セントエルモの火【第2回ドリーム小説大賞最終候補作】

中野ぼの

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エピローグ

〝小晴〟

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 エスカレーターを、ずっと下っていた。

 ただずっと、そうしていたように思う。
 どこから意識があったのか、最初からあったのか、それじゃあ最初っていつのことなのか、とにかくすべてが夢うつつで、あいまいで、ぼやけていた。

 気がついたらエスカレーターは空中で途切れて、足場を失ったわたしの体は空中に放り出されて、硬い床にふんわり着地していた。
 床の上はなにやら不安定にゆらゆら揺れていて、なんだろうここ、そう思った時、わたしははじめて「思う」という意識を自覚したのだと思う。自覚の瞬間から急速に意識と一緒に視覚、聴覚、嗅覚――つまり五感が広がって、わたしはたぶん「誕生」した。

「……セントエルモの火」

 わたしを包んでいたのは、熱を持った白く淡い光。

 どうやらわたしは船の甲板の上に立っているようだ。
 照らされる光を本能のままに見上げると、巨大なマストの先端にそれはあった。この世界のおそらくただひとつの光源であるそれは、どこまでも広がる黒い空と海を照らし、わたしの乗るこの船をぼうっと浮かび上がらせていた。

 ――わたし?

 ――わたしって、なに?

 きっと、もし赤ちゃんが大人と同じような脳みそを持って確固たる意思と意識を持って誕生してきたら、産声をあげた瞬間にそんな疑問に包まれるのだろう。
 自分の存在理由とか、生まれてきた理由とか、これからの人生とか、出会いとか別れとか、色々想像できちゃって、そう、きっと大声で泣いちゃうんだ。

 この世界に誕生したわたしもまた、産声をあげて泣いた。

 存在理由、生まれてきた理由、出会いと別れ。
 無意識に意識せざるをえなくって、物音ひとつしない大海に揺られながらなぜだか溢れて止まらない涙をふりしぼって泣いて泣いて泣き喚いて、枯れ果てるまで涙を海に落とした後、わたしはもう一度マストの光を見上げた。

「ここが、アマミヤくんの世界」

 あの光が、はじめて名付けられる世界。

 生きることに絶望したアマミヤくんが、はじめて出会うことになるこの世界の唯一の光で、彼にとっては自殺の運命を知る不吉な炎。

 そしてわたしは、その炎を携えて彼に死を決定させる、〝十四番目の転生者〟。
 偽りを名乗ることを既に覚悟しながら生まれてきたみたいに、わたしの乗る船はまっすぐ前に進んでいる。

 わたしは彼の来世じゃない。そしてきっとこの世界にとっては前世ですらない。

 わたしは、失われた〝十二番目〟。
 輪廻の追憶の世界で自ら命を断ち、彼の中から消滅することを選んだ。神様が用意しつづける偽りのわたしたち、その輪廻を断ち切って、わたしは――

「アマミヤくん……!」

 涙が枯れたなんてのはまったく嘘で、わたしは感極まって甲板にうずくまった。打ち震える自分の体をめいっぱい抱きしめた。

 ――良かった……! 良かった、アマミヤくん……!
 君は、ちゃんと生まれ変われたんだね……! この世界に生を受けることが許されたんだね。明日美が命を断って、はじめて世界に生まれることを許されて、これまで十七年間生きてこれたんだね……!

 しかし、歓喜と同時に、それと同じくらいの哀しみも突き上げてきて、同じ量の涙で両目がいっぱいになる。

 だってここは孤独の世界だ。
 こんなところでアマミヤくんは十七年間も生きてきたんだ。
 重い病気に苛まれ、病室を移り変わるだけの人生で、楽しいことなんてきっと片手で数えられるくらいしかなくて、今この時も苦しんで死にたい死にたいと喘いでいる。

 そんな彼を誕生させたのはわたしだ。
 明日美を説得して、彼女が必死に繋いできた「アマミヤくんを苦しませないためにこの世に誕生させない」、そのからくりを粉々にしたのはわたしだ。

 今彼に彼を死にたいと思わせてるのは、間違いなくその運命をえらんだわたしのせいなんだ。

 ――それでも。

 わたしは、さっきからワンピースのポケットの中で小刻みに震えている物体を手にとり、取り出した。

 携帯電話。

 わたしのものではない。

 アマミヤくんのものだ。

 アマミヤくんの携帯電話を見たことは当然だがない。
 でも、わかる。
 これがわたしのポケットに収まっていて、だからこそこの世界にわたしが誕生したのだから。

 携帯電話を開き、メールボックスを開く。

 わたしはもう、嗚咽が抑えられないくらいに泣いていた。

 ――届いている。乾くんのメールも、明日美のメールも。


 ――〝ikitai〟。


 アマミヤくんがアドレスを変えたのだ。
 現実の世界を生きるアマミヤくんが、この瞬間、たったいま、きっと。

 生きたい。
 生きていたい。

 その想いが、繋がりたいという想いが、セントエルモの火となってわたしをここへ呼び寄せたんだ。

「……やったよ、明日美……! やっぱりアマミヤくんは、生きたいって思ってくれたよ……!」

 それは裏を返せば、死にたいという想い。
 現実世界のアマミヤくんが、自殺への道を歩き始めてしまったということ。
 わたしはこれからこの世界でアマミヤくんと会って、彼にとっては不吉な存在として、彼の自殺を止めなければならない。それは決して簡単なことではないだろう。どうすればいいのか、なにを話せばいいのか、誕生したばかりのわたしの頭はまだまとまらない。

 ――それでも、必ずやり遂げる。
 そう約束したんだ、あの子と。

 ふと顔を上げると、わたしの船の周囲を、同じような帆船がいくつも取り囲んでいた。
 それらは音もなくゆっくりと佇み、まるで一瞥するかのようにわたしの隣で一瞬だけ止まり、そしてやはりゆっくりと海の上を滑っていくのだった。

 あれが、この世界でのわたしの前世たち。

 きっと乾くんもいるのだろう。けれど、今のわたしには船に乗っている前世たちの姿は見えない。
 彼らはこれからわたしじゃなくてアマミヤくんに会いにいく。ここはアマミヤくんの世界なのだ。そしてわたしはもう彼の前世ですらないのだ。そんなわたしが、この世界で、わたしの前世たちと会えるはずもない。

 そう、たった一人を除いては。

「会えたね、小晴」

 過ぎ去っていく帆船たちの中で、その小舟だけが唯一わたしの隣に留まり続けていた。
 他の船たちとは比べものにならないほど小さく、船体も甲板も所々腐食して落ち窪み、ぼろ布のようなマストをそれでも力いっぱい広げている。

「明日美……!」

 甲板に立つ少女に向かってわたしは声を震わせる。

 最後に見た時と同じ、〝一番目〟の存在である彼女は、ぼろぼろで薄汚れたセーラー服を身に纏っていた。

「アマミヤくんの世界だから、あたし、小晴がいたとしても会えないと思ってた」

「……わたしは会えると思ってたよ。わたしたちは最後、唯一繋がって、唯一一緒に死んだから」

 手の中の携帯電話をぎゅっと握りしめる。
 繋がりを求めることしかできないこの世界で、わたしと明日美がもう一度会えた理由なんて、もはや説明も解釈もいらない。アマミヤくんという存在が繋ぐわたしたちは、彼の世界の中でも当然繋がっているんだ。

「……こんなに嬉しいこと、ない」

 明日美は甲板の手すりに手をつき、わたしと同じくらい泣きながらわたしを見つめた。

「アマミヤくんがあなたを呼んでくれた。生きたいって、思ってくれた。これから、このあとすぐ、小晴はアマミヤくんと会ってくれる」

「……わたしだけじゃない、明日美だって。明日美だって、彼の前世として、彼に会えるんだよ」

「あたしは、彼と会うつもりはないよ」

 明日美は意外なことを口にした。

「どうして?」

「あたしには、なにもできないもの」

「……今まで彼をこの世界に閉じ込めてたこととか、何度も何度も生まれるのを拒否し続けてきたこととか、もう関係ないんだよ? 罪悪感とか、もうそういうのいらないの。あなたはアマミヤくんを生まれさせてあげたんだから」

「そう、小晴の言うとおり。あたしはアマミヤくんを生まれさせてあげた。小晴のおかげで。あたしにできることはそれだけで、あたしはそれだけで十分なの」

 血と泥と涙にまみれた頬が、小さな笑窪を作る。
 初めて見た、明日美の年相応の、とても可愛らしい笑顔だった。
 そんな彼女の無垢な姿を、セントエルモの火が暖かく照らし出している。

「あたしはアマミヤくんには会わない。たとえ彼が一番最初の存在に会いたいって思っても、あたしはこの船から姿を出さない」

「……どうして、そこまで」

 明日美の悲運を思って、また涙がとまらなくなる。
 明日美という存在を突き止め、彼女に死を促した張本人はわたし自身なのに、わたしが一番泣いている。

「小晴を信じられるから。本当に彼が呼び寄せた、あなたを」

 セントエルモの火が、一段と強くまたたく。

「アマミヤくんを生まれさせてあげて、そしてあなたを信じられる。そういうふうに思えるだけで、あたしの生きた十七年間に価値はあった。生きて、良かった。死ねて、良かった」

「明日美……」

「アマミヤくんを、お願い」

 それは、二人で一緒に死んだ時に彼女がわたしに告げた言葉と、まったく同じだった。

 そう、明日美はきっとあの時から覚悟を決めていたに違いない。わたしにアマミヤくんを託すということが、どんなことか。彼の中から永遠に消滅して〝欠番の転生者〟となることを覚悟したわたしの覚悟が、どれだけのものか。

 明日美はわたしの覚悟を受け止めてくれたのに、わたしは彼女の覚悟を少し見くびっていたのかもしれない。
 わたしが消えることを覚悟していたのと同じように、いやもしかしたらそれ以上に、明日美だってアマミヤくんの世界から消える覚悟だったんだ。

 ――わかったよ、明日美。
 わたしのやることは、やるべきことは、死んだ時からなにも変わっちゃいない。明日美の想いだって絶対彼に届けてみせる。

 覚悟を認め合ったわたしたちに、どうやらそれ以上の言葉は必要ないらしかった。
 明日美を乗せた小舟がゆるやかに前進をはじめ、セントエルモの火の外へ、光から闇へ、吸い込まれるようにして去っていく。明日美は微笑んでいる。闇に消えようとしても微笑んでいる。だからわたしも笑った。我慢してもう泣かないようにした。明日美が信じてくれたわたしは、涙を見せず、強く彼を支えるわたしでなければいけない。

 ――できるんだろうか、わたしに。

 明日美の小舟がとうとう見えなくなって、再び訪れた静寂に、わたしは不安を隠せない。

 もう明日美とも会うことはないだろう。他の前世もいない。わたしには見えない。わたしをいっぱい助けてくれた乾くんもいない。

 わたしが会えるのは、わたしが救うべきアマミヤくんだけだ。

 不安を押し殺すように、わたしは両の拳を握りしめる。
 袖で何度も目元を拭って、上を向いて、せいいっぱい涙を眼球の奥に押し込める。

 ――待っててね、アマミヤくん。

 再び前を向いたわたしの目に、彼の待つ帆船が迫っていた。
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