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第三話 マーブリング的自画像
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しおりを挟む「真野先生、車でボレロが流れてましたね」
「昔から好きなんだよ。フルートのソロから始まって徐々に楽器の種類とともに音が増えて、最後にひとつの燃える星になってパーンと一瞬で消える。最後まで全くリズムを崩さない。あんなに秩序めいて潔い音楽は、私の中では他にないんだよ」
「先生がボレロを聴いていたの、憶えてます。実は僕もあるきっかけで最近聴くようになったんです……」
青柳くんは、目を三角気味にしてそっぽを向いている楠田さんをちらと見てから話し始めた。
*
僕はこの春博士課程を終えて、油絵学科の菊谷教室で助手をしています。狭き門の中で助手になれたのはラッキーで、薄給この上ないけれど、大学に残って制作を続けられるのは本望です。
教職に就いてぼくを養ってくれる楠田さんには、頭が上がらないけど。
ある日、自由デッサン室の準備をしていると、窓際に頬杖をついて外を眺めている女性がいました。
見たことのない女性だったので、声をかけてみると、
「あたしは菊谷教室で助手をしてるの。それと学生相手のデッサンのモデル。もう三年になるかな。それ以上は望まないから、そろそろ大学を離れるつもり。君はポスドクなの? がんばってね」そう言いました。
少しざわっとしたけど、見惚れてしまうほどの黒髪と白い脚に返答できないでいると、あ、もちろんモチーフとしてですよ、
「時間だ」と言って、艶々の黒髪をくるくると頭上で束ね、すらりと部屋を出ていったのです。
三年もこの教室の助手? モデル? 僕にはまるで記憶がありません。
この日そんな人体デッサンの予定も無く、これが白昼夢かと不可解ながらも納得しようとしました。でも、同じようなシチュエーションが繰り返されると、不可解というより不気味になりました。
さらに何度か繰り返されるうちに、不気味が小気味良くなって、彼女と対話する時間が楽しくなっていました。
公募展に向けてモチーフを探していた僕に、
「ひと肌脱いであげる」
彼女自らそう言って、羽織っていた大きめのカーディガンをさらりととって、マイクロな丈のワンピース姿でモデルになってくれたのです。
「大学に残るなら実績作らないとずっと助手だよ」と。
ある時彼女は言いました。
「昔、あたしのことをたくさん描いてくれた美術の先生がいたの。あたしは自由に動き回って好きなことして、それをただただ描いてた。その時ね、先生はいつもラヴェルのボレロを再生してたの。だからあたしは、時々それに合わせてからだを動かしたの、踊るように」
そう言って彼女は、ボレロを口ずさんで踊って見せたのです。まるで蝶でした。
「でも先生はあたしとの約束を果たしてないの。忘れちゃったの、きっと」
ボレロ……僕は、万に一つと思って訊いたんです。
「その先生の名前は?」
「言っちゃっていいのかな……時効だよね。真野先生、真野祐介先生」
「……まさかのビンゴ……まさかの偶然……僕の恩師だ」
「偶然じゃないよ、君は真野先生に会いに行くんだから」
「どうして?」
そう言って顔を上げた時、彼女の姿はなかったんです。
全身を見えない白い手で撫でられたような悪寒に加えて、飽和感と空虚感と混沌が同時に感じられて、秩序とエネルギーに満ちたボレロを無性に聴きたくなりました。
そして、不安定な気分を払拭するために聴き始めたのに、むしろ何かに背を突かれるような焦りを感じました。
ボレロを聴くようになってから、彼女は制作室以外にも頻繁に現れ、僕の傍に居ました。
ある日、菊谷教授がぼくの描きかけの作品を見て言われました。
「面白いね、壊れかかった痛々しさと初々しさがある……不思議な絵だ。完成か?」
「いえ、まだ……」
「このままでいいのでは? 指一本で充分表情が出てるし、この碧黒の渦巻くもやめきと強い一点の光がモチーフの深層を物語っているように思うが」
そう言い終えて、少し首を傾げて続けました。
「……特定のモデルはいるのかな」
はっとした。僕は彼女の名を知らない。曖昧に答えてもすっきりしないので、逆に僕から菊谷教授に訊いたのです。
「この教室、僕と奈良先輩の他に助手や助教さんていますか」
「いないな」
「真っ直ぐな黒髪と真っ直ぐな白い脚の女性で、この菊谷教室で助手とモデルを三年してると……」
教授は僕の絵をもう一度見つめて、ハッとしたように遠くを見つめて、僕自身を見つめて、
「何か引っかかったんだよ! 今までと違う君の絵に何か……藤見まれ君だ! 十年程前までここで助手をしていた君の先輩だよ。平凡に結婚すると言ってみんなの意表をつき、あっさり絵筆を置いて、ここを辞めたんだよ。奇抜で強烈な印象を残してね」
「でもそれは十年も前の話ですよね。僕は現在助手をしているという女性にモデルを……」
そう言いかけて口を噤みました。
教授が僕を制して小部屋に入って行ったからです。
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