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二章 小晴
2 苦い千歳飴
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再びデパートが灰色に染まった時、アマミヤくんは現れなかった。
代わりに他のわたしの前世たちがエスカレーターでわたしを待ち受けていた。
前世たちの多くは、アマミヤくんと同じようにわたしに興味を持ち、わたしの話を聞きたがった。けれど彼らはアマミヤくんと同じではなかった。なにが違うのかはわからない。ただ、彼らはエスカレーターに乗って流されるがまま流されていき、アマミヤくんだけがわたしの隣に留まってくれていたように思えた。誰もが独りで死んでいったと独白したが、わたしにはアマミヤくんだけが透明で孤独に見えた。なぜそう感じたのかは、わからない。ただ彼は、他の前世たちとは圧倒的に何かが違っていた。
アマミヤくんと再会できたのは、三日後の休日のことだった。
いつものように、ふと気づくと音や光や人の気配が消えていて、まばたきをすれば世界が灰色に落ちている。もう慣れたものだった。
「アマミヤくん」
この日、エスカレーターを昇った先のフロアでひらひら手を振っていたのはアマミヤくんで、彼の姿を目にした途端自分でも驚くくらい声が弾んだ。
「やあ。久しぶりだね」
「うん」
やはり老木のような姿のまま、別れた時と同じ微笑みを浮かべて彼はわたしを迎えてくれた。
ああ、よかった。これで独りじゃない。
会えてよかった、元気だった? なんて、そんなふつうの世界のふつうのやり取りが思わず口から出そうになる。
ほんとは、言ってみたい。言いたくてたまらない。言えばその声はきっともっと明るく弾み出す。けど、言った瞬間のことを想像すると、ゾッとした。どう足掻いても彼はもう死んでしまっているんだ。元気だった? なんて、逆にわたしの世界から彼を遠ざけてしまう言葉だ。ゾッとする。
「あれからどう? 君の前世たちには会ったかい?」
「うん。でも、まだわたしの来世は現れないよ」
わたしたちはこの前と同じようにエスカレーターに隣り合い、ゆるやかに上昇をはじめた。
「だからまだまだわたしは自殺しない」
宣言すると、彼はやっぱり曖昧な返事をする。
わたしが生きてしまうのを嘆いているわけじゃないのはわかってる。他の前世たちも決まって同じ顔をした。こちら側の世界を拠り所としてしまうわたしはどうしようもなく独りぽっちで、そんなわたしの隣にはいつも死が居座っていることを、憐れむような彼の瞳は教えてくれる。
彼が既に死んでいることはわたしにとって絶望なのだろうか? カラフルな世界では決して出会えないという事実は自ら死を選ぶほどの絶望なのだろうか? 自らを問いただしても、自らというやつは中々本音を吐き出してくれない。
「来世といえばね、変な話を聞いたよ」
わたしの来世の話をしても彼は表情を曇らせるだけだ。わたしはすかさず話題を変えた。
「昨日会った十一番目の生まれ変わり。乾くんていうんだけど」
「十一番目? もしかして、他の前世は僕と違って自分の順番を記憶してるの?」
「うん。まだ全員に会えたわけじゃないけど、会えた人はみんな覚えてた」
そう、と彼は少し不思議そうに首をひねった。
「それでね、その十一番目の乾くん、自殺する間際に自分の来世にメールを送ったんだって」
「まさか」
ありえないよ、と彼はかぶりを振った。
「でも、アマミヤくんだって生きてる時に強く頭に刻み込まれてた『午後の恐竜』をここでも覚えてた。死の直前のメールだって、記憶に焼き付いてても不思議じゃない」
「だとしても、来世にメールを送ったってどういうこと? 確かに僕たちは同じ時間の中で転生を繰り返してる。時間的なずれはないのかもしれない。けど、メールを送るなんて、どうやって――そもそも――一体どうして?」
「内容や理由まではどうしても思い出せないって。アマミヤくんが本の中身までは実物を見るまでは思い出せなかったのと同じ、だよ」
圧倒的な不幸を誰よりも明るくあっけらかんと語った乾くんが、そこで唯一渋い顔をしていたのを思い出す。彼は、十二番目の来世にそこまでして一体なにを伝えたかったのだろう。
「その乾って前世は、どんな人だった?」
「底抜けに明るいアスリートだよ。でも、誰よりもつらい人生を送ってきてる。聞いてるこっちがつらくなるくらいにさばさば話すの。大切な人が次々死んで、自分もどうしようもない病にかかって」
「病か。僕と同じだ。でも、彼は僕なんかよりよっぽど強そうだね」
「そんなことない。みんな同じだよ。みんな、死んじゃったんだから」
みんな同じか、と彼は溜め息を吐いた。
「あれから少し考えたんだ。もしかしたら、小晴さんは僕らとは違うんじゃないかって」
彼は降り立ったフロアで突然足を止めた。わたしたちは既にエスカレーターを一周し、最上階から地下一階へ戻ったところだった。
「未だに来世の君が現れないということは、もしかしたら――」
「どうかな。そう思いたいし、思ってるけど、ちょっと自信がなくなるときもある」
はじめてのわたしの弱気な言葉が意外だったのか、彼は少し目を丸くした。
「こういう流れも今までと同じ、ずっと繰り返してきたことかもしれないし。だってアマミヤくんにはこれまでの記憶なんてないんでしょ? このわたしの世界でしか君は生きてないんだ。これまでも同じように、わたしの前世たちはすぐには来世には出会わなかったのかも。ゆっくり前世たちとの時間を過ごして、ゆっくり死の光を取り込んでいって、最後の最後に来世に出くわしたのかも。君がそれを否定できない以上、いろんな可能性があるから」
「……それでも実際、いま現在、君は死のうとしていない」
「うん。もちろん。わたしは死なないよ。ただ、でもね、この前アマミヤくんが言ったとおり、わたしはこの世界でアマミヤくんと話をする時エスカレーターガールじゃなくなるんだよ。アマミヤくんに話を聞いてもらいたがってるわたしがいる。そういう時ね、なんだかね、……へんなきぶんになる」
さみしくなる。せつなくなる。胸が痛くなる。
あえて言葉にしなかった。
ここでしかアマミヤくんに出会えないことを嘆く自分に遭遇するのが怖かった。
想像の中で、その気持ちは、わたしの中で唯一自殺を連想させる。
「アマミヤくんはわたしが特別だって言うけど、この理不尽な輪廻転生の中でなにが当たり前でなにが特別かなんてわからないよ」
「でも君は特別でありたいんだ。君は死なない、そう思っていたいはずだ」
「……アマミヤくんも、そう思ってくれるの?」
誰もいないレジの方を向いたまま、彼は押し黙った。
「わたしが特別だと言うんなら、十一番目の乾くんの来世も、きっとなんだかおかしい」
「メールを送った相手のこと?」
「そう。わたし、この世界に十二番目の存在だけ感じないの。すごく不思議な感覚。まだ全員に会えたわけじゃないと思うし、そもそも何人いるのかもわからないけど、十二番目がいないってことだけ、わかった。乾くんと話して、彼の来世を考えようとした時に、はじめてそんな感覚があった。あれ、わたしまだ多分、彼の来世に会ったことないな、って。ううん、たぶん会うことはないなって。なんで、だろう」
彼は顔をしかめて悩ましそうに唸った。
「わからない。僕は感じない。僕には、自分が何番目なのかもわからない」
「わたしの一番近い前世だってことはお互い感じるのにね。でも、きっと乾くんたちからそう遠くない来世だよ、わたしたち。彼と話しててなんとなくそんな感じがしたの」
なんとなくとか、感覚とか、そんな曖昧なものばかりだ。でもそれはきっと仕方がない。ここは、わたしという曖昧な人間の世界なんだ。
さあエスカレーターをもう一巡しようとベルトに手をかけようとした時、灰色に侵食されながらもきらびやかな気配を帯びたなにかが視界を過ぎり、わたしは振り返った。
「……七五三か」
デパートの七五三フェアだった。六階の子供服コーナーで着物や袴を展示しているという広告の看板と、このフロアで販売している千歳飴の宣伝だった。
「そういえばそういう時期だね。ずっと病院にいた僕がちゃんと祝ってもらったかどうか微妙だけど」
「わたしは祝ってもらったな。女の子は三歳と七歳、男の子は三歳と五歳に祝って千歳飴を食べるんだよね」
「千歳飴か。長寿を祈って食べるんだっけか」
千歳飴が束になって吊るされている一角で、わたしたちは立ち止まってそれを眺めた。色鮮やかなはずの包装紙の本来の色が、どうしても思い出せない。
「甘かったなあ。千歳飴。七五三過ぎると、もう食べる機会ないんだよね」
「食べてみたら?」
「え?」
わたしは驚いて彼を見た。
「ここは君のデパートだ。好き放題したらいいよ」
「じゃあ、レジのお金全部盗む」
「はは。ほしくもないお金が、レジに入ってるかどうか疑問だけどね」
わたしの珍しい冗談に彼は笑って反応してくれた。なんだか嬉しくなって、わたしは勢いで千歳飴の包装紙を破り捨て、中に入っていた細長い飴細工に噛り付いた。
「……苦い」
当然わたしは、七歳のころに本当のお母さんから食べさせてもらった甘い甘い砂糖の味を想像したのである。しかし唾液を通して口全体に広がった味は、砂糖には程遠い砂利のような苦味だった。
「苦い? それ、千歳飴じゃないんじゃないか」
「いや……でもそういえば、昔食べた千歳飴もこんな味だった気がする」
もう一口、千歳飴にしゃぶりつく。
「そうだ、甘いっていうのはわたしの錯覚だ。当時は苦いって感じがよくわからなかったから、みんなも甘い甘い言うし、こういう味も甘いっていうんだって思い込んだんだ」
わたしの千歳飴は甘くなかった。そういえば、そう感じたのはわたしだけではなかった。
「乾くんも千歳飴が苦かったって言ってた。もう十一回も七五三繰り返してるからな、甘く感じなくて当然だよなって。その時は、千歳飴は甘くて当たり前なんだから乾くんの勘違いだって思ったけど、乾くんよりも多く七五三を迎えてるはずのわたしが千歳飴を甘く感じるわけないんだ」
「それならきっと僕も生きてる時は苦い千歳飴を食べたってことか。でも、どうして乾くんとそんな話になったんだい?」
「えっと――」
わたしはハッとした。その時はあまり気にすることはなかったが、彼はおかしなことを言っていたのだ。
「乾くんが来世にメールを送った話の続きで――、彼ね、来世と会ったときに千歳飴を食べさせてあげたらしいの。そしたら、甘い甘いって言いながらその人は千歳飴を舐めてたらしいの。その人がどんな人だったか、まったく思い出せないらしいけど」
千歳飴の包装紙を破ろうとしていた手を止めて、アマミヤくんは目を丸くした。
「君や乾くんが千歳飴を苦く感じているのに、確かに十二番目だけ甘く感じるのは変な話だね。……とはいえ、その甘みや苦みが本当に生きた順番に影響してるのか証拠はないけど……。それにしても、そんなことまで覚えてるのか、彼は。よほど死ぬ前に来世のことが気になったんだろうか?」
「そうなんだと思う。きっとどうしてもなにかが引っかかってて、メールまで送る必要があったんじゃないかな。どうしてかは――わからないけど」
口の中で舌を転がすと、飴細工のかけらが口内にほんのりとした苦味をいつまでも残した。
この苦みはなんなのだろう。甘いはずだった七五三までの人生は、これから苦くなっていくんだということを子供のときに思い知らせる苦みだろうか。十数回も七五三を繰り返して、どうせ十七歳で自殺するのに長寿を願われて、もう嫌だもう嫌だと泣き叫ぶ味なのだろうか。
なんだか目の中が熱くなる。少なくとも十回以上、わたしたちはこの苦みを味わってきたのかと思うと狂おしい。その時にその意味はわからなくとも、七五三の時にわたしたちの人生の味なんて決まってしまっているのだ。
一体どうして。
運命なんて納得できない。
最初から決められていたなんて、わたしは認めたくない。
千歳飴の思わぬ苦さで、わたしはこの時はじめて、強く、わたしたちに降りかかる宿命を呪った。
「メール、か」
しばらくの沈黙の後、アマミヤくんは千歳飴を店に戻しながら呟いた。
「それも、ありなのかもしれない。小晴さん、ケータイ持ってる?」
念のためにと、義理の母から一応携帯電話は持たされている。月に一度画面を開けばいい方だが、その時わたしは彼の言葉よりも彼が元の場所に戻した千歳飴の包装紙に鮮やかな色が戻りつつあることに目を奪われていた。
「一応持ってるけど――」
「あぁ、もう別れの時間か。ほとんど話できなかったね。だから、僕たちもケータイの番号とアドレスを交換しよう」
「そんなこと――できるの?」
世界の色が変わりはじめている。せっかく会えたのに、別れはあまりにも早い。
「できるさ。前世だろうが来世だろうが、僕らは同じ時間を生きている」
「ここはわたしの追憶の世界だよ? たとえわたしが君にメールを送ったところで、あっちの世界で返事が返ってくるはずなんて」
「ないとは限らない。何度も言うけど、僕らの十七年間はすべて同じ時間なんだから」
わたしは言葉を見つけることができなかった。
もし現実の世界で彼の携帯電話とやり取りできるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。彼は死んでいる。でも平行するそれぞれの時間の中で生きている。あちらの世界とわたしの世界を、携帯電話の電波が繋げてくれるのなら、わたしはきっとその日からエスカレーターガールを辞任するだろう。
しかしもし夢物語だとわかった時には。
絶望の到来を想像するのが怖い。どのくらい自分が打ちのめされるのか見当もつかない。自殺への道を、切り開いてしまうのだろうか。
色づいて崩壊を始める世界の中で、わたしたちは番号とアドレスを交換した。わたしのアドレスは初期設定のままの無秩序な文字列だったので、交換する前にそっとアドレスを変更したのだが、アマミヤくんのアドレスは初期設定のままだった。アドレス名を吟味している時間はなかったので、ただ単純に、一番最初に頭の中で弾けた想いをそのままアドレスにした。
――〝ikitai〟。
「すぐメールするから」
半透明になっていく彼にわたしは言った。
「待ってるよ。まだまだたくさん君の話を聞いてみたい」
彼は笑顔で手を振る。どんどん背景のカラーと同化していく彼の体を透かして、仲睦まじく手を繋ぐ若い男女の姿が見えようとしていた。
「また会えるよね?」
「会えるよ」
「アマミヤ君を独りにしていたくない。ふしぎ、君はもう死んでるはずなのに、君が独りでうずくまってる姿が嫌ってくらい目に浮かぶの」
彼はぴたりと手を振るのをやめた。
「僕も同じ気持ちだよ。お願いだから死なないで、小晴さん。生きて、小晴さん」
ドッ、と滝のように人工の光が落下してきて、うつろな彼の人影は一瞬にして押し潰された。千歳飴の売り場の手前で、はしゃぐ子供たちの笑顔に挟まれたわたしは、光ばっかり無限に散らばったなにもない世界に虚しく腕を伸ばしていた。
生きたい。生きていたい。
わたしは人波を掻き分け、エスカレーターを駆け上がった。むげんの人間たちを何人も追い越しながら、教えてもらったばかりの彼のアドレスにメールを打ち込んだ。
『生きたい。生きていたい』
すぐに返事は返ってきた。でもそれはアマミヤくんからの返事ではなく、宛先が存在しないことを知らせるサーバーからのメールだった。
やっぱり無理なんだ。夢物語だったんだ。もう死んでしまった前世と、アマミヤくんと、こんな小さな機械で言葉を交わすなんて。
膝から崩れ落ちるわたしのもとに、もう一通の〝別のメール〟が届いたのは、その直後だった。
代わりに他のわたしの前世たちがエスカレーターでわたしを待ち受けていた。
前世たちの多くは、アマミヤくんと同じようにわたしに興味を持ち、わたしの話を聞きたがった。けれど彼らはアマミヤくんと同じではなかった。なにが違うのかはわからない。ただ、彼らはエスカレーターに乗って流されるがまま流されていき、アマミヤくんだけがわたしの隣に留まってくれていたように思えた。誰もが独りで死んでいったと独白したが、わたしにはアマミヤくんだけが透明で孤独に見えた。なぜそう感じたのかは、わからない。ただ彼は、他の前世たちとは圧倒的に何かが違っていた。
アマミヤくんと再会できたのは、三日後の休日のことだった。
いつものように、ふと気づくと音や光や人の気配が消えていて、まばたきをすれば世界が灰色に落ちている。もう慣れたものだった。
「アマミヤくん」
この日、エスカレーターを昇った先のフロアでひらひら手を振っていたのはアマミヤくんで、彼の姿を目にした途端自分でも驚くくらい声が弾んだ。
「やあ。久しぶりだね」
「うん」
やはり老木のような姿のまま、別れた時と同じ微笑みを浮かべて彼はわたしを迎えてくれた。
ああ、よかった。これで独りじゃない。
会えてよかった、元気だった? なんて、そんなふつうの世界のふつうのやり取りが思わず口から出そうになる。
ほんとは、言ってみたい。言いたくてたまらない。言えばその声はきっともっと明るく弾み出す。けど、言った瞬間のことを想像すると、ゾッとした。どう足掻いても彼はもう死んでしまっているんだ。元気だった? なんて、逆にわたしの世界から彼を遠ざけてしまう言葉だ。ゾッとする。
「あれからどう? 君の前世たちには会ったかい?」
「うん。でも、まだわたしの来世は現れないよ」
わたしたちはこの前と同じようにエスカレーターに隣り合い、ゆるやかに上昇をはじめた。
「だからまだまだわたしは自殺しない」
宣言すると、彼はやっぱり曖昧な返事をする。
わたしが生きてしまうのを嘆いているわけじゃないのはわかってる。他の前世たちも決まって同じ顔をした。こちら側の世界を拠り所としてしまうわたしはどうしようもなく独りぽっちで、そんなわたしの隣にはいつも死が居座っていることを、憐れむような彼の瞳は教えてくれる。
彼が既に死んでいることはわたしにとって絶望なのだろうか? カラフルな世界では決して出会えないという事実は自ら死を選ぶほどの絶望なのだろうか? 自らを問いただしても、自らというやつは中々本音を吐き出してくれない。
「来世といえばね、変な話を聞いたよ」
わたしの来世の話をしても彼は表情を曇らせるだけだ。わたしはすかさず話題を変えた。
「昨日会った十一番目の生まれ変わり。乾くんていうんだけど」
「十一番目? もしかして、他の前世は僕と違って自分の順番を記憶してるの?」
「うん。まだ全員に会えたわけじゃないけど、会えた人はみんな覚えてた」
そう、と彼は少し不思議そうに首をひねった。
「それでね、その十一番目の乾くん、自殺する間際に自分の来世にメールを送ったんだって」
「まさか」
ありえないよ、と彼はかぶりを振った。
「でも、アマミヤくんだって生きてる時に強く頭に刻み込まれてた『午後の恐竜』をここでも覚えてた。死の直前のメールだって、記憶に焼き付いてても不思議じゃない」
「だとしても、来世にメールを送ったってどういうこと? 確かに僕たちは同じ時間の中で転生を繰り返してる。時間的なずれはないのかもしれない。けど、メールを送るなんて、どうやって――そもそも――一体どうして?」
「内容や理由まではどうしても思い出せないって。アマミヤくんが本の中身までは実物を見るまでは思い出せなかったのと同じ、だよ」
圧倒的な不幸を誰よりも明るくあっけらかんと語った乾くんが、そこで唯一渋い顔をしていたのを思い出す。彼は、十二番目の来世にそこまでして一体なにを伝えたかったのだろう。
「その乾って前世は、どんな人だった?」
「底抜けに明るいアスリートだよ。でも、誰よりもつらい人生を送ってきてる。聞いてるこっちがつらくなるくらいにさばさば話すの。大切な人が次々死んで、自分もどうしようもない病にかかって」
「病か。僕と同じだ。でも、彼は僕なんかよりよっぽど強そうだね」
「そんなことない。みんな同じだよ。みんな、死んじゃったんだから」
みんな同じか、と彼は溜め息を吐いた。
「あれから少し考えたんだ。もしかしたら、小晴さんは僕らとは違うんじゃないかって」
彼は降り立ったフロアで突然足を止めた。わたしたちは既にエスカレーターを一周し、最上階から地下一階へ戻ったところだった。
「未だに来世の君が現れないということは、もしかしたら――」
「どうかな。そう思いたいし、思ってるけど、ちょっと自信がなくなるときもある」
はじめてのわたしの弱気な言葉が意外だったのか、彼は少し目を丸くした。
「こういう流れも今までと同じ、ずっと繰り返してきたことかもしれないし。だってアマミヤくんにはこれまでの記憶なんてないんでしょ? このわたしの世界でしか君は生きてないんだ。これまでも同じように、わたしの前世たちはすぐには来世には出会わなかったのかも。ゆっくり前世たちとの時間を過ごして、ゆっくり死の光を取り込んでいって、最後の最後に来世に出くわしたのかも。君がそれを否定できない以上、いろんな可能性があるから」
「……それでも実際、いま現在、君は死のうとしていない」
「うん。もちろん。わたしは死なないよ。ただ、でもね、この前アマミヤくんが言ったとおり、わたしはこの世界でアマミヤくんと話をする時エスカレーターガールじゃなくなるんだよ。アマミヤくんに話を聞いてもらいたがってるわたしがいる。そういう時ね、なんだかね、……へんなきぶんになる」
さみしくなる。せつなくなる。胸が痛くなる。
あえて言葉にしなかった。
ここでしかアマミヤくんに出会えないことを嘆く自分に遭遇するのが怖かった。
想像の中で、その気持ちは、わたしの中で唯一自殺を連想させる。
「アマミヤくんはわたしが特別だって言うけど、この理不尽な輪廻転生の中でなにが当たり前でなにが特別かなんてわからないよ」
「でも君は特別でありたいんだ。君は死なない、そう思っていたいはずだ」
「……アマミヤくんも、そう思ってくれるの?」
誰もいないレジの方を向いたまま、彼は押し黙った。
「わたしが特別だと言うんなら、十一番目の乾くんの来世も、きっとなんだかおかしい」
「メールを送った相手のこと?」
「そう。わたし、この世界に十二番目の存在だけ感じないの。すごく不思議な感覚。まだ全員に会えたわけじゃないと思うし、そもそも何人いるのかもわからないけど、十二番目がいないってことだけ、わかった。乾くんと話して、彼の来世を考えようとした時に、はじめてそんな感覚があった。あれ、わたしまだ多分、彼の来世に会ったことないな、って。ううん、たぶん会うことはないなって。なんで、だろう」
彼は顔をしかめて悩ましそうに唸った。
「わからない。僕は感じない。僕には、自分が何番目なのかもわからない」
「わたしの一番近い前世だってことはお互い感じるのにね。でも、きっと乾くんたちからそう遠くない来世だよ、わたしたち。彼と話しててなんとなくそんな感じがしたの」
なんとなくとか、感覚とか、そんな曖昧なものばかりだ。でもそれはきっと仕方がない。ここは、わたしという曖昧な人間の世界なんだ。
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「……七五三か」
デパートの七五三フェアだった。六階の子供服コーナーで着物や袴を展示しているという広告の看板と、このフロアで販売している千歳飴の宣伝だった。
「そういえばそういう時期だね。ずっと病院にいた僕がちゃんと祝ってもらったかどうか微妙だけど」
「わたしは祝ってもらったな。女の子は三歳と七歳、男の子は三歳と五歳に祝って千歳飴を食べるんだよね」
「千歳飴か。長寿を祈って食べるんだっけか」
千歳飴が束になって吊るされている一角で、わたしたちは立ち止まってそれを眺めた。色鮮やかなはずの包装紙の本来の色が、どうしても思い出せない。
「甘かったなあ。千歳飴。七五三過ぎると、もう食べる機会ないんだよね」
「食べてみたら?」
「え?」
わたしは驚いて彼を見た。
「ここは君のデパートだ。好き放題したらいいよ」
「じゃあ、レジのお金全部盗む」
「はは。ほしくもないお金が、レジに入ってるかどうか疑問だけどね」
わたしの珍しい冗談に彼は笑って反応してくれた。なんだか嬉しくなって、わたしは勢いで千歳飴の包装紙を破り捨て、中に入っていた細長い飴細工に噛り付いた。
「……苦い」
当然わたしは、七歳のころに本当のお母さんから食べさせてもらった甘い甘い砂糖の味を想像したのである。しかし唾液を通して口全体に広がった味は、砂糖には程遠い砂利のような苦味だった。
「苦い? それ、千歳飴じゃないんじゃないか」
「いや……でもそういえば、昔食べた千歳飴もこんな味だった気がする」
もう一口、千歳飴にしゃぶりつく。
「そうだ、甘いっていうのはわたしの錯覚だ。当時は苦いって感じがよくわからなかったから、みんなも甘い甘い言うし、こういう味も甘いっていうんだって思い込んだんだ」
わたしの千歳飴は甘くなかった。そういえば、そう感じたのはわたしだけではなかった。
「乾くんも千歳飴が苦かったって言ってた。もう十一回も七五三繰り返してるからな、甘く感じなくて当然だよなって。その時は、千歳飴は甘くて当たり前なんだから乾くんの勘違いだって思ったけど、乾くんよりも多く七五三を迎えてるはずのわたしが千歳飴を甘く感じるわけないんだ」
「それならきっと僕も生きてる時は苦い千歳飴を食べたってことか。でも、どうして乾くんとそんな話になったんだい?」
「えっと――」
わたしはハッとした。その時はあまり気にすることはなかったが、彼はおかしなことを言っていたのだ。
「乾くんが来世にメールを送った話の続きで――、彼ね、来世と会ったときに千歳飴を食べさせてあげたらしいの。そしたら、甘い甘いって言いながらその人は千歳飴を舐めてたらしいの。その人がどんな人だったか、まったく思い出せないらしいけど」
千歳飴の包装紙を破ろうとしていた手を止めて、アマミヤくんは目を丸くした。
「君や乾くんが千歳飴を苦く感じているのに、確かに十二番目だけ甘く感じるのは変な話だね。……とはいえ、その甘みや苦みが本当に生きた順番に影響してるのか証拠はないけど……。それにしても、そんなことまで覚えてるのか、彼は。よほど死ぬ前に来世のことが気になったんだろうか?」
「そうなんだと思う。きっとどうしてもなにかが引っかかってて、メールまで送る必要があったんじゃないかな。どうしてかは――わからないけど」
口の中で舌を転がすと、飴細工のかけらが口内にほんのりとした苦味をいつまでも残した。
この苦みはなんなのだろう。甘いはずだった七五三までの人生は、これから苦くなっていくんだということを子供のときに思い知らせる苦みだろうか。十数回も七五三を繰り返して、どうせ十七歳で自殺するのに長寿を願われて、もう嫌だもう嫌だと泣き叫ぶ味なのだろうか。
なんだか目の中が熱くなる。少なくとも十回以上、わたしたちはこの苦みを味わってきたのかと思うと狂おしい。その時にその意味はわからなくとも、七五三の時にわたしたちの人生の味なんて決まってしまっているのだ。
一体どうして。
運命なんて納得できない。
最初から決められていたなんて、わたしは認めたくない。
千歳飴の思わぬ苦さで、わたしはこの時はじめて、強く、わたしたちに降りかかる宿命を呪った。
「メール、か」
しばらくの沈黙の後、アマミヤくんは千歳飴を店に戻しながら呟いた。
「それも、ありなのかもしれない。小晴さん、ケータイ持ってる?」
念のためにと、義理の母から一応携帯電話は持たされている。月に一度画面を開けばいい方だが、その時わたしは彼の言葉よりも彼が元の場所に戻した千歳飴の包装紙に鮮やかな色が戻りつつあることに目を奪われていた。
「一応持ってるけど――」
「あぁ、もう別れの時間か。ほとんど話できなかったね。だから、僕たちもケータイの番号とアドレスを交換しよう」
「そんなこと――できるの?」
世界の色が変わりはじめている。せっかく会えたのに、別れはあまりにも早い。
「できるさ。前世だろうが来世だろうが、僕らは同じ時間を生きている」
「ここはわたしの追憶の世界だよ? たとえわたしが君にメールを送ったところで、あっちの世界で返事が返ってくるはずなんて」
「ないとは限らない。何度も言うけど、僕らの十七年間はすべて同じ時間なんだから」
わたしは言葉を見つけることができなかった。
もし現実の世界で彼の携帯電話とやり取りできるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。彼は死んでいる。でも平行するそれぞれの時間の中で生きている。あちらの世界とわたしの世界を、携帯電話の電波が繋げてくれるのなら、わたしはきっとその日からエスカレーターガールを辞任するだろう。
しかしもし夢物語だとわかった時には。
絶望の到来を想像するのが怖い。どのくらい自分が打ちのめされるのか見当もつかない。自殺への道を、切り開いてしまうのだろうか。
色づいて崩壊を始める世界の中で、わたしたちは番号とアドレスを交換した。わたしのアドレスは初期設定のままの無秩序な文字列だったので、交換する前にそっとアドレスを変更したのだが、アマミヤくんのアドレスは初期設定のままだった。アドレス名を吟味している時間はなかったので、ただ単純に、一番最初に頭の中で弾けた想いをそのままアドレスにした。
――〝ikitai〟。
「すぐメールするから」
半透明になっていく彼にわたしは言った。
「待ってるよ。まだまだたくさん君の話を聞いてみたい」
彼は笑顔で手を振る。どんどん背景のカラーと同化していく彼の体を透かして、仲睦まじく手を繋ぐ若い男女の姿が見えようとしていた。
「また会えるよね?」
「会えるよ」
「アマミヤ君を独りにしていたくない。ふしぎ、君はもう死んでるはずなのに、君が独りでうずくまってる姿が嫌ってくらい目に浮かぶの」
彼はぴたりと手を振るのをやめた。
「僕も同じ気持ちだよ。お願いだから死なないで、小晴さん。生きて、小晴さん」
ドッ、と滝のように人工の光が落下してきて、うつろな彼の人影は一瞬にして押し潰された。千歳飴の売り場の手前で、はしゃぐ子供たちの笑顔に挟まれたわたしは、光ばっかり無限に散らばったなにもない世界に虚しく腕を伸ばしていた。
生きたい。生きていたい。
わたしは人波を掻き分け、エスカレーターを駆け上がった。むげんの人間たちを何人も追い越しながら、教えてもらったばかりの彼のアドレスにメールを打ち込んだ。
『生きたい。生きていたい』
すぐに返事は返ってきた。でもそれはアマミヤくんからの返事ではなく、宛先が存在しないことを知らせるサーバーからのメールだった。
やっぱり無理なんだ。夢物語だったんだ。もう死んでしまった前世と、アマミヤくんと、こんな小さな機械で言葉を交わすなんて。
膝から崩れ落ちるわたしのもとに、もう一通の〝別のメール〟が届いたのは、その直後だった。
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