真夜中の山の毒気と宿る雨

弘生

文字の大きさ
上 下
12 / 17
第四話 デッサンにみる横顔天使

     2

しおりを挟む

「うふふ、意外と片付いてますね。もっと汚いかと思ってました」
 平弓さんはそんな憎まれ口を利きながら、珍しそうに小屋の中を見廻している。
「隅っこに画材が放ったらかし……絵の具、固まっちゃってますね。最近は描いてないんですか」
 ずけずけと耳の痛いことを言ってから、急に静かになった。
「待たせたね、どうぞ」
 淹れたての熱い珈琲を持っていくと、平弓さんが私のスケッチブックを広げて固まっていた。
「これって……」
「私が教師になりたての頃に描いたものだよ……そんなに見ないでくれ、気が滅入るから……」
 平弓さんは不安を湛えた目で私を見て、広げたスケッチブックをこちらに向けた。
「まれさん……ですね」
 私は驚いて、持っていた珈琲を落としそうになった。
 彼女はスケッチブックを置くと、トートバッグからプラスチック板に挟んだ一枚の鉛筆画を取り出し、私に見せた。
「これ……先生が描いたまれさんですよね」
 そう言って、スケッチブックの破かれた痕跡のあるページに重ねた。
 紛れもなく、四半世紀前にこの私が描いたまれだ。 
 他のデッサンよりも完成度が高く、唯一まれの表情が描かれていた一枚だった。
 ベルメールのデッサンに魅入っていたまれの横顔……私は珈琲をそっと狭い卓上に置くと、それを手に取った。
 平弓さんの隣に、大人になった藤見まれがそこに立っているような気がした。
「まれ……?」
 しかし一瞬で霧散した。
「先生にも見えたんですね!」
「いや……幻だよ」
「いいえ、先生。わたしがどれだけ彼女に密着されているか」
 平弓さんは傍目はためからもわかるほどぶるっと震えて、自らの両腕を抱きしめる。
 私が「これでよかったら」と、決して不潔ではない毛布を差し出すと、それに包まって珈琲を口にしたあと「話します」と言った。

     *

 わたしは今、テキスタイルのデザイン事務所に勤めています。
 そこで商業カメラマンの布海ふかいさんと出逢いました。
 アートや音楽や食事の好みが合って、すぐに意気投合して。あ、布海さんは男性です。
 彼は、仕事とは別に趣味で写真や動画を撮っていたけれど、今は止めてしまったことを仄めかしました。
 自分から言ったくせに、わたしが見たい見たいと言うと、少し困ったような顔になって、
「見ても僕から逃げないでくれるか」と、変なことを言うのです。
 布海さんの部屋に入ったのは、その時が初めてでした。
 彼の撮影したものはもちろん見たかったけど、評判のスイーツを手土産に乙女心満載で訪れました……まさかあんなに衝撃を受けるとは思わなかったから……

 部屋は広めのワンルームで、隅に申し訳程度の簡易ベッドが置いてあり、その枕元の壁際に、一枚の鉛筆画が画鋲で無造作に留められていました。
 ただの鉛筆画なのに、それが目に入った途端、わたしは暗い湖に突き落とされたように、布海さんが信じられなくなって取り乱してしまいました。恥ずかしいことです。

「正直に話すから、出来れば僕から逃げないで欲しい」
 再び前置いて、布海さんは苦しい秘密を話してくれました。

 大学在学中から商業カメラマンの仕事をしていた布海さんは、卒業後も順調にカメラマン生活を送っていました。
 プライベートでは心揺れる被写体に出逢うと、シャッターを切りました。
 十年程前だそうです。彼はクラシックコンサートで隣に居合わせた綺麗な黒髪の女性と知り合いました。彼女も彼と同じ、ラヴェルのボレロが目当てでした。
 黒髪だけではない彼女の魅力に惹かれ、思わずその横顔にシャッターを切ったそうです。
 モデル慣れしているのか、被写体になることに全く動じなかった彼女ですが、真正面から撮られるのは何となく避けていたようです。
 彼女は言いました。
『闇に刻まれて壊れるあたしを、君は見つけられるのかも。でも君は二番だよ』
『二番?』
『一番はこれを描いた真野先生……約束破ったけどね』
 そう言って、彼にこの鉛筆画を見せたそうです。
 彼女は彼がアーティストのカメラマンとして世に出ることを心から応援していました。
 彼と彼女は信じ合い、結婚するつもりだったそうです。
 そんな彼女を傷つけてしまったのだと、彼は無性に後悔していました。

 他人事のように彼の話に訊き入っていたけど、これは今わたしがお付き合いしている布海さん自身の話なのでした。

 彼女のスナップ画像は異質で美しくて、嫉妬よりも溜息が出ました。
 それから一本の動画を見ました。
 小さな湖のほとりで、ボレロを口遊みながら身体を動かす彼女の姿。
 揺らめく黒髪と剥き出しの白い脚で水際まで踊って……その時、湖がさざめくほどの強い風が吹いて、彼女の額が全開になり、瞬間、彼女がカメラを見たのです。
 正面を向いた彼女の顔は何重にもぶれて、黒い靄が渦巻きながら右目に吸い込まれていく……周囲の輪郭ががぐにゃぐにゃと混ざって……
 動画はそこまでです。
 布海さんは暗い顔をして言いました。
「気味悪いだろ」
しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

最終死発電車

真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。 直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。 外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。 生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。 「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

マーメイド・コスモス

咲良きま
ホラー
~当惑する間もなく変わる日常~ 予知夢なのか。 悪夢が現実においつこうとする。 避けられないのならば、無力な自分はどうしたらいいのか。

感染した世界で~Second of Life's~

霧雨羽加賀
ホラー
世界は半ば終わりをつげ、希望という言葉がこの世からなくなりつつある世界で、いまだ希望を持ち続け戦っている人間たちがいた。 物資は底をつき、感染者のはびこる世の中、しかし抵抗はやめない。 それの彼、彼女らによる、感染した世界で~終わりの始まり~から一年がたった物語......

#彼女を探して・・・

杉 孝子
ホラー
 佳苗はある日、SNSで不気味なハッシュタグ『#彼女を探して』という投稿を偶然見かける。それは、特定の人物を探していると思われたが、少し不気味な雰囲気を醸し出していた。日が経つにつれて、そのタグの投稿が急増しSNS上では都市伝説の話も出始めていた。

呪われたN管理局

紫苑
ホラー
本当にあった怖い話です…

【完結済】僕の部屋

野花マリオ
ホラー
僕の部屋で起きるギャグホラー小説。 1話から8話まで移植作品ですが9話以降からはオリジナルリメイクホラー作話として展開されます。

不動の焔

桜坂詠恋
ホラー
山中で発見された、内臓を食い破られた三体の遺体。 それが全ての始まりだった。 「警視庁刑事局捜査課特殊事件対策室」主任、高瀬が捜査に乗り出す中、東京の街にも伝説の鬼が現れ、その爪が、高瀬を執拗に追っていた女新聞記者・水野遠子へも向けられる。 しかし、それらは世界の破滅への序章に過ぎなかった。 今ある世界を打ち壊し、正義の名の下、新世界を作り上げようとする謎の男。 過去に過ちを犯し、死をもってそれを償う事も叶わず、赦しを請いながら生き続ける、闇の魂を持つ刑事・高瀬。 高瀬に命を救われ、彼を救いたいと願う光の魂を持つ高校生、大神千里。 千里は、男の企みを阻止する事が出来るのか。高瀬を、現世を救うことが出来るのか。   本当の敵は誰の心にもあり、そして、誰にも見えない ──手を伸ばせ。今度はオレが、その手を掴むから。

処理中です...