雲間の眼

中野ぼの

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最終話 そしてそれはそこに在り続ける

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「家の契約の更新さ、月末締め切りだよね」

 ベッドに寝転がり、すずとのやり取りを読み返していると、マヤが唐突に声をかけてきた。土曜日、二人とも休日で、マヤは買い物に行くためコートをハンガーから外したところだった。

「更新料、家賃と同じだから八万だよね。それとは別に今月分の家賃もあるから、合わせて十六万。ちょっと厳しくない?」

 この数ヶ月の間何度か話題に上がった更新の話。面倒な未来が面倒で今まで見て見ぬふりをしてきたが、もう未来じゃなく現実になってしまっているらしく、目を背けることはできないようだった。

「僕の名義だし、更新するんなら更新料分は僕が全部払うよ。あとはいつもどおり折半で」
「更新さ、するの?」

 僕はスマホから目を離し、半身を持ち上げた。マヤは僕のパソコンラックの前に立ち、こちらを見つめている。

「更新したらまた二年はここに住むってことだよね」
「二年……。まあ、そうだね。じゃあ更新しないのもアリか」
「それってさ、別れるってことだよね」

 まるで世間話のようにマヤは言い、そして同じように受け止める僕がいた。

「ああ……そうなるのかな」
「そうだよね。やっぱり、別れるよね」

 三年の月日が何でもなかったかと思うほどあっさり別れ話をしている現実は、そんなに不意打ちではなかった。別に昨日ケンカしたわけでも、毎日ケンカしているわけでも、関係が険悪になったわけでもない。もちろん浮気を追及されたわけでもない。ただ、これだけ長く一緒に過ごしていれば、僕がマヤとの将来を見据えていないこと、愛情が別の何処かに行ってしまっていることに、当然気づくのだろう。何でもなかったかのように、ではない。三年の月日が確かな時間だったからこそ、僕らは互いをわかり合っており、必要以上の言葉を交わさなかった。

「まあ今すぐってわけにはいかないから。私の荷物もいっぱいあるし」
「うん。ちゃんと相談して、円満に別れよう」
「そだね。とりあえずしばらく私、実家戻るね。親にも話さないとだから」

 がちゃん、と玄関のドアが閉まる。一人になった僕は、しばらくベッドに腰かけたまま呆け、また寝そべってスマホを開いた。
 そうか。僕も別れるのか。
 口の中で転がして噛み砕けるくらい小さくなった飴玉を不意に飲み込んでしまった時のような、突然だけれど思ったより平気な喉越しで、「別れる」という言葉が落ちてくる。
 すずは、まだ別れたわけではない。あくまで別居だという。すずと棚田の将来についての話し合いは思ったよりも苛烈になり、お互いの不満がヘドロのようにあふれ出し、こんな状態じゃ冷静に答えなんて出せない、もう一度話し合うため離れて暮らして頭を冷やして考えよう、となったらしい。すずの実家は東京寄りの埼玉にあり近かったのでその翌日には実家に戻り、二人で決めた〝十日後〟の話し合いのため、今は静穏に暮らしている。
 正直、僕は手放しで喜ぶことはできなかった。すずが別居して、僕の方の別れも内定した今でも、その気持ちは変わらない。すずと連絡を取り合わない日は未だにないが、ほんの些細な雑談にとどめ、僕は決してすずの今の気持ちを聞いたり知りたそうな素振りをしたりはしなかった。
 すずのつらい心情が、痛いほど伝わってきたからだ。僕と、彼氏の、板挟み。浮気はもうやめようって、そういう流れになっていたのはすずだってきっとわかっていたのに、このタイミングで六年も一緒にいる彼氏と初めて深刻なことになってしまった。お互いに不満があったのだから僕と浮気をしていなくてもいずれ起こっていた現実かもしれないが、僕の存在がそれを早めたのは事実だ。罪を感じるというわけではないが、責任は感じる。それとは別の不確かな高まりも、忍び寄るように感じる。
 僕も色々悩んで考えた。そしてわかったことは、まもなく浮気が終わるということ。罪と悪が別のなにかに形を変えるということ。
 今度のすずと棚田の話し合いとやらで、円満に解決し、仲直りしたならば、それはきっと結婚に向けて二人が歩みだしたということで、そうなれば僕は完全にすずの前から姿を消す覚悟だった。示すため、その覚悟はすずにも伝えた。すずが僕ではなく、彼氏との結婚を真剣に望むのであれば、彼氏も同じ気持ちであるならば、そこに差し込む浮気とやらは彼女を不幸にするものでしかない。僕の愛情は彼女がただの後輩だった時から変わらない。大好きだから、いつも笑っていてほしい。臭ってきそうなほどの綺麗事に聞こえるかもしれないが、嘘偽りない僕の真実だ。彼女のしあわせのため、僕は潔くこの眼を閉じよう。最愛のためなら自分を犠牲にできる自分に酔っているだけ? だとしても、それはかろうじてまだ優しさの類だろう。それくらいの優しさを保つことができる自分は嫌いじゃなかった。
 そして、もうひとつの可能性。もし二人の話し合いが決裂して別れ話になった場合も、まったく別の形で浮気は終わる。スイッチを切り替えるみたいにそれで僕とすずが一緒になるわけではないかもしれないが、とにかく浮気が終わるという未来が確実にある。雲間から覗き込んでくる空の眼におびえなくていい未来がある。
 ただ、なんとなく僕は、二人はうまく復縁するような気がしていた。なんだかんだすずは結婚したいのだし、彼氏だってすずのことが大切なのは確かなんだろうし、頭を冷やして話し合ってしまったら丸く収まってしまう予感はする。それで、いい。元々そんなふうに浮気を終わりにするつもりでいたんだから。でも、すずが彼と離れて、僕もマヤと別れて、あんなに難しかった僕とすずが一緒になれるかもしれない未来が一瞬でも覗けてしまったから、すずが彼を選んだ時、きっと僕は僕が壊れるのを止めることはできない。
 すずと彼が話し合う〝十日後〟まで、今日であと二日となった。明日、話し合いの前日である日曜日、僕はすずと会う。これで最後でもいいよ、と告げた言葉の通り、空の眼に見つめられて会うのはこれで最後になるのだと思う。だからこそ怖い。いま一人だとこうして冷静でいられてしまう分、いざすずと会ったら冷静でいられなくなってしまうのではないか。


 しばらくの間太陽を拝んでいないほどの悪天候が二週間余り続いていた十二月下旬、僕はすずに会うために夕方家を出た。確認は取っていないが、今日はたぶん泊まりになる。僕は寝間着と宿泊セットを詰め込んだリュックを背負って、電車に乗った。

『ういさん、明日なんだけど、まだ飲み屋とか予約取ってないよね?』
『うん。まだすずの時間が決まってないって言ってたから。忘年会シーズンだし直前の予約は厳しいかもだ』
『えと、良かったら、ウチ、来ませんか? 実家の方ね! 家族が昨日から旅行行ってて、わたし一人なんで……』
『えっ、そりゃマジ願ってもない申し出だけど。てかすずは旅行行かなかったの?』
『誘われたけど、こんな心境じゃ行けないよ~笑』
『確かに笑 じゃあお邪魔しようかな。ご家族はいつごろ帰ってくるの?』
『月曜の夜遅くだって。なので明日は一応、時間を気にせずお話できます。ほんと、久しぶりだもんね』
『そうだね。十二月になってからははじめてだ。色々お話、しようね』

 僕の家は神奈川寄りの東京にあるためすずの実家へは電車で一時間弱を要したが、京浜東北線一本で行けるので体感時間は長くはなかった。まさかすずの実家に赴く未来がくるとは思いもしなかったが、彼女が生まれ、育ってきた家で、大事な時を迎えるというのもある種の運命なのかもしれない。
 事前にすずから送ってもらっていた地図のスクリーンショットを頼りに進み、「入木」の表札が掲げられた一軒家を見つけた。三姉妹の五人家族と聞いていたので、やはりそれなりに立派な門構えだった。広い坂道の住宅街に建つ二階建ての家のまわりでは、小さな子供たちがシャボン玉を吹いて遊んでいる。もうすぐ日も落ちるから、近所の子たちだろう。こんなふうにすずも伸び伸びとこの場所で育ってきたに違いない。すずの人生は、きっと問題なくしあわせだった。壊したのは、やはり僕なのだろうか。
 少し緊張しながら、インターホンを押した。

「はーい」
「初生谷です。来たよ」
「あ、はい。わざわざどうもです。いま行きますね」

 緊張していたのはどうやら向こうも同じで、すずは恐る恐る玄関の戸を開けて僕を出迎えた。
 ああ、久しぶりだな。
 すずの顔を見た途端、流星群みたいなキラキラしたものがあからさまに僕の中で巡る。彼女は少し伸びてきた髪をハーフアップで結んでいて、ピンクのパーカーと七分丈の紺色のパンツというラフな格好だった。

「久しぶりだね。相変わらず死ぬほど可愛いね」

 照れ隠し、でも正直に、僕は言う。

「いやいや。めっちゃ部屋着でごめんね。家、遠かったよね。ありがと」
「こちらこそありがとうだよ。すずの育った家を見れるなんて、これがたとえ最後だったとしても悔いはないなあ」
「もうっ。はい、とりあえず上がってください」

 最後、という言葉にすずは一瞬たじろぐ気配を見せたが、すぐに苦笑いで打ち消した。僕は門扉をくぐって、入木家の敷居を跨いだ。
 広そうな家だったが、すずはリビングではなく二階にある自分の部屋に僕を案内した。六畳ほどの彼女の部屋には、ベッドとタンスと勉強机、それから新緑色のカーペットの上にガラスの丸テーブルがあった。テーブルの上にはティファールのポットとマグカップが二つ用意されていて、僕が来るのを彼女もしっかり待っていたようだった。

「可愛い部屋だね。枕元のぬいぐるみとかめっちゃ可愛い。ぬいぐるみ抱いて眠るすずが目に浮かぶようだよ」
「抱いてなーい! あんまりじろじろ見回さないでー。汚いとこは汚いし」
「じゃあ匂いだけでも」

 僕はいつもどおり冗談を言って、すずもいつもどおりそんな僕の肩をぺしぺし叩いた。でも僕もすずも「いつもどおり」がここまでなのをわかっている。沸かしたポットからマグカップにお湯が注がれ、お互いがコーヒーを一口含んだ瞬間、まばたきのような沈黙が部屋の空気を変えた。僕は、今日というこの日が来るまでずっとシミュレーションしていた最初の一言を、まずは切り出した。

「この前の彼氏との話し合いはさ、結局どういうふうにこじれたの? なにが原因で別居にまでなったの?」

 すずはマグカップに口をつけたまま瞳を伏せ、返答に困るように「うーん」と首を傾げた。僕は催促せず、彼女の言葉を待った。

「……最初はね、棚田氏もわたしと結婚を見据えて同棲をはじめたんだって。でも一緒に暮らすうち、今のすずとはまだ結婚できないって思うようになったんだって」
「それはどうして?」
「なんか、甘いんだってさ。色んなこと、わたしの考えが子供っぽくて甘いって言われた。結婚を考えたけど、わたしの甘さが改善されないうちは結婚はできないって」
「なんだそれ。つまり、俺様が結婚するに相応しい女になれってこと?」
「そう。まさにそれ。ういさんにはよく愚痴っちゃったけど、ほんとに偉そうなの。いつも自分のことを棚に上げて。だからわたしもカッとなっちゃって、じゃああなたはどうなの、って。あなたはそんなに自分が偉いの。人を上から目線で見れるほどのことをしているの。なんだかんだ言い訳して結婚遠ざけてるだけじゃない。このへんからたぶん、わたし号泣してたな」

 ほっぺたをつんつんして、すずは小さく笑う。よくがんばったね、と僕はその頭を撫でる。

「具体的にどういうところが甘いと思ったんだろ」
「んー、些細なことの積み重ねですよ。一番大きなのはわたしがいつまでも就職しないでだらだらバイト続けてる部分なんでしょうけど、でも彼だって無職だった時代あるし。今自分がちゃんと働いてるからって、それだけで無条件に人を見下してきて。なんかはじめて彼の本音というか、本性見ちゃった気がして。ああこれもうだめだって思った。最初にもう別れようかって切り出したのはわたし」
「そうなの?」

 意外だった。結婚を願って話し合いを設けたのはすずの方なのに、彼女の方から破局を提案していたとは。意地汚くも、少し嬉しく思う自分がいる。

「でも、彼も言い過ぎたって謝ってきて。急だったし、お互い冷静じゃなかったね、一端距離置いてじっくり考えようってわたしが言ったの。そしたら彼が、無期限に別居しちゃったらこのまま終わるだけな気がするから期限を設けようって」
「それで十日後ってなったんだね」
「うん。明日。彼は用事があるから、夕方六時くらいにウチで話そうって約束してます」
「そっか。ここで話すんだね。すずの考えは、まとまったの?」

 聞くのが一番恐ろしい答えのはずなのに、僕は意外にもあっさり訊ねることができていた。その正体を僕の眼はちゃんと見ている。今、こうしてすずの部屋ですずと二人きりでいて、やっぱりすずは彼氏じゃなくて僕のものであるような気がして、すずの愛は僕にしか向けられていない錯覚に、酔っているんだ。

「……わからない」

 何度も言いあぐねて出した答えが答えじゃないことも、僕を安堵させた。

「いきなり話を切り出しちゃったこと、わたしも悪いとは思ってて。彼もびっくりして全然冷静じゃなかった。途中から言ってることがちぐはぐだったもん。だから冷静になった彼がどんな結論を出してくるのか、それ次第っていうのも、すごくある。こういうふうに相手に委ねてるあたりがやっぱり甘いんだろうけど」
「いや……甘さとは違うよ。だってすずは彼と結婚したいってずっと思ってたんだろう? だったら相手の答えを求めるのは当然だ」
「浮気、してるくせにね。それを言わないのもまったくフェアじゃないし。自分が一番ちぐはぐだ」

 喉が渇いて、コーヒーがすぐに底をつく。それはすずも同じようだった。飲み物は途中でコーヒーから缶酎ハイに変わり、カーテンレース越しに見える空はすっかり闇に包まれていった。

「すずも気づいてたと思うけど、僕はもう、浮気を終わりにするつもりだった」

 片膝を立てたまま、僕は後頭部を座椅子に預けて天井を仰ぐ。すずは眺めていたスマホを机に置いて僕を見た。彼女のスマホからは、一時間前からずっと音楽が流れていた。流行りのポップスだったり、何かのサントラだったり、なにか音がないと寂しいからと彼女は言った。

「次で最後でいいからって、そう言ったよね僕。強がりでも嘘でもないんだ。僕はずっとすずのことが好きだし、すずも僕を嫌いになったわけじゃないのはわかってた。でもどんどん辛くなっていくすずがわかるのが辛かった。天秤皿みたいに、僕と一緒にいたい気持ちよりも、浮気の辛さとか罪悪感が重くなって、そっちに傾いてるのはわかってた。すずも隠そうとはしていなかった。隠せないほど、追い込まれてたのかな」
「うん」

 ずっと心の中で繰り返していた叫びであっても、言葉にしたら、やるせない悲しみが怒涛のように突き上げて、僕は嗚咽をこらえられなかった。すずもティッシュで何度も目を拭っていた。

「ああ僕はすずをしあわせにできないんだな。こんなにも望んでいた未来なのに、今の僕はすずを悲しませてしかいないんだな。そう思ったら、答えは一つしかなかった。だったらせめて、すずには言わせない。そこまですずに背負わせるわけにはいかない。絶対。絶対、僕から別れを切り出す。さよならが言えなくて何度も何度も喉につっかえてしまっても、それでも、絶対、言う。それだけ考えてたよ」

 すずが震える手で僕にティッシュ箱を渡す。ひっく、ひっく、と涙が大粒のままあふれる度に、嗚咽が邪魔してうまく言葉にならない。

「でも、まさかこんなことになるなんて。すずは彼氏と別居になって、僕も近いうちマヤと別れる」

 マヤと別れ話をしたことは、その日のうちにすずに伝えていた。彼女は驚き、悲しんだが、すずのせいじゃなく完全に二人の都合で別れたと念を押した。すずの別居だって同じだろう。でも、〝本当に何の関係もないか〟と問われれば、僕もすずもきっと素直に首を縦に振ることはできない。

「こんなこと、今のすずに言うべきことじゃないのかもしれない。すずの決意を歪めてしまうだけかもしれない。でも、どっちにしろ、浮気は終わる。もしかしたら僕の望んでた形で終わるかもしれないんだって、可能性が生まれちゃったから、僕はどうしようもなく卑怯で。すずを苦悩させたくないって言いながら結局苦悩させる道を選んでる」

 僕は手渡されたティッシュではなく、すずの手を掴んでいた。すずも握り返してくれていた。はじめて手を繋いだ、あの密室の甘い空気を思い出して、また何かこみあげて、僕は彼女を抱き寄せた。

「わたしだって、同じ。わたしだってこんなにういさんを悩ませてる。わたしが弱くて、空の眼なんかが怖いくらい弱くて、浮気はやめないくせに彼氏との結婚も考えてて。わたしが一番卑怯だよ。ういさんの気持ちをぐちゃぐちゃにしてる」

 すずは僕よりも強い力で、背中に腕をまわして抱き着いてきた。僕のメーターはその瞬間すずの愛情だけで一杯になり、すぐにキスをした。涙で輝く彼女の瞳がゆっくり閉じていって、僕らは激しく舌を絡め合った。久しぶりのすずからの愛情だった。それを無我夢中で貪ることしか頭にない僕は、やはり卑怯であり。僕の眼は涙を流しながらも遥か天空にあった。

「でもね、ういさん、会ったらやっぱりこうしてキスしちゃうの」

 唇と体を離しながら、すずは言った。

「だから、きっとちゃんと浮気をやめることはできなかったよ。あのまま何もなく、ういさんが別れを切り出したら、わたしも泣きながら受け入れたと思う。でも、ういさんのことは好きなままだから、それは浮気は終わったとは言わない」
「……もし僕がまた会おうって言っちゃったら、断れなかった?」
「断れない。だって、嫌じゃないんだもん。卑怯で甘えん坊だから、自分から会いたいなんて言わずに、でもういさんとの連絡を途切れさせようとはしないで、心のどこかでまた会える日をきっと待ってた」
「でもそれじゃ永遠に終わらない。またすずが苦しんでいくだけの未来だ」
「そうだね。それが、わたしたちの始めちゃった現実なんだよ」

 そして現実は別の未来へ捻じ曲がった。
 浮気は明日終わるのだ。すずが彼との将来を選んだ時、すずが彼との決別を選んだ時、罪と悪に幕が下りる。だが、本当にそうなのか。今目の前でこんなにもすずの愛情を感じているというのに、すずが彼氏と結婚を決めた途端、僕の想いもすずの想いも真っ白に漂白されるものなのか。こうして愛情を貪ることで、僕はやっぱりすずの言う通り永遠に終わらない罪と悪を望んでいるのではないのか。
 いや、そうじゃない。お互いの愛情は関係ないんだ。すずを不幸にさせたくないという僕の絶対の決意がすべてに打ち勝つ。すずが苦しむ愛情に僕はもう手を貸さない。その決意をもって今日僕はここへ来たんだ。

「なんとなくだけど、僕、すずは彼氏と復縁する気がするよ」

 涙も、なけなしの酒も枯れ果てた深夜、ベッドに寝そべるすずに僕は背中で告げた。とっくに終電なんて無くなっていた。

「そう……かな」
「彼氏も根は真面目な男だろう? すずと六年も付き合ってるんだ。いい男に決まってる。そんな彼が十日間真剣にすずとの将来を考えてくるんだから、きっと前向きに、すずとうまくやっていくビジョンを見据えてくると思う」

 すずとの六年間を簡単に棒に振るほど棚田という男が愚かだとは思えない。己の優しさを限界まで絞り出して、思っていたことを言う。

「……うん。ちょっと、わたしもそう思ってる」

 遠慮がちのすずの声が背に届く。自分から振った話のくせに、肯定する彼女の言葉は、なんとも貧弱な僕の心臓を思った以上に揺らした。

「まだ、わかんないけど。彼がどんな答えを出してくるのか。わたしも言いたい放題言っちゃったし、幻滅されてる可能性も十分ある」
「どうかな。ああ、どんな結果にせよ、明日すずから連絡来るまでは人生で一番泣きぬれる一日なんだろうな」
「なんでー」
「色んなことを想像してさ」
「今日いっぱい泣いたんだから、もう泣くのはやめっ。楽しいことしよ。そうだ、うちロクヨンあるんだよ。あ、わたしの幼稚園先生時代の遠足のDVDとかも見る?」
「もう二時だよ。寝る気はないんだね?」
「今日は朝までういさんと笑いたい」

 その言葉だけで、泣きそうになる。我慢して、僕はすずの上にふざけてのしかかった。おりゃーかわいい小学生めー、と頭をわしゃわしゃ撫でた。それからキスをして、もう一度キスをして、しばらくのあいだ抱き合った。



 すずの言った通り、結局僕らは朝までずっと笑って過ごした。懐かしいレースゲームをして僕がすずをボコボコにしたり、昔のすずが映ったDVDをパソコンで再生して幼稚園生とあんまり背丈変わらないねとからかったり、楽しい時間はしあわせを引き連れてあっという間だった。

「そろそろ帰るよ」

 朝六時過ぎ、一分に一回すずがあくびをするようになったので、僕は帰る支度をした。今夜これから大事な話し合いが控えてるのだから、彼女には十分な睡眠をとらせなければならない。

「うん。こんな時間までありがとう。楽しかった」
「こちらこそ。夜、ずっと起きてるから、連絡できそうだったらちょうだい。マヤも実家帰ってるから電話かけてきて。どんな結果だったとしても」
「うん」

 階段を下りて、玄関へ向かう。すずが見送るためにてくてく後ろをついてくる。
 靴を履いて、ドアノブに手をかけた時、笑顔で振り返ろうと思った。もしかしたら情けない顔をして彼女を不安にさせてしまうかもしれないから、彼女が僕を今日笑わせてくれたように、僕も最後は意識して笑顔でさよならを言おうと思った。
 振り返った。

 そこには、世界一悲しい顔があった。

 震える小さな体は、拳を握りしめる力に耐えきれないから震えていて。握りしめる力は、涙を目からこぼすまいと必死に込める儚い力で。

「すず」

 こんなのってないよ。そんな顔最後に見せられたら、もうだめだよ。

「すず、その顔はだめだよ」

 涙が枯れ果てていたなんて嘘だった。僕は泣きながら彼女を抱きしめた。彼女は僕を抱きしめる力さえ失って、ひたすらごめんなさいと泣いた。ういさんが笑顔でバイバイしてくれようとしてるのわかってたのにごめんなさい。泣いちゃってごめんなさい。ごめんなさい。
 こうしてすずを抱きしめるのも最後かもしれない。すずのぬくもりを感じることができるのも最後かもしれない。二人で会うことができるのも最後かもしれない。はじめてそれを体温で意識してしまった時、涙がどこまでもあふれた。
 最後、かもしれない。締め付けられるほどに最後という言葉が僕らを閉じ込めていて、僕は僕が壊れてゆくのを止められなかった。
 一生忘れないだろう。振り返った瞬間の、世界一悲しい顔を。



 歩きながら、不意にこみ上げてくる涙に何度も足をとられながら、僕はなんとか家に帰った。
 コートだけ脱いで、そのままベッドに墜落した。後は勝手に眠っていった。途中、何度も目を覚ましたが、今日だけは現実にいたくなくていくらでも眠った。色んな夢を見たような気がする。全部がすずの夢であって然るべきなのに、こういう時に限って何故か夢は頭の片隅にもないような不思議な映像を映したりする。
 夕方、午後五時くらいに目が覚めた時、すずにメッセージを送った。六時ごろ彼氏が家に来ると言っていたから、せめて彼女を元気づけるため、平気を装った絵文字と顔文字たっぷりの言葉を送った。すぐに返ってきた彼女の返信も明るかった。これでいい。彼との話し合い直前に僕の優しさを見せつけるだとか、そんな卑しい意図はないつもりだ。僕は僕が最後にできることをしたまでだ。あとは、夜彼女の連絡を待つしかない。もうこれ以上泣くのも疲れてしまうから、僕はまた眠ることにした。眠るとタイムスリップしたみたいに数時間が一瞬だ。どうせなら起きた途端過去に戻ってくれててもいいのに。
 もうこれ以上睡眠することが不可能なくらい眠り、完全に覚醒した時、部屋は真っ暗だった。電気を点け、スマホで時刻を確認すると、七時半だった。すずからの連絡は、どうやらまだない。胃の中もからっぽで喉も灼けつきそうなほどカラカラで、僕はなんとかベッドから起き上がって冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みした。少しだけ頭がすっきりしたが、食欲はまるで無かった。僕はスマホを片手に握りしめ、ふらふらベランダに出た。
 四階のベランダからは、交差点の大通りが一望できる。道路を挟んだ目の前にファミレスがあり、冬休み、この時間帯は家族連れで溢れていることがガラス窓から覗ける。あのテーブルも、そっちのテーブルも、僕の眼には平凡で平和な家族にしか見えない。彼らは空の眼なんて見ようともせず、目の前の幸せな料理を貪っている。でも空の眼は、いずれきっとそんな平凡や平和を貫いてくる。かつては僕も空の眼など意識していなかった。ただ見ているだけの物体に怯えて悪を躊躇する人たちを情けないとすら思った。それでも空の眼は無感情でそこに在り続けた。あの視線は、愛も平和も悪も罪も、同じ眼の色のまま見逃さない。今だって、きっと。
 ふと空を見上げて、ひっくり返った声が思わず漏れた。
 ――空の眼。
 ここ二週間ほど、まるで梅雨時のように悪天候が続いていて、直接空の眼を見ることがなかった。だがかつて僕がすずと初めて過ちを犯した翌朝の時と同じように、今、空の眼は、晴れゆく雲間から、薄ぼんやりとした光を伴って姿を現していた。ただ、あの時とは様子が決定的に違っていた。
 瞼が、完全に閉じている。
 僕は絶句した。睨んでいるようにさえ見えた、狭まっていた黒い楕円が、完全に閉じ、ただの一本の線になっているのだ。その模様は、今までであれば目玉のように見えていた僕らからしたら、眼を閉じた瞼にしか見えない。
 心臓の鼓動が早鐘を打ち、そして、次第に、とくりとくりと、静かになっていく。
 空の眼は、僕らを見ることをやめていたのか。瞼を閉じようとしていたあの時から。僕とすずにとっては、浮気という罪悪が互いの危うい関係を浮き彫りにさせ始めていたあの夜の公園から。そう、つまり、やはり浮気は終わったんだ。この後すずがどんな結果を携え、どんな言葉を僕に告げようが、僕とすずの関係は罪でも悪でもなくなるんだ。超常的な視線におびえたり、歯向かったり、意識する必要はもうないんだ。空の眼はもう見ていない。僕らを監視していない。僕とすずは空の眼に打ち勝ったんだ。
 僕も眼を閉じて、大きく息を吐く。
 瞼の裏に、空の眼の光が残像として残っている。
 あれ、と思った。僕は、今、眼を閉じているはずなのに空の眼の光を見ている。なぜ、見えているんだ。
 ゾッとした。僕は眼を見開いて、ふたたび空の眼を見つめた。
 違う。瞼を閉じていても、眼が消えるわけじゃない。瞼は眼を消すものじゃなく、ただ単純に目玉を覆う薄いカーテンでしかない。そこに目玉がある。空の眼は、人の眼だ。それが眼であると人が認識する限り僕ら全員の眼だ。今あいつの瞼の裏にはきっと残像がある。僕とすずのすべてを映した残像が、夜空の壁に溶けていく打ち上げ花火の残り火のように、揺らめいている。
 いつの日かそれは消えゆくものなのか。
 確かに浮気は終わるのかもしれない。眼は閉じたのかもしれない。でも、僕らがその閉じた目玉から逃れられる行く末などあるのだろうか。すずが彼を選んでも、僕を選んでも、僕らの罪と悪はあの瞼の裏にどうしようもなくへばりついている。僕は、覚悟なんてできているのだろうか。これから先も、あの物言わぬ視線と向き合い続けなければならないことに。
 右手の中の、電話が鳴った。






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花雨
2021.08.13 花雨

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