼女から身を離す。
「あたしはその間に出口探す」
「わかったわ」
言い切るあたしに、短く返事を返してくれるあやめ。
「できるの?」だとか「なんで?」とかではなく、ただ純粋な肯定の返事。それがあたしへの信頼だとわかるから、こんな状況だというのにあたしの胸が少し暖かくなる。
「なんだよ、俺と本格的にやり合おうっていうのかよ? ちょっとくらい血の力を引き出せたからっていい気になるんじゃねーぞ?」
「いい気になんてなってはいないわ。私たち、瀬川くんのことなんてどうでもいいの。放っておいてもらえると嬉しいのだけど?」
「俺はお前のこと、前よりもずっと気になっちゃってるぜ? なぁ、相手してくれよ鬼頭ぁ!」
二人は互いに動きを探り合っているみたいだった。
瀬川くんはあやめと向き合ってジリジリと位置をかえてくる。あやめを警戒しているのがありありと見える動き。
対してあやめの方はすっと背筋を伸ばした自然体。あたしと瀬川くんの間に常に割って入るように立ち位置を変えている。
(やっぱり、あやめ、すこし古の血が表に出て来てるみたい)
瀬川くんと相対するあやめの横顔、それをそっと盗み見る。
あやめの瞳がいつかの屋上みたいに紅に濡れていた。
今あたし達がいるこの場所が常世に近いことが原因なんだと思う。鬼だとかなんだとかは、もともとこっちの住人だと曽祖母ちゃんからは聞いていた。
( 出口は、どこ? あやめのためにも早く現世に戻らないと)
もう一度手順を踏んで右目に触れて常世《かくりよ》の影を見通す力を右目に宿す。
片目を瞑って周囲を見回す。
星灯りの闇に重なって、元いた世界の影帽子が揺れる。
不意に誰かに呼ばれたような気がしてあたしの目は自然とそちらに注目した。
ーーあった。あそこだ……
扉を開けたゴンドラと、その扉の横に立って私たちを手招きする人影が見える。
「あやめ、先に行ってる。呼んだらすぐに来て」
あやめに小さく囁いて、あたしはあやめに背を向けた。あやめの答えは聞いてない。聞かなくても大丈夫。きっとあやめには伝わっているはず。
あたしは星灯りの闇に足を踏み出す。
一歩、二歩、三歩、小さく跳ねながらウサギのように
一歩、二歩、三歩、少し足を引き摺りながらウサギのように
3拍子を守りながらゆっくりとゴンドラの扉を目指す。
「後ろがつかえますからお早くお願いします」
慇懃に急かす係員の声が殊更はっきり聞こえた時、あたしはゴンドラの中に足を踏み入れていた。
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