雲間の眼

中野ぼの

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8 睨む眼に映るもの

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「ういさん、こんな遅くに実家帰って平気なの?」

 はじめて飲むと言う赤ワインのグラスを傾けながら、すずが言った。今日僕らが会えたのは僕が実家に帰る日をマヤと一致させたのと、家を出る時間とすずの仕事が終わる時間が一致したおかげだった。

「うん、常磐線で一本だし、親には帰るかもとしかまだ言ってない」

 会うことも一昨日急遽決まったので、特に店の予約もしなかった。二人の中間地点である上野駅で待ち合わせて、可もなく不可もなさそうな居酒屋に入った。店内は比較的静かで落ち着いていたが、テーブル席が埋まっていたので僕らは珍しくカウンター席で飲んでいた。時刻は、まもなく二十三時を回る。

「なにそれー。わたし、今日はちゃんと家帰るよ? ういさんも実家帰ってお母さんに顔見せてきなさい」
「はは、わかってるよ。ただ、すずちゃんが急に『帰りたくないの……』って切なげに言ってきたときのことを考えてね」
「そんなこと言いませーん」

 すずは僕にぷいっとそっぽを向けて、スマホをいじりだした。乗換案内アプリが開いている。終電を調べているんだなと思い、寂しさが染み込んでくる。本当に帰るつもりなのかな、本当は帰りたくないんじゃないかな。でも僕はそれを口にしないし裂けても帰らないでなんて言葉は言わない。僕らの関係は不自由だけれども自由でなければならない。縛り付けるような恋愛はお互いの家の中で間に合っている。

「でもすずんとこも、今日彼氏飲み会で遅くなるんでしょ?」
「うん。あ、今連絡きました。うわ、オールになるかもとか言ってる」
「ほう、浮気か浮気か? 例の琴美ちゃんもいるんじゃないか?」
「うーん、けしからん」
「まったくけしからんね」

 自分たちが現在進行形でけしからん関係であることを暗に皮肉り、二人して笑った。すずはうつろな顔で「わたしワインむりみたい」と僕にグラスを託してきた。僕はそれを二口で飲み干して、焼酎を注文する。

「すずってそういうとき彼氏になんて返信するの?」
「んー、別に普通だよ。楽しんでらっしゃーいって今返した」
「ふぅん。もし浮気してたら、やだ?」
「やだなぁ」
「今僕らはしてるのに?」
「……うーん、ほんと勝手だなわたし」

 すずは笑ったが、僕は笑えなかった。僕はぜひマヤには浮気しててほしいと思う。だってそうなれば別れる理由には十分だし、誰でも見てわかるくらいに僕の罪も軽くなる。
 やはり僕とすずの立場は同じようで微妙に違う。同じ浮気をしているのなら中身も全部同じであってほしくて、むずむずするような熱に胸の奥が炙られる。

「彼氏と喧嘩とかってあまりしないんだっけ」
「まあ。むって思うことはあるけど、別に我慢できるし。六年も一緒だからね」
「六年ねぇ。確かに。僕とマヤもあと三年経てば喧嘩しなくなるのかな?」
「ねー、そういえばまた喧嘩したの? この前」

 すずはスマホを置いて、僕をじとりと睨んだ。可愛いけど、その反応も僕は嫌だ。僕とマヤが喧嘩したんなら喜んでくれればいいのに。

「ああ、あん時はいきなりメッセ途切れちゃってごめんごめん」
「それは別にいいけど。仲良くしてよ」
「別に険悪な仲じゃないよ。でも、すずと違って僕は我慢できないんだな。就職決まったのはいいけどさ、帰ってきたら仕事の愚痴ばかり聞かされて。いや、いいよ? 昔から僕は聞き役に徹するタイプだし、人の話聞くの好きだし。でも愚痴られて、僕がそれを慰めたり応援しても愚痴は鳴りやまないし、勝手に不機嫌になっていくし、じゃあどうしろってんだよって。僕の言葉が何の解決にも気休めにもならないんなら適当に相槌打っても同じだろと思って、パソコンしながら適当に返事してたら癇癪起こすんだもん」
「聞いてほしいだけなんですよ。わたしだってういさん話しやすいからいっぱい愚痴きいてもらったし、こうして仲良くなれたし」
「でもすずはマヤと違って、逆ギレはしない」
「うん、まあ、そうだけど。つらくて、わーってなるマヤさんの気持ちはわかるんですけど、それをういさんに当たるのは、確かに、ちょっと違いますよね」
「でしょ。浮気もしたくなるって」
「それはしちゃだめっ。……うー、してるけど……」

 なんでなんでー、と頭を抱えるポーズをとるすず。僕はその頭を撫でて、そっと肩を抱き寄せる。僕の力だけじゃなく、すずの重力で頭が肩に乗るのを感じる。
 すずはカウンターに置いたスマホのホームボタンを人差し指で押し、画面に明かりをつける。時刻を確認しているのだとわかっている。僕もさっきすずの終電を調べたから、あと十分で時間切れだともわかっている。今から急いで会計を済ませてダッシュで駅に走ればまだまだ間に合う時間だろう。終電は他路線の都合で遅れることも多い。しかし僕は卑怯にもそれを口にしないことを選んだ。それどころか終電に気づいていないふりをした。

「ああ、終電なくなる」

 すずがため息を吐いた。僕は「えっ」と驚いた演技をし、ポケットからスマホを取り出して初めて時間を知るふりをする。

「やば。何時だっけ?」
「三十八分」
「……あと八分か。終電は乗り換え待ってくれること多いし、まだ間に合うかも」
「うん」

 頷きつつも、すずが立ち上がる様子はなかった。頬杖をついて、またため息を吐く。スマホの静かな光が彼女の伏せたまつ毛を黒く波打たせた。

「はあ。ほんとわたし、意志が弱い」

 彼女は自己嫌悪に陥っているようだった。そうさせたのは僕のせいでもあり、でも一緒にいたいと思ってくれたことは素直に嬉しく、なんて言葉をかけたらいいのかわからない。

「とりあえず彼氏にメール送ります。まあ向こうも結局オール決定みたいだけど」
「そっか」
「ういさんも実家帰りたいんなら」
「なに言ってんだよ。すずは僕といたいから残ってくれたんだろ」

 すずが言いかけた言葉を異様に恐ろしく感じ、僕は少し大きい声を出してしまった。

「すいません」
「なんですずが謝るの。ちゃんとすずを終電で帰さなかった僕の落ち度だろ。そうだ、せっかくだからウチ泊まりこない?」

 まるで今思いついたように提案したことだったが、それは兼ねてから考えていた野望でもあった。

「えっ、ういさんち?」
「うん。マヤは実家だからいないし、二人きりだよ。ホテルでもいいけど、土曜だから高いし、無料で好きな時間まで泊まれるウチのがいいでしょ」
「……うーん、なんか行きづらいような……。別にホテルでいいですよ。お金のことなら、いつも払ってもらってるからわたし払う」
「お金の問題じゃない。一応社会人なんだし。ただ、すずにウチ来てほしいなって。こんな機会滅多にないし」

 すずがどういう感情の中にいるのか、わかりそうでわからない。それはきっと僕自身もどういう感情で誘っているのかよくわかっていないからだ。我が家という僕の空間にすずを連れ込むことによって、浮気を次のステップに進めたいのか。僕と僕の家で完全にすずを僕のものにするために。それは劣情か、愛情か?
 二人して答えのない表情で目配せし合って、やがて、焼酎の氷が溶けてからんと音を立てた後、すずは唇を舐めながら小さく頷いた。


 僕の家までは電車で一本だったが、土曜の終電間際ということもあり混雑や待ち合わせが原因で遅延し、いつもより乗車している時間が長かった。お酒と疲労もあって眠いのか、すずの口数は少なかった。駅までの道で手をつなぎながら少し話し、乗車してまた少し話し、二人並んでシートに座ってからは僕の肩に頭を預けてきた。リズムに沿った吐息が絶えず聞こえてきたので、本当にうたた寝しているらしかった。僕の隣でリラックスしてくれてるんだな。嬉しくて、その時まではなにも心配していなかった。
 しかし、僕の最寄り駅に着いた途端彼女は完全に口を閉ざした。手をつないで歩いてはいたが、いつもより足取りが重いのは明らかだった。僕は真上の空の眼を睨みつけた。お前のせいか。お前がまた、嫌な眼ですずを見てるんだろう。こんなわけのわからない視線のせいですずを尻込みさせてたまるか。僕らは堂々と愛し合いたいんだ。
 結局、家までの道ですずが喋ったのは「コンビニ行きたいです」の一言だけだった。彼女はコンビニでコンタクトレンズの洗浄液と歯ブラシセットを買い、どんどん重くなる足取りのまま僕のマンションに入った。エレベーターで四階のボタンを押し、扉が閉まると、僕らは束の間の密室に落ちた。体がふわりと浮いて、僕は頭を撫でながら彼女の顔を覗き込もうとした。すずは目を見開いて、思ったよりも過剰な反応で肩を跳ねあがらせた。キスでも、されると思ったのだろうか。いまは、そういうの嫌だったのか。
 エレベーターが開く。僕の部屋、四〇一号室はエレベーターを降りてすぐ目の前にある。僕は財布から鍵を取り出し、ドアを開けた。部屋は真っ暗で、人の気配はない。万が一マヤが戻ってきてたらどうしようかと思ったが、杞憂だったようだ。

「すず」

 振り返り、すずのいる背後に手を伸ばした。
 僕の腕は虚空をかすめた。すずは、僕の想像よりずっと離れた場所に立っていて、エレベーターのドアが閉まるそこにいた。

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声だった。泣きそうな声だった。小さすぎて、白いコートの光に包まれてそのまま消えてしまうんじゃないかと思った。

「どしたの」

 僕は慌てて駆け寄り、消えてしまう前に抱きしめた。彼女は抱きしめてこなかった。それでも僕は優しく抱きしめて、彼女の体温と匂いと柔らかさを自分のものにした瞬間、途端にすべて理解した。

「お家入るの、むり?」
「ごめんね。ごめんなさい」

 すずは儚い指先で、僕のコートの袖口をつまんだ。

「平気だと思ったの。ちょっと嫌だったけど、ここに来るまでは、たぶん大丈夫って。でも、ごめんね。お部屋入れないよ」

 背筋が凍り付くかと思った。いや、焼き付く方だったかもしれない。ドライアイスを押し付けれたかのような冷熱は、僕に対する空の眼の強烈な睨み返しに感じた。血の気が引くのはあまりに一瞬だった。

「わかった。家はやめよう。近くの公園で話そうか」

 このままここにいてはいけない。僕はすずの返事を待たずに手首を掴み、エレベーターに乗ってすぐマンションを出た。大通りの交差点に面するマンション前の通りは深夜とはいえ明るく、人影もちらほら見られたが、脇道を進むと人気のない小さな公園がある。マヤに隠れてすずと電話をする時にもよく利用していたので、勝手に「電話公園」と名付けていた。
 電話公園には簡素な滑り台とブランコとジャングルジムしか遊具は無く、年季の入った街灯が滅びた赤や青の鉄錆を無音の闇にぼうっと浮かび上がらせていた。僕とすずはその街灯の下、ベンチに腰掛けた。真上で木々がざわざわ揺れていた。

「ほんとごめんなさい。わたし何やってるんだろ」

 泣きそうな声、などではなく、すずは泣いていた。吐き気のように、僕は僕を殴り飛ばしたい衝動がこみあげて、頭の奥が一気に熱くなる。

「謝るのは僕だ。ほんとに、ごめん。ごめんなさい。すずの気持ち、なんにも考えてなかった。僕とマヤがずっと住んでる部屋だ。来たくないに決まってる」

 すずは洟をすすりながら、控えめに頷いた。気が付けば僕も泣いていた。

「気にしないようにしようって、決めて来たの。でももしいざ部屋に入って、マヤさんの匂いとか服とか化粧品とか色んな気配を感じちゃったら、泣いちゃうって思って。ごめんなさい、結局泣いてるんだけど」
「ごめん。全然気遣いがなかった。僕はたとえすずの部屋に行って彼氏の気配感じても平気だから、当たり前のようにその価値観でいた。すずと僕の立場は同じようで違うのに」

 謝り、反省し、後悔することしかできない。すずを泣かすことだけは絶対にしたくなかった。僕は空の眼が憎くて、そして空の眼に対して傲慢だったのだ。睨みつけて、歯向かって、僕が視線と戦えてさえいればそれで大丈夫だと思った。僕が空の眼からすずを守ってあげてるつもりだった。僕の部屋で、僕の愛情で。でも、どうしようもなく、罪は罪で、悪は悪で。僕がどれだけ罪悪をシャットアウトしようが、すずがその時笑ってくれていようが、あいつはどんなきっかけでも目ざとく見つけてその瞼を開く。すずがそれに苛まれる時は、僕も同じように苛まれる。
 僕は空に浮かぶ邪眼を見上げた。どんなに雲が立ち込める日でも、空の眼は雲間から僕らを覗き込んでくるのか。僕は、ただの雲だったのかもしれない。実体もなく、覚悟もなく、匂いも手触りもなく、無駄に豊富な質量だけを活かして空の眼を覆い隠そうとしただけの雲。罪と悪の自覚から、彼女どころか僕自身も救えないのだから、僕は雲で隠すことばかり考えてただ視線を遠ざけていただけだった。一番悪いのは、そんなこと最初からわかりきっていたのになにもできなかった――なにもしなかった、初生谷という男。そんな自虐すら空の眼はお見通しで、今も僕のことを見透かしてくる。

「楽しく浮気、難しいね」

 泣き止んだすずが、ぼそりと言った。「楽しく浮気しようね」と、かつてこの電話公園ですずに電話で告げたことを思い出す。着地点がいつまでもふわふわしてて、でも浮気をやめるという選択肢は二人にはなくて、なにか指標のようなものが欲しかった時だ。僕はすずが精神的に参ってしまわないように、そう言った。今思えば、精神的に参ろうとしない僕だから言えた楽観的な言葉で、雲のように形のない言葉だ。

「でも僕はすずのことが大好きだよ。運命の人、とか言うとまた困らせるかもしれないけど」

 この期に及んで僕はまだ愛と浮気と罪と悪を求めようとする。少し気分が落ち着いたらしいすずは、ほのかに笑って頷いた。

「わたしもだよ。ういさん好き」
「うん。よかった。嬉しい」

 泣いて、すずの気持ちも理解して、たぶん反省したくせに、僕はわずかでも愛情が彼女から漂ってくるだけでああもう大丈夫だと好意の毒ガスを吸い込む。僕は空の眼なんかじゃないから、目の前のすずが好きだよと言ってくれれば僕の眼はすずでいっぱいになる。

「空の眼、だんだん瞼が閉じてるって言いますけど」

 すずが空の眼を見上げたので、僕も彼女の目線を追った。

「わたしには、睨み始めたように見える」
「え?」

 予想だにしない言葉に、心臓が大きく上下した。すずは、無表情だ。空の眼も、僕には無表情に見える。

「お家、もどろっか」

 すずはそれ以上空の眼を見ようとはしなかった。元気よく、いや、元気よく見せようと勢いよくベンチから立ち上がり、伸びをした。

「むりしないでいいんだよ。近くにホテルもあるから、そっち泊まっても」
「ううん、もう大丈夫。落ち着いた、と思う。疲れたし、もう寝よう?」
「……わかった。ありがとう。ごめんね。じゃあせめてすずが部屋入る前にマヤの私物なるだけ隠すから」


 部屋に戻り、すずが言ったとおりに僕らは電気を消してすぐにベッドに入った。いつもはマヤと使っているベッドだ。すずもわかっているだろう。きっと言葉にできない思いを抱いているだろう。それをほぐす手段を見つけられないから、僕も声をかけられない。すずは僕に背中を向けて寝ようとしていた。僕は、どうしようもなく、なんだかどうしようもなく、とにかく彼女を後ろから抱きしめた。抱きしめて、頬ずりをして、キスをした。彼女は抵抗しなかったが、歓迎もしていないように見えた。愛情が欲しくて、僕は何度も舌先で唇を割ろうとした。舌をからめてほしかった。いつもみたいに、最初にそうしたみたいに。しかしすずが舌をからめてくることはなかった。
 目を開けると、すずも薄く目を開けていて、そこに光がたゆたっていた。死体が涙を流しているかのような、感情的なのにうつろな表情だった。僕はそれだけで激しく動揺して、すずへのキスも愛撫もやめた。すずを悲しませたばかりなのに、結局家に連れ込んで愛ばかり貪ろうとしている僕は、僕の眼は、今のすずからはどんな眼に見えたのだろう。
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