3 / 17
第一話 スケッチブック
2
しおりを挟む美島くんは、窓の外をぼんやり見ながら、
「山では雨の音は錫杖の音色みたいに聴こえるんですね」と言い、ぽつぽつと話を続けた。
*
ぼくが橋場先生の所にデッサンを習いに行くようになったのは、美大が諦めきれずに自力で浪人しようと決心したからでした。
あ、橋場先生というのはデッサンの先生の名前です。
予備校には通えないから、せめてデッサンだけでもと検索していると、意外にも自転車で通えそうな場所に「クロッキー会」というグループを主宰している素描専門の先生がいることがわかりました。
思い切って訪ねてみると、クロッキー会というのは、週に一度、参加者がお金を出し合ってモデルを雇い、二時間ばかりクロッキー、もしくはデッサンするという会で、受験生のデッサン云々というのとは様子が違いました。
おそらく七十に手が届くかなと思われるくらいの、穏やかな紳士然としているその人が橋場先生でした。若い頃は予備校でデッサン指導に就いていたようです。しかも、ぼくの志望大学を卒業していたのでした。
「デッサンなら見てあげよう。私はたいていここにいるから、いつでも来て、アトリエにある物、石膏でも何でもデッサンするといい。もちろん会費を払えばクロッキー会に参加しても構わないよ、ヌードモデルの時もある」と、爽やかに誘ってくれました。
ぼくは、その、ヌードも描いてみたかったのですが、バイト代で会費も支払うことを考えると、先生にデッサンを見てもらうだけで充分だと思ったので、未だにクロッキー会には参加していません。
そんなわけで、橋場先生のアトリエ近くのコンビニでバイトをしながら、ぼくの浪人生活は今に至っているのです。
梅雨に入った頃でした。
アトリエは開いているけれど、先生不在の時がありました。
ぼくは、今日は何をデッサンしようかとアトリエを物色していたんです。
すると窓際の丸椅子に、制服姿らしき黒髪の女子高生が剥き出しの脚を組んで座っているのにハッとしました。
「……いつからそこに?」
誰も居ないと思っていたから心底驚いてしまって、声がひっくり返ってしまったくらいです。
「石膏や静物だけじゃなくて、人物も描いたほうがいいと思うんだけど」
女子高生は言います。
「あ、うん、そうだね。でも……」
女子高生は灰色の重たい空を眺めたまま、窓辺に頬杖を突いて、
「あたしを描いてもいいよ」と言ったのです。
「え、でも……」
「描く? 描かない? どっち」
「か、描きます、描かせてください」
ぼくは、何だかよくわからないまま、窓辺で頬杖を突く女子高生を描くことにしました。
制服のブラウスにサイズオーバーのアイボリーのベストをダボッと重ねていて、真っ直ぐな黒髪が艶々と綺麗でした。
なぜか、名前すら訊くことも出来なかったのです。
三十分ほど経った頃、先生が帰ってきた気配があり、緊張していたぼくは少しほっとしました。
その時です。木炭紙がカルトンから捲れて天井を舞い、床にばら撒かれました。と同時に、木炭で汚れたスケッチブックがバサッと目の前に落ちてきました。
ポルターガイスト的な不可解な現象に、恐怖と呆気に取られながらも、一枚五百円もする木炭紙を夢中で回収していると、濃紺のソックスにローファーの足元が、唐突にぼくの視界に入り込んだのです。
恐る恐る視線を上に這わせて行くと、ソックスから伸びた真っ直ぐな白い脚。それが途切れたと思うと、嘘みたいにマイクロな丈のグレーのスカート、サイズオーバーの白いベストを着たその女子高生が、ぼくの鼻先十センチに立っていました。
純真無垢なぼくは、こんなに近くで女子の脚など見たこともないから卒倒しかかりましたが、不可思議な現象への思考の方が勝ったようで、全身の毛が逆立ったのを覚えています。
彼女は木炭で汚れた古いスケッチブックを無表情のままいきなりぼくに渡すと、そのまま入り口からスルリと出て行きました。
ぼくは意味不明の不安と怖さと悲しさで泣きたくなりました。なぜ悲しさを感じたのかはわかりません。
そこへ橋場先生が戻って来られたのでした。
たった今目の前で起きていたことを、しどろもどろだけど興奮気味に話すと、先生はこう言ったんです。
「ああ、あの娘は一年くらい前からたまに来るんだよ、あの頃と同じ姿のままでね」
いつしかアトリエの外は雨が降っていて、庭の葉がその雫に揺れていました。
橋場先生は、ぼくが手にしている古いスケッチブックを裏返し、そのサインを指差すと、ぼくに問いかけるように首を傾げて言いました。
「知ってる?」
そこには、真野先生、あなたのサインがありました。
20
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
いつもと違う日常
k33
ホラー
ある日 高校生のハイトはごく普通の日常をおくっていたが...学校に行く途中 空を眺めていた そしたら バルーンが空に飛んでいた...そして 学校につくと...窓にもバルーンが.....そして 恐怖のゲームが始まろうとしている...果たして ハイトは..この数々の恐怖のゲームを クリアできるのか!? そして 無事 ゲームクリアできるのか...そして 現実世界に戻れるのか..恐怖のデスゲーム..開幕!
視える棺―この世とあの世の狭間で起こる12の奇譚
中岡 始
ホラー
この短編集に登場するのは、「気づいてしまった者たち」 である。
誰もいないはずの部屋に届く手紙。
鏡の中で先に笑う「もうひとりの自分」。
数え間違えたはずの足音。
夜のバスで揺れる「灰色の手」。
撮ったはずのない「3枚目の写真」。
どの話にも共通するのは、「この世に残るべきでない存在」 の気配。
それは時に、死者の残した痕跡であり、時に、境界を越えてしまった者の行き場のない魂でもある。
だが、"それ"に気づいた者は、もう後戻りができない。
見てはいけないものを見た者は、見られる側に回るのだから。
そして、最終話「最期のページ」。
読み進めることで、読者は気づくことになる。
なぜ、この短編集のタイトルが『視える棺』なのか。
なぜ、彼らは"見えてしまった"のか。
そして、最後のページに書かれていたのは——
「そして、彼が振り返った瞬間——」
その瞬間、あなたは気づくだろう。
この物語の本当の意味に。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
オカルト嫌いJKと言霊使いの先輩書店員
眼鏡猫
ホラー
書店でアルバイトをする女子高生、如月弥生(きさらぎやよい)は大のオカルト嫌い。そんな彼女と同じ職場で働く大学生、琴乃葉紬玖(ことのはつぐむ)は自称霊感体質だそうで、弥生が発する言霊により悪いモノに覆われていると言う。一笑に付す弥生だったが、実は彼女には誰にも言えないトラウマを抱えていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる