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一章 アマミヤ

5 さようならのあと

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 激しい咳とともに、僕は帰還した。
 時刻は昼の一時で、僕は僕を縛り付けるあらゆる管を引き剥がし、立つことなんかできないからベッドから身を乗り出し上半身を窓の外に投げ出していた。咳き込んだ勢いで体を放り出そうと思ったのだが、あっちの世界の水流が水滴となってまだ眼球の表面に残っていて、まばたきをしたら、一瞬だけ視界が鮮明になった。クリアになった眼のレンズは、遠くの穏やかな日常をとらえた。
 とらえて、しまった。

「見える……!」

 その僕の声は意外なほどに打ち震えていて、なにより僕自身を動揺させた。涙があふれて止まらなかった。
 ひだまりの午後だ。
 横断歩道を渡る男子高生と女子高生。
 手をしっかり繋いだ二人は、セントエルモじゃない、穏やかな太陽の光の中を笑顔で歩く。
 青信号が点滅をはじめて、二人は少し慌てたように横断歩道を駆け抜ける。二人は無事に向こう岸へと渡った。男の唇が「それじゃあ」と動いた。女の子の唇も、「じゃあね」と動いた。二人は名残惜しそうに手を離した。離した手は、左右に別れていく二人の間で「ばいばい」の形になった。

「生きたいっ……!」

 なんて、しあわせそうなんだ。
 ばいばいなのに、しあわせそうだ。僕は知ってる。僕は知ってるのに。
 見舞いにくる両親とばいばいする時、穏やかなひだまりなんてかけらもなくて、冷たい病室の冷たくて黒い夜が降りてるんだ。僕は彼のようにひらひら手も振れないし、母は彼女のように綺麗な黒髪を耳の後ろに流す仕草もしない。
 彼はいつまでも彼女の背中を見送っている。彼女は時々それを期待しながら振り返る。僕は、密閉された鉄の扉を見つめている。

「生きたいから死ぬんだね?」

 振り向かなくても、声の正体はわかっていた。いや、振り向くことなどできてたまるか。もはや体も心も窓の外に飛び出したくてたまらない。

「わたしを、病室にまで呼ぶなんて」
「小晴さん」

 小晴さん。そう、僕が呼び寄せたに違いない。彼女は確かに言った。次に自分たちが出会う時、それは僕が死を選ぶ時だと。あっちの世界で彼女と「デート」をした時からわかっていたことだ。わかりすぎて、途方に暮れていた。ずっとあっちの世界に留まっていたかった。それが叶わないから、きっと僕は彼女をここにまで呼び寄せた。生きた人間じゃない、命じゃない、夢、幻想、あっちの世界のままの彼女を。

「わたしの船を壊すくらいに生きたいんだね、アマミヤくん」

 背中がざわざわする。光を、感じる。セントエルモの火だ。彼女はきっとあの世界で恐竜たちを包んでいたものと同じくらい強い光を携えている。

「デートは……あそこで終わりだったの?」
「え……?」
「……なんでもない」

 最後の最後に、なんてことを口走ってるんだ僕は。でも、もっと色んなところを小晴さんと一緒に行ってみたかった。小晴さんが最後に与えてくれたそんな希望も……もうこの世界では死にたい気持ちを加速させるものでしかない。

「……いろんな前世に出会った。みんな僕みたいに、いや僕以上に、信じられないくらいつらい思いの中自殺を覚悟して死んでった。優しい両親しか知らない僕には、親に虐待されつづけて自殺した六番目の覚悟が果てしない。兄弟のいない僕には、兄が世間を揺るがす殺人事件を起こしたことによってマスコミや世間にいたぶられ続けて自殺した四番目の覚悟が果てしない。人気者になるということを知らない僕には、狂ったストーカーにつきまとわれて自殺したモデルだった十番目の覚悟が果てしない。大切な人が死ぬことを知らない僕には、姉も弟も死んだのに頑張って生きようとして自殺した十一番目の覚悟が果てしない」
「そう。わたしたちには、前世の気持ちがわからないようにできてる。環境も、体も、性格も、みんな違う。前世と触れ合うことができるからってわたしたちには仲間ができるわけじゃないの。逆に、孤独を思い知る。今自分の身に起きてる、死にたくて生きたくて死にたい思いは、結局自分にしかわからない。わたしも、君も、他のみんなも、独りなの」
「だから僕たちはみんな、別々の船に乗ってるんだね。ずっと独りで抱え込んでる。そうだ、別に十二番目の船が見つからないことだってそれほど不思議なことじゃない。みんな抱えてるものが違うから、色々話してくれる人もいればほどんど話してくれない人もいた。会いたくない人だって、きっといる」
「そうだね。でも、来世は必ず会いにくる。最後に自分が知ることは、次に生まれ変わる自分自身の姿。そしてすべて忘れて生まれてきて、また死ぬ時に思い出す。君は小晴になってまた自殺への十七年間を繰り返す。……残念だけど」

 十七歳の姿で来世が現れた時点で、次の十七年間も悪夢だということを思い知らされる。ただでさえ希望を失っている自殺者をその運命は更に追い詰める。いつか、来るのだろうか。年老いたセントエルモの火が笑顔で僕たちを迎えに来る時は――。
 それを信じても信じなくても、独りである僕はとりあえず独りのままこの十七年間に幕を引くしかない。胸が痛んで、僕は激しい咳とともに吐血した。

「血だ……。うんざりする赤だよ。生き生きしてる。僕はまだ生きてるって証だ。どんだけ死にたくても、死んで骨だけになるまで血は赤いんだろうね。憎たらしいよ。まだまだ生きたいんだろうねこの体は」
「死にたがってる人なんて、この世界にはいないもの。君はまだまだ生きていられる」
「そうだね。たとえ僕の来世でも、結局小晴さんはいまは赤の他人だからそう言えるんだよね。僕の気持ちはわからない。僕の苦しみはわからない。転がり落ち続けて、ついにたどり着いたこの病室がどれだけの谷底なのかわかっちゃいない。あと、ほんの一歩、踏み出すだけで終わるんだよ」

 最後の力を振り絞って、僕は窓枠に脚を掛けた。このまま体重に任せて転がり落ちてしまいたかったのに、突然背中が燃えるように熱くなり、その熱で僕は病室に引っ張られた。

「……小晴さん?」

 背中の温もりは、セントエルモの火の熱だけではなかった。彼女の指先が、僕のパジャマの裾を強く握りしめていた。

「……死なないで」

 声を震わせて彼女はそう言った。

「君は、わたしなんかに生まれ変わりたいの?」
「……どういうつもり?」

 次に転生する人間のことなんて僕には考えられない。どうせすべて忘れてしまうことだ。僕は独りで、今この瞬間、死ぬほどつらいんだ。そう諭してきたのは小晴さんじゃないか。

「わたしは小晴なんかに生まれ変わりたくない」

 僕は思わず振り返ってしまった。涙で濡れた頬に、長い髪の毛がはりついた彼女は、まるで人が変わったようだった。
 ……いや、僕が最後にあの世界で見た小晴さんの表情と同じ、だ。

「アマミヤくんを、わたしなんかに生まれ変わらせたくない。わたしが自殺を決める理由を聞けば、きっと君は死にたくなくなる」

 ……なにを今更……そんな的外れなことを言い出すんだ。

「それは、何の関係もない。君が教えてくれたことじゃないか。君がここにいる以上僕の運命は変わらない。大体、最初に会った時に僕が訊いても君は自殺の理由を教えてくれなかった。意味がない、って。そのとおりじゃないか。僕が知ったところで意味はないんだ」
「あの時は……わたしに覚悟がなかっただけ」

 一呼吸置いて、彼女は次の言葉を告げた。

「わたしは、君に恋をした所為で死ぬの」

 僕はもう一度振り返った。嘘や、冗談を言っている顔ではない。

「わたしにはわたしなりの理由があってセントエルモの火と出会う。君と同じように前世のことを思い出して、いちばん最初に君に出会った。なにが起こるのかは、知らない。でもわたしは君に恋をしてしまう。過去の自分自身に。もう、死んじゃった人に」
「……どうしようもない」
「そう、どうしようもない。こんなどうしようもない恋はないよ。もう死んじゃった人、しかも自分自身の前世だなんて」
「ありえないよ。どうして僕を」

 ありえない。セントエルモの火と出会うから自殺するのではない。自殺の覚悟ができるから、セントエルモの火と出会ってしまうんだ。
 出会ったことが原因で、僕が原因で自殺するなんて、矛盾だ。

「……さっきのデートは……そういうつもりだったの?」

 訊ねると、小晴さんはうるんだ目を泳がせた。

「わからないの」
「わからないって……」
「わたしは、小晴であって小晴じゃない。ただのセントエルモの火。死を知らせるだけの黒い光。わたしには心なんて……ないはずなんだもの」

 心がない人間が涙を流すか。心がない人間がそんな切ない声を絞りだすか。
 君は本当に、ただの僕の来世なのか?
 第一、僕なんかに恋をするという目の前の女の子が信じられない。僕には乾くんのような明るい世界を生きた時間はわずかもない。死んで、前世となって小晴さんの前に現れたからって、彼女に恋心を芽生えさせるような存在になれるはずがない。

「死なないで……。君が苦しんで死ぬところなんて見たくない」

 小晴さんは僕のパジャマの裾をたぐり寄せながら、泣いて泣いて必死に僕を窓から遠ざけようとする。理解できなくて、まぶたがカッと熱くなる。

「わからない……! 君が言ったとおり、僕らは独りなんだ。たかが前世と想いが通じ合うなんてあるわけない。通じ合えたんなら自殺なんてするはずないんだ。君は今まで通り十七歳で自殺する。そうだろ?」
「そうだよ、独りなんだよ。なにがどうひっくりかえってもわたしの恋は君に結びつかない。君を好きになればなるほど、わたしは独りを思い知らされる。そうしてわたしは自殺するしかなくなった」
「……なんだよそれっ……! おかしいよ。どうしてそうなるんだよ。この前まで君は冷静にセントエルモの火として淡々と現れていたじゃないか。淡々と僕に、くつがえらない自殺の決定を告げていたじゃないか。君は、それだけの役目だろ? それがセントエルモの火だろ? なんで感情的になるんだ。さっきも君はおかしかった。自分の死に場所に僕を連れてくことに何の意味があったんだよ。僕に恋をするだなんて、ありえない」

 誰よりも感情的になっているのは、おそらく僕だった。動揺していた。別れ際に恋の話をした乾くんの顔が頭にちらついていた。彼は、自分の恋を諦めた。小晴さんも、自分の恋を諦めた?
 でも、だから死ぬって、なんなんだ。なんでたかが前世で、よりによって僕なんだ。尋ねても、彼女はわからないを繰り返す。彼女はここに生きている人間ではないからだ。彼女も自分の感情に戸惑っているというのか。

「少なくとも今君が僕に恋しているわけじゃない」

 髪をぐしゃぐしゃにかき乱して、僕はなんとか正気を保とうとした。

「だったらセントエルモの火が、感情的になって僕の自殺を引き止める理由はない。いいからその手を離してくれよ。僕を死なせて」
「ううん、君は死んじゃだめ。わたしは小晴になりたくない。君に叶わない恋をしてしまう人生を味わいたくない。君だってそうでしょ? アマミヤくんはまだまだ生きられるんだよ。生きて死ねばわたしに生まれ変わることもないんだよ。死に急いで、どうしてわたしなんかに生まれ変わりたいの?」
「知ったことじゃない! 君の人生なんか知るかよ! 僕は今、僕の人生だけを生きてるんだ!」

 僕は勢いに任せて彼女の腕を振り払った。

「わかった、ここまでがきっとセントエルモの火としての役目なんだね。君が生まれ変わりたくないというんなら、きっと僕だってそうだったろう。君と同じようにこの奇妙な命乞いを、僕の前世、十二番目の僕に対してしたんだろうね。だって、死ぬ理由がわかってるんだもの。つらいだろうなってことを生まれ変わる前からわかってるんだもの。そりゃあ、僕のことを救いたくもなるよ。死因は関係ない。僕のことを好きでも嫌いでも、君は土壇場で僕を引き止めようとしたはずだよ。自分のために」
「違う……。そうじゃないの。わたしは……」

 真っ白いドレスの裾をぎゅっと握りつぶし、彼女は悔しそうに俯いた。
 セントエルモの火は彼女の胸の中でより輝きを増している。彼女が泣こうが喚こうが、そこに光がある時点で僕の死は決定しているのだ。僕は、もう一度窓枠をまたいだ。
 どこまでも突き抜ける青空。くっきりと輪郭を持った風景。視力がなくても見えるものはある。人が動けば澄んだ空気に残像が残り、風が吹けば木々の葉が青空を滲ます。世界を貫くあの太陽は、誰にとってのセントエルモの火だろうか。

「……ごめんね」

 背後から聞こえてきたのは、萎々の植物みたいに掠れてしょぼくれた小晴さんの声だった。

「わたし、嘘ついた」

 横断歩道が青信号に変わる。僕は、止めていた息を吐き出した。

「そうでしょ、嘘でしょ。僕のことを好きになるだなんて、たちが悪いよ。結局君は生きたくないだけだ。僕は生きたいから死ぬのに、君は生きたくもないのに生まれ変わるんだ。まったく、残酷だよ。めちゃくちゃ死んでやりたいよ」
「ううん、そこは嘘じゃない。わたしは、確かに君のことを好きになるの。ごめんね、素直になればよかった。わたしが命乞いをすれば君も死にたくなくなるんじゃないかって思ったの。デートに誘ったのも、なんとかして時間を稼ぎたかったから。君を救う手段を見つけたかったから。でも、遠回りだったね」

 三度、僕は振り返った。彼女の放り投げたセントエルモの火が、目の前に迫っていた。僕は慌ててそれを受け取った。

「わたしはね、独りじゃなかったの。小晴に生まれ変わりたくないだなんて、嘘。わたしは今、どきどきしながら小晴として生まれる瞬間を待ち望んでる」

 彼女は僕の手に移ったセントエルモの火を見つめた。

「小晴は、素敵な自殺をするの」
「全然意味がわからない」
「輪廻転生は、わたしで最後ってことだよ」

 彼女は涙を流し続けている。僕はもう、考えることができない。

「きっと、そういうことなの。だからこそ、君には死んでほしくない。わたしに生まれ変わってほしくない。わたしにできたんなら、君にだって輪廻を終わらせることができるの! わたしなんか誕生させないで。君に恋しちゃう不幸でしあわせなわたしなんか誕生させないで。君で最後にして」
「無理だ! 僕は死ぬ。絶対死んでやる! どうせすべて忘れるんだ。なにも怖くないしつらくもない。ぜんぶ覚悟して、僕はアマミヤに恋する君に生まれ変わるしかないんだよ。僕は、独りなんだよ」
「いいえ、独りじゃない。なぜだかね、わたしはそれを知ってるの。窓の外を見て、アマミヤくん」

 なんになる。見たくもない、第一見えない、そんなものを見ようとして、なんになる。
 僕は僕の死を歓迎してくれない彼女を激しく睨んだ。すると、手の中のセントエルモの火がまばゆいほどに輝きだして、僕は目を逸らさざるをえなくなった。目をつむってもちっともまばゆさは衰えなくて、なぜか光を手離すこともできなかった。
 自然と僕の目は窓の外へと向かってしまった。

「見えるでしょ?」

 確かに、視力の悪い僕に見えるはずのない明瞭とした光景が、その窓枠の中に収まっていた。さっきと同じだ。網膜を流れる水流が、一時的に僕のレンズの精度を上げている。
 ――泣いているのか、僕は。

「あそこに、手を繋いだカップルがいる。見えるよね。大学生かな。男の人は茶髪で眼鏡を掛けてて、女の人は彼よりも短いボブカットの黒い髪。ショッピング中かな。大事そうに女の人が紙袋抱えてる。彼になにか買ってもらったのかな。今日は二人の記念日かな。しあわせそう」

 小晴さんは窓枠に跨ったままの僕の傍らに立ち、僕の肩に手を添えた。

「あ、違う。横断歩道の手前で二人は繋いだ手を離したよ。そうか、大学の昼休みだよきっと。きっと二人はそれぞれ違う大学に行ってるんだ。でも二人は交際してる。昼休みとか、空いた時間を利用して束の間のデートを楽しんでいるんだね。ほら見て、二人がそこでばいばいするよ。さよならだよ。二人は別れて、また独りになるんだ」

 そうだ、独りになるんだ。さっき別れていった高校生のカップルも、それぞれが独りになっていった。
 ……独り? なら、どうしてさっき僕は、あの二人をしあわせそうだと感じたんだ?

「男の人が手を振る。女の人もばいばいする。笑ってる。微笑んでる。彼に手を振りながら、永遠に彼の方を向きながら歩けたらいいのにとか思いながら、あぁそろそろ前を向かなきゃって、彼女手を降ろすのと同時に前に向かって歩きだした。見て、彼女の微笑みが消えた。でも、わかるよね。まだ彼が見送ってくれていることを知ってるんだよ。背中に感じてるんだよ。ポケットから携帯電話を取り出した。時間を確認してる。ちょっと早歩きになった。きっと講義の時間までギリギリなんだね。やばいなって思いながら、でもこうなるに至った理由は彼といた時間があったからだから、ほらね、また笑顔になって電話をしまうの」

 砂漠に風が吹くみたいに僕の頭の中は真っ白に野ざらしになっていく。からっからになって、男の人の方を見る。

「彼女が前を向いて歩きだしてしまってからも、彼は道の真ん中に立ち尽くしたまま彼女を見送ってる。彼も微笑むのをやめた。でも、ほら、ショルダーバッグを背負い直したよ。ポケットに手を突っ込んだよ。ずっと彼女と手を繋いでたからバッグを背負い直すことができなかったんだね。手のひらは、汗で滲んでたのかな。彼女と別れて、今独りになったから、できること。彼女といなかったら生まれることのない仕草」

 もうわかっている。小晴さんの言いたいことは。僕に伝えたいことは。それでも僕は思考をどこか遠くに、でも見えるところに、つまりきっとこのセントエルモの火の中に置いたまま、ゆっくりその場を去っていく彼を見送る。

「別れても独りじゃない。そこに漂う、残り香みたいなものが、いつまでもそこにあるんだよ。人と人とが別れたあとの、仕草。そこに宿ってるの。さりげない仕草に意識はなくても、別れた人とさっきまで繋がっていたカケラが必ずそこにあるの。別れても、別れてない。忘れても、忘れてない。独りでも、独りじゃない。小さな小さな、細胞みたいな繋がり。でもなにより優しくて深い。わたしね、それこそセントエルモの火の正体なんじゃないかなって、そう思うんだ」

 小晴さんの横顔は、僕の火に照らされて煌々とゆらめいている。僕は何度も景色と彼女とを交互に見比べた。不思議と、僕の心臓の鼓動は、とくりとくりと穏やかになっていく。

「人と人が別れていく時の、そのあとの、仕草……。そうだね、僕も、気づいてた。僕らが独りでいる時なんてきっとないんだ。こうして僕がここから飛び降りようとしている仕草でさえ――、きっと誰かの影響を受けていて、独りじゃないことを証明しちゃってる。でも、それに気づいていても君は自殺するんだ」
「そうだね。好きな人と結ばれることのない絶望を思い知ってる、でも君と一緒にいられる幸福も想い知ってる。きっとわたしは君とばいばいしたかったんだよ。どうせ結ばれないんだっていう自暴自棄の自殺じゃない。ばいばい、したかった。しあわせだったと思うよ」
「不思議だ。君はどうしてそんなに感情的なんだろう。本当に、人みたいだ。未来からそのままやってきたみたいだ」

 淡く微笑むだけで、彼女はなにも答えなかった。

「でも、わかったよ。僕の来世はしあわせなんだね。僕は僕に恋をして、孤独を拒むことができるんだ」
「うん」
「なら君は、本当はさっき言ったことと逆の気持ちなんだろ? 君は小晴さんに生まれ変わりたいはずだ。どきどきしてるって、言ったよね。僕に死んでほしくないだなんて嘘だ。君は僕にさっさと自殺してほしいはずだ。どうせ無駄なのに、どうして僕を引き止めるんだよ」
「無駄じゃない。嘘じゃない。君は生きることができる」

 彼女は、僕のセントエルモの火にそっと手を重ねた。力強い瞳がそこにあった。

「何度も言わせないで。わたしは君のことを好きになってしまうの。つまりね、きっとね、未来のわたしは君を簡単に自殺させてしまったことを死ぬほど後悔するんだよ。お願いだから死なないで。わたしなんかを誕生させないで。君で最後にして!」
「わたしなんか、じゃない! 決して、ない! 君は生きたがってるんだ。今死のうとしてる僕と同じくらいに! 生きたいんでしょ。この世界に生まれたいんでしょ。あの人たちみたいにばいばいしながらしあわせな仕草をしたいんでしょ。僕が死ねばいい。どうせもう長くない!」
「死のうとしてる君と同じくらい生きたい? そう、なら――君にはわたしの気持ちがわかってる! だったら――」

 僕の両肩を突き飛ばすようにして、小晴さんは僕に掴みかかった。実際僕の体は一瞬窓の外に投げ出されたが、彼女が僕を抱き寄せるのも一瞬で、ただ、抱き締めるのだけが、とてもゆっくりで危うげだった。

「君にだけ、平等に選ぶことができる。君のまま生きるか、それともわたしになるか」

 抱き締められるのなんて、いつ以来だろう。僕と小晴さんに抱きしめられて、セントエルモの火はますますあたたかくなってきている。
 小晴さんの言うとおりかもしれない。今まさに僕は、窓枠にいる。生と死の境目にいる。
 生きても死んでも必ず何らかの別れが生じる。小晴さんにとっての、アマミヤとの別れか。僕にとっての、小晴さんとの別れか。そしてどちらを選んでもどちらも孤独にはならない。僕がここを飛び降りる時、僕が彼女にすがりつく時、そのどちらも、そこでささやかに紡がれる仕草は僕らだけのもの。

「わたしは君に生きてほしい。でも、選ぶのは君だから。わたしはただの、さりげないセントエルモの火」

 今僕の体を支えているものは、僕を包む彼女の両腕だけ。僕が彼女を突き飛ばせばその反動で僕の体は宙に投げ出され、逆に彼女を抱きしめれば僕の命は助かる。しかし、代わりに小晴さんが存在しなくなる。自殺をしなかったために僕の来世は消える。
 もしかしたら、今までもこんなようなことが繰り返されてきたんじゃないのか。土壇場でセントエルモの火が現れて、こうして揺さぶって。揺さぶりに応じることなく死に続けた結果が今の僕なんじゃないのか。
 これもまた、彼女の言うとおりだ。
 セントエルモの火の正体は、確かに〝繋がり〟というものの細胞のようなものなんだ。自殺者が最後に見たいものなんて、きっとそれしかない。
 僕は、覚悟を決めた。

「……僕の好きな本に、こんな話があるんだ」

 ぬくもりから顔を離し、僕は涙まみれの彼女の表情を見上げた。

「地球が走馬灯を見る話。この星が最後を迎える時にね、地球も人と同じように走馬灯を見るんだ」
「アマミヤくん?」
「原始時代から始まって、街中に恐竜が現れる。君とのデートで見たあの光景だよ。最後に地球がこの星の歴史を思い返してるんだ。素敵な話だなって思った。走馬灯か、僕も死ぬ時に見るのかなぁって、ぼんやり思ったよ。……ああ、なにも見えない」

 彼女の叫び声は、ほんの一瞬だけしか聞こえなかった。
 僕は彼女の体を押しやり、その反動で高さ六階の窓から身を放り投げた。
 背中にグンと重力がのしかかり、体が真っ逆さまに落下していく。狭かった青空が羽ばたいていくかのように全世界に広がっていく。
 今か今かと、僕は死の衝撃を待つ。
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