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第五話 光を喰う黒水晶
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しおりを挟む焚き火の炎で煙草に火を点ける。
百害あっても一利以上はあると思われる煙を肺いっぱいに巡らせ、そこに脳味噌があるかのように思考を整理してゆく。
……まれさんは、真野先生が好きだったんですね、ずっと……なんて平弓さんは言って、私もそれを否定しなかったが、そんなの嘘だ。
藤見まれは私の天使だった。
ずっとまれを見つめて、ずっと追いかけていたのは私の方なんだ。
触れてはいけない人形のような、どこか作り物めいたその少女に魅せられてしまった私は、彼女の仕草ひとつひとつを記憶に留めておきたくて、気付いたらその姿をスケッチブックに写しとっていた。
何よりも艶めく黒髪以上に、まれの瞳は形容し難い「黒」の美しさを最大限に集め、光をも完璧に閉じ込めてしまうような、直視出来ない恐ろしさがあった。
その「黒」は、決して代用の効かない黒色なのだ。
私の吐き出す紫煙は、西空の金星をぼやかし膨張させた。
金星……大人になったまれは、天使というより女神の方が相応しいか。
煙の向こうに誰かいる? 煙とともに消えていく。
自分の心臓の音が山の動物たちにも聴こえてしまうほどに高鳴った。
再び煙を吐く。誰?
もう一度吐く。まれ?
幻を求め何度も繰り返し、吸い殻を焚き火の中に落とす。
教え子たちが、まれの姿を垣間見せたものだから……
普通の高校生のはずなのに、まれには感情を塗り潰した大人びた諦めと、誰にも流されない真っ直ぐな強さ、そして少女の儚さがあった。それが、理屈抜きで身体に入り込んできた感覚が蘇る。
珈琲を啜る。カシューナッツのタッパーは乾燥剤だけが残っていた。明日、カルチャーセンターの帰りに調達してこよう。
縞猫は岩の上で伸びをして、狸は二匹の子狸を連れて足早にデッキの下に潜り、木の上の烏は三羽に増えて、何やら会議を始める。いつかの乳白色の子が成長したのか、私の前に躍り出た一匹の蟷螂が、その優雅な鎌を見せびらかした。
「済まないな、今夜は君たちにお裾分けできるものがないんだ」
申し訳程度のアーモンド入りチーズを小さく割って置く。
何かがしゅるしゅると足元から首筋を通り抜け、小屋へ蠢き這っていくその音を目で追う。
誰もいないはずの小屋に明かりが灯る。
窓際で頬杖をついてこちらを見ている藤見まれが居た。
まれはあの時のままの姿だった。
「描けたの?」
「ごめん、まだだ」
「卒業までに描くって言ってたのに」
「きみがあの絵を拭き取ってしまったんだ」
「あたしの清らかな姿なんてうれしくないもの」
まれは、その白い真っ直ぐな脚で、音も立てずに立ち上がり、
「真野先生、あたしの目をよく見て」
そう言って、額にかかった前髪をふわりと上げた。
吸い込まれそうな漆黒のふたつの瞳……目眩がする。
「先生、倒れる必要なんてない。あたしの右目は取り外せるの、ほら」
取り外した眼球を差し出されると、衝撃を免れるわけがない。
「黒水晶の瞳だよ。幼い頃から奇異な目で見られて、閉じこもって絵ばかり描いていたあたしを、邪気から守ってくれるようにって、お母さんが魔術師みたいなおじさんから譲ってもらったんだって」
「魔術師?」
「子供だったあたしに、わかりやすくお母さんが言っただけ。先生って本当に…‥ピュアだね。裏側も奥も見てよ」
まれは、それを明かりに透かしてみせる。
「ほら、光をこれっぽっちも透さない完璧な黒」
「黒でしかない黒だ」
「でもね、この黒は全ての色……光を閉じ込めてるんだよ」
まれは黒水晶の瞳を、私に手渡した。
「あたしの右目だったこの石には、醜く生まれたあたしへの世間の邪気と、傷ついて壊れたあたし自身の邪気が封印されてる。先生ならあたしの本当の姿、描いてくれるよね。あたしの生まれつきの本当の左目が、優しい真野先生をずっと見てたから」
まれは、わたしにその眼球を握らせ、その上から自分の白い手を重ねた。
初めて触れたまれの薄く冷たい手。
「きみは、どうしてあの時の姿のままなんだい」
「だって、先生の記憶はこの姿のあたしだから」
私は二十五年近くもの月日の隔たりが、悲しくて悔しくて苦しくて泣いた。
外で枝を焚べられなくなって弱くなった焚き火が、音もなく消えようとしている。
まれは異物だった右の眼球を取り外して、憑物が取れたように寛いでいる。
ボレロを口ずさんであの時のように踊っているが、どことなく自由を得たような動きに見える。どのような象でも、誰がなんと言っても、やはりまれは私の天使なのだ。
私は、イーゼルを部屋の中央に立てると、20号の張りキャンにデッサンを取り始めた。
時間の歯車が噛み合わなくて、大きなズレが生じてしまったが、私は今こそ「まれ」を描こうと思った。
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