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一章 アマミヤ
1 十三回目の少年
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僕には、この病室で過ごす二十四時間とは違う、別世界で時を刻む二十四時間がある。それは僕が病気であることとか、はたまた病状にうなされて見る悪夢とは、関係のないことだ。僕の中に確かなものとしてその「時間」は存在する。
はじめは特別なことだとは思わなかった。物心ついたころから、起きているとも寝ているともつかない、五感だけが現実を飛び出してふわふわゆらゆら漂う時間が毎日必ずあった。
夢と、現実の、狭間を行くような。
誰かに脈を計られながら、頭だけ麻酔がかかっているような。
なんともいえない感覚だった。
その感覚に陥る時間が、ちょうど一日と同じ二十四時間だと気づけるほどに自意識が成長したころには、どうやら僕の病気はもう手遅れだった。他のみんなの中には別世界の二十四時間など存在しないのが普通で、僕が特別なんだと気づいたのは、別の病室に隔離される直前だった。
「え? 夢のことじゃあなくて?」
「うん……え? 君は……そういうのないの? 意識はすごくハッキリしてて、ちゃんと全部覚えてて、行く場所は毎回同じで……」
「……知らないよ、そんなの……」
「……僕だけ……なの……?」
「…………アマミヤくん、一度先生にもっとちゃんと診てもらった方が……」
相部屋となった同い年の患者と話して、はじめて別世界の存在が異常だということを知った。知った途端に僕は病室を移され、身体中に巻きつく管の数が倍になり、そしてその部屋に流れる二十四時間は僕を独りに至らしめる二十四時間となった。もう僕に会いにくる人間は、医者と看護師と、それから宇宙服みたいな無菌服を頑丈に纏った両親だけになった。
別に、劇的な変化があったわけじゃない。僕が病気に苦しんでいるこの二十四時間は苦しくて淋しいと思うだけの平坦な二十四時間だ。まだ誰かが隣にいた病室でも、僕以外はいないこの病室でも、僕の命を見舞う人間なんて医者と両親しかいない。
幼いころからずーっと病院で暮らしていたんだ。世間でいう、友達とか、そういうの、僕は知らない。知らないからそういうののありがたみもわからない。ただ、最近視力も落ちてきている僕にとって、肉厚な防護服越しにしか見れない両親の顔はもう判別できないほどにぼやけていて、それだけがつらかった。
――どうせもうすぐ僕は死ぬんだ。
やけくそじゃあない。
諦めだ。なんとなく、僕には自分の命の期限がわかるんだ。僕だけが知るあの「別世界」となにか関係があったりするのかもしれない。
そろそろ別世界に行く時間だなと思い始めたその時、枕元に置いてある携帯電話が震え出した。学校を知らない僕にメールや電話をやり取りする相手なんていないはずなのに、この病室に移動する際に精一杯の笑顔で「なにかほしいものはない?」と尋ねてきた母に僕は、この携帯電話を希望した。今更携帯電話の電波くらいで余命に影響を与えることもないだろうと、主治医もそれを許可してくれた。
おかしなことをしたな。どうせ母と父以外からは、迷惑メールくらいしか届かないのに。
「やっぱりね」
テープで口に貼り付けられたチューブに、僕は溜め息を吹き込んだ。開いたディスプレイには、思ったとおり見たこともない宛先からのチェーンメールが表示されていた。迷惑メールというものを知らなかった当初は、誰かが僕に繋がりを求めてるんだと、柄にもなく舞い上がってしまった。すぐに真相を知って、可笑しさに似た落胆を味わったっけ。
少しでも僕に安静にしていてほしいためか、最近はめっきり両親もメールをよこさなくなった。別に死期が早まることは問題でもなんでもないが、迷惑メールが来る度にこうして重い体をひねるのは確かに億劫だし癪だ。
――もう壊してしまおうか。こんなケータイ。
いや、それでおかあさんに変な心配させるのも、よくないか。
電源を切ってしまえばいいと思ったが、なんとなく興味本位で、メールアドレスを変えてみることにした。初期設定のままの無意味な文字列でしかないアドレスを眺めていたら、この文字列を有意義なものに変えてみたくなったのだ。
アドレスを変更して電話を枕元に戻そうとした途端、間髪を入れずに着信があった。まさかもう迷惑メールが来たのかと、単純なアドレスにしてしまったことに後悔しながらディスプレイを開いた。が、届いたメールは、今まで僕が受け取ってきたものとは何やら様子が違っていた。
『アマミヤを想い続けろ。お前は正しい。間違っちゃいない。感情だけは、誰にも否定されちゃいけないものだ。負けるな、過去にも、未来にも』
宛先が見知らぬアドレスなのは迷惑メールと同じだ。しかし決定的にこれまでと違っているのは、名指しで僕の名前を呼ばれていることだ。アドレスを変える以前も迷惑メールらしからぬ意図不明の内容のものが届くことはあったが、名指しで呼ばれたことはなかった。
アマミヤは僕の姓だ。だからきっと間違いメールの類じゃない。僕や僕の家族に関係のあるメールであることは確かだ。しかし僕自身に宛てたものではないだろう。僕に宛てたメールなら、「アマミヤを想い続けろ」なんて冗談でも笑えない話だ。
不気味な文章だ。わけがわからない。
大体僕宛てのメールだとしても、アドレスを変えた瞬間に届くってどういうことだ? 僕がアドレスを変えることを誰かが知っていたってこと? どうやって? 封印されたみたいなこの部屋から出ることができない僕のことを誰かが知っていると?
たとえそうだとしても、僕にはベッドを起き上がってそれを確かめる気力も体力もないわけだけど。
そう、考える力も、動く力も、今の僕にはなかった。これも迷惑メールの一種だと片付けて思考を放棄してしまうことが唯一僕にできることだ。
もうどうでもいいんだ。この世界の謎やら、未来やら、ぜんぶどうでもいい。どうせ僕はあと数ヶ月以内には死ぬ。余命は聞かされていない、けれど、自分の命の賞味期限くらい毎日味わってる僕にはわかりすぎるほどわかってる。もうまともな味なんかしないのだ。この先どんどん病は悪化して、二十四時間を繰り返す度に染み出る命の味は腐敗していく一方だ。そんな命ならば、このまま野ざらしに放っておくよりも、いっそ――
どうやら、僕の意識は別世界へと旅立とうとしているようだった。眠たいわけではない。意識ははっきりとしている。毎日、決まった時間ではないが、トイレにでも行きたくなるみたいに不意に、そして徐々に、意識の遠ざかりを感じる。まさに排泄と同じように、それは一日に何度も訪れる。こことは違う「別の二十四時間」を向こうの世界で過ごすために。
携帯電話を握りしめたまま、僕は僕から遠のいていく意識に手を振って見送った。
それは、航海そのものだった。
僕が病に蝕まれていないこちら側の世界には、海しか存在しない。風も波もない、どこまでも黒々と広がるカーペットのようなたいらな海だ。黒々、とはいえ夜という時間が流れているわけではない。ここで過ごす二十四時間で時間の流れが空模様に影響することは決してない。朝も昼もないのだから、この黒い空も海もきっと「夜」という類のものではなく、この世界独特の空模様なんだろう。
この世界に着いて僕は気がつくと小さな帆船の中にいて、当てもなく海を漂流している。空は黒く、海も黒く、月も星もなく、水平線の境も判別できない。この船は何らかのエネルギーを受けて進んでいるのか、それともその場に漂っているだけなのか、それすらわからない。それでも僕は、病と余命にきつく締め付けられるだけのあっちの世界を後にした解放感で、いつだって気持ちは穏やかになる。
暑くもないし寒くもないし、心臓はとくりとくりと落ち着いたリズムだ。
そう、僕はこっちの世界では健康そのもの。といっても健康だった時代を知らないからどういう身体状況が「健康」っていうのかよくわからないけど、立つことも座ることも呼吸することも苦しくないこの身体は、きっと健康と名のつくもののはずだ。
全身は真綿のように軽く、自分の存在すらおぼろげになっていくようで心地いい。
僕はあっちの世界で、いつのまにか喋り方や呼吸の仕方を身につけていた。それが生きていく術だと、誰に言われるでもなく知っていたからだ。それと同じように、こうやって何もせずゆらめていることだけがここで生きていく術だと僕は知っている。
ゆらめくという名の航海をしばらく続けていると、僕と同じような、ゆらめいているだけの帆船がいくつも左右を流れていく。流れていっているのか、それとも僕の船が追い越しているのか、見比べる風景がないからその判断はできないけれど、帆船の数は多くても必ず最大で十一艘と決まっている。一艘もすれ違わない日もあれば、十一艘すべてとすれ違う日もある。今日は一度に十一艘の船が流れてきたので、思わず目を見張った。
どれも無人である。未だこの世界で僕は、僕以外の生き物を見たことがない。この世界は僕だけの世界で僕以外の生き物はいないというのが、十七年間で僕が出した結論だ。
でも、この十一艘の無人の帆船は。
この船たちは、僕以外の十一人が僕とは違う次元で「こっちの世界」にやってきている証拠なんじゃないか。僕と同じように誰かが船に乗ってるんなら。僕以外にもこの世界の住人がいるんだと、きっと僕と同じようにあっちの世界では命を蝕まれているに違いないんだと、そんなふうに考えることもあった。
それにしても、今日はなんだか様子がおかしい。船がぜんぶまとめて同時に流れていくなんて。
こんなことは今までなかった。今までにないことが起こると、あっちの世界では病室を移されたり管や薬を増やされたりする。
――こっちの世界ではどうなるんだ。
初めて感じる鼓動の荒ぶりにうろたえていた、その時だった。
突然、十二艘目の船が目の前に現れた。僕が突然だと思ったのは、さきほどまで十一艘の船たちに目を奪われていたので気づかなかっただけかもしれないが、なんだか僕が気づいた途端世界の空気が変わったような気がした。
初めて見る十二艘目の帆船は、明らかに十一艘目までの帆船とは様子が違っていた。傍を流れるだけだった船たちとは違い、その船の船首は真っ直ぐ僕の船に向かい、流れてくるなどという生ぬるいものではなく確実にこちらを目指して近づいてきている。そしてなにより僕を不安にさせたのは、マストの先端で青白く輝いている光の点滅だ。
なにかの本で読んだことがある。昔、航海の際に突然マストの先端が青白く輝き出すことがあり、船乗りの間で凶兆とされたという話。その光に見舞われた船は必ず嵐に遭い、凶兆を信じなかったために帰らぬ人となった船乗りも少なくなかったという。
畏敬を込めて、その光は船乗りたちからこう呼ばれた。確か――、そう、『セントエルモの火』と。
「はじめまして」
船首同士がぴたりとくっつくのと同時に、操舵室から一人の女の子が姿を現した。
長い髪をまっすぐに流した、同い年くらいの女の子。彼女が胸の前に添えた左手の中にも、船のマスト先端の不吉な光と同じ、セントエルモの火があわく輝いていた。
「とうとうわたしに出会っちゃったね、アマミヤくん」
呆気にとられて声も出ない僕の船に、彼女は無許可で入り込んできた。
彼女の抱えた白い光がまたたいて、一瞬目が眩む。しかし次の瞬間には僕の瞳は光を受け入れたかのようにそれをまばゆいと感覚しなくなり、この世界に存在する唯一の光源を気持ちよく吸収していった。
「きみはだれ?」
光に吸い込まれそうな錯覚に陥り、僕は後ずさった。彼女は近づいてこようとはしてこなかった。
「わたしの名前は小晴。ごめんね、光、まぶしいよね」
彼女は手の中の光を撫でながら申し訳無さそうに微笑んだ。彼女の羽織った、見たこともない白装束は、光の中で青白く点滅していて余計に神秘的に見えた。
彼女は、よく見なくともとても整った可愛らしい顔立ちだった。白く、細く、薄っぺらく、透明の絵の具で輪郭を描いたかのようになんだか儚い。現実世界ではほとんど接したことのない同年代の女の子の姿に、まぶしさとは関係なく僕は目を細めた。
「……だいじょうぶ。そんなにまぶしくない。でも光なんて……はじめて見た」
「うん。そうだよね。そういえば、わたしの時もまぶしいのは一瞬だけだった。これはそういう光なの。ぎらっと光って、あなたに不吉なことを知らせて、染み込んでいく光」
「不吉なこと……? まさか、ほんとにセントエルモの火」
「そう、君はこの光をそう呼んだ。この光を見たら、自殺の前触れ。ごめんね、アマミヤくん。君はもうすぐ自殺するんだ。あっちの世界で。本当の世界で」
彼女はずっと同じ調子で微笑み続けていた。その微笑みを見ていたら、不思議と僕は、彼女と話さなければならない予感がした。
「きみはだれ?」
僕は質問を繰り返した。今度は名前ではなく、彼女の存在を問うたつもりだった。
「もう一回名乗るね。わたしの名前は小晴。セントエルモの火を見たからには、今から少しずつ思い出していくだろうけど、わたしは君の生まれ変わりなの」
困ったことに、彼女がなにを言っているのか全くわからない。
「……ここは、どこなの?」
十年以上漂い続けていたというのに、この世界の存在について疑問を口にするのは初めてのことだった。そもそも言の葉というものがこの世界に存在するのを、僕は今日初めて知った。
「ここは、君だけの世界」
僕の世界に初めて吹く風が、ばたばたと帆をなびかせる。
「ここは、きみたち――わたしたちの墓場。君はこれまで十二回死んできた。そしてまた十二回生まれてきた。君は、アマミヤくんは、十三回目の君。君は十二回輪廻転生を繰り返しているの。そして今、十三回目の死を迎えようとしてる。徐々に思い出すと思うけど、今までと同じなんだ。十二回繰り返した君の死因は、ぜんぶ自殺」
理解できない、なに言ってるんだこの人、そう思うと同時、なぜか「そうなんだ」という妙な納得が先駆ける。小晴さんの言うとおり、どうやら僕はセントエルモの火に包まれて少しずつこの世界の意味を思い出そうとしているらしかった。
……この場合の「思い出す」って? どういうことなんだろうか。僕は僕が思っているよりこの世界のことを知っているのか……?
「……じゃあ、あの無人の船たちは……」
「十二人の君だよ」
「十二人の僕……?」
「そう。みんな自殺を遂げて命を終わらせてきた、君の前世たち。死んだはずなのにこの世界に残り続けてる。輪廻っていう、どこまでも海が続く世界を、ずっとずっと漂ってる。みんな君が話しかけてきてくれるのを待ってるの」
「でも、誰もいないんだよ。船には。話しかけようがないよ」
「ううん、いるよ。姿が見えないのは、これまで君がなにも思い出していなかったから。自殺への道に踏み込んでいなかったから。わたしに出会って、セントエルモの火を受けた君は、もう既に自殺へ片足を踏み入れてる。そうだよね? 君は、あっちの世界で、自ら命を絶つ覚悟ができたんだよね?」
微笑んだまま、小晴さんは僕を覗き込む。荒ぶるように突風が吹いて、マスト先端のセントエルモの火がバチバチと弾けた。僕の気持ちと共鳴して揺れる船と光は、確かにここが僕の世界だと証明している。
……死ぬ覚悟なんて、とうの昔にできていたように思う。物心ついた時から死と隣り合わせだった僕にとって死なんてものはそんな特別なものじゃないんだ。近いうちに、いずれやってくるもの。でも達観してたわけでも死ぬことが怖くなかったわけでもない。そんなわけない。痛くて、苦しいんだ。怖くないはずがない。
十五歳の時に不治の病だと告知されて、僕と手を繋ぐ「死」の姿がはじめて目に見えた。意識するようになったら、意識するだけ逆に死というものは遠ざかっていった。死を意識するっていうのは、死にたくないって思うことと同じだったから。
「僕は、あっちの世界でがむしゃらに死を遠ざけてきた。死ぬなんて絶対に嫌だ。でも……なんでだろう。最近……すごく疲れたんだ。もう嫌なんだ。なにも考えたくないんだ。ずっとずっとこっちの世界で生きていたいんだよ。こっちにいる限り僕はなにも苦しくない。もちろんなにも楽しいこともないけど、楽しいことなんて僕は別に望んじゃいない。あの苦しみから解放されればそれでいいんだ。たった二十四時間ぽっちなんて嫌だ。あっちの世界の命なんて終わらせて、ずっとこっちの世界で漂っていたい」
「そう。それがね、覚悟。自殺の覚悟。君は、君たちは、なぜだかどうしても繰り返す自殺の運命から逃れられない。君は病死するのかなって、もしかしたらって思ってたけど、やっぱり違ったね。君はこっちの世界で死を引き寄せつづけた。セントエルモの火を引き寄せるのは、いつだって自分自身なの」
「僕が、君を引き寄せた? 君って、一体」
「わたしは、十四回目の君だよ。君が自殺して次に生まれ変わるのは、目の前にいる、このわたしなの」
小晴さんの瞳は湖面のように静かにきらめている。放たれる不思議な強さと美しさに思わず息を呑む。
「未来の、僕ってこと?」
「うん。次に転生する人間が、今の君に輪廻転生を思い出させる。こうやってセントエルモの火を掲げながら。それをわたしたちは繰り返してきたんだよ。アマミヤくんだって、今はぜんぶ忘れちゃってるけど、今のわたしと同じことを過去の自分にしたことがあるんだよ」
「……ごめん、全然意味がわからない。これ、今日は僕あっちの世界でこっちの世界の夢を見てるだけなんじゃないのかな」
こんなふうに、綺麗な女の子と話してるっていうのも、もしかしたら僕が無意識に夢見ていた幻想で。
「君は……あっちの世界で友達すらいない僕が作り出した幻想なんじゃないの? だったら、やめてほしい。こんな残酷な夢は見たくない」
「夢じゃない。すごくわかりやすい、理屈っぽくて皮肉な現実なんだよこの世界は」
風はどんどん強まり、ほとんど暴風になっている。僕は吹き飛ばされないように自分の体にぐっと力を入れた。
「セントエルモの火を見ること自体は、そんな特別なことじゃないの。いい? アマミヤくん。まずは、自殺っていう行為についてよく考えてみて」
暴風にあおられて小晴さんの長い髪が暴れている。けれど、細い髪の隙間からまっすぐこちらを見据える深々とした瞳を見つけると、自然と風は収まり、海は再び凪いでいった。
「アマミヤくんは、どうして死にたいの?」
……決まってるじゃないか。あっちの世界でもがき苦しみ続けることに、もう耐えられないって、ここにいる僕が言うからだ。
「……死にたいから」
「違うよ。生きたいから、でしょう」
その瞬間、風は完全に止んだ。
「自殺する人はみんな、生きたいから死ぬの。どうしても生きられなくて、死ぬしかなくなっちゃうだけなの。死にたがってる人はね、誰よりも生きたがってるんだよ」
背後に強い気配を感じて、僕は振り返った。先ほど通り過ぎていった帆船たちが、綺麗に並列し、遠くから無言で僕を見つめていた。
――ああ、僕はもう、どうやら思い出しかけている。沈黙の船たちの、生きたくて生きたくて仕方なかったのに自殺を繰り返してしまった、痛々しい表情を。
「自殺する人は、死に片足を踏み入れた時、セントエルモの火と遭遇する。今のアマミヤくんと同じように、光を抱えた生まれ変わりの自分と出逢う。そこで出逢う自分自身はね、寿命を迎える年齢で現れるの。老衰で人生を全うするんならよぼよぼの老人が現れるし、不幸な事故で死ぬのなら小学生の姿でも現れて、生きたいと願う自殺者を転生という形で救うの。セントエルモの火が現れる時点で、もう自殺を覆すことはできない。誰かがどこかで決めた運命ってやつで、自殺者は自殺を遂げ、すべてを忘れて次の人生をやり直す」
小晴さんは遠い目をした。きっと、僕の背後の過去の帆船たちを見つめている。
「もう、わかるよね。転生は一度きりとは限らない。たとえ転生しても、もしその人生の死因も自殺だったら、またセントエルモの火に遭遇することになる。生まれ変わりの自分と出逢う。わかるよね。それを十二回繰り返しているのが君なの」
僕は発作的に頭を抱えた。
頭の中にいる、背後にいる、非業の死を遂げた僕たちの顔がぼんやりと浮かびはじめていた。
男もいれば、女もいる。帆に風を受けて、波に乗って、ゆらゆらとゆらゆらと、僕の背後に迫ってくる。頭の奥の奥をズンと抉られるようなこの震動は、あっちの世界での病的な発作とはまるで種類の違うものだった。
――彼らが……僕の前世。
僕が生まれる以前、死んでいった僕の前世たち。
明瞭とした記憶が蘇ってくる気配はない。それは当たり前のことかもしれない。前世だろうが、生まれ変わりだろうが、僕の脳みそは僕の脳みそ以外のなにものでもないんだ。ただ……この世界が、ここに漂う二十四時間が、無意識的にでも前世の自分たちと触れ合っていた二十四時間だったならば、僕の体にはきっと十分すぎるほどその匂いが染み付いている。
「疑問に思ったことなんて、なかった。毎日この世界で過ごす二十四時間も最初は特別なことだと思わなかったし、異常なことだってわかってからも、なんだかすごく僕にとっては当たり前のもので、不思議に感じることなんてなかった」
小晴さんは頷いた。
「この世界に旅立つことは、ふつうの人間にとっての追憶と君には同じことなの。トイレにでも行くみたいにね、人は、定期的にふと過去を思い出すの。過去の二十四時間を頭の中で一瞬で再生するの。君の場合は――わたしたちの場合は、前世があまりにも多すぎて、二十四時間を一瞬で再生できないだけ。ひとつひとつが、この黒い海みたいに広大で濃厚で終わりが見えないの。ここは確かに君の頭の中の世界。でも、君の知らない人生がいっぱい詰まってる」
物憂げに瞼を伏せる小晴さんを見て、僕はハッとした。
「あの、来世の自分は寿命を迎える年齢で自殺者のところへ現れるってさっき言ったよね? もしかして、君」
表情はおぼろげに霞ませたまま、小晴さんは微笑んだ。
「そうだよ。わたしは君と同じ、十七歳で死ぬ。死因は自殺。今までのわたしたちはみんな、同じように十七歳で自殺してきたの」
そんなこと言われても、それだけはピンと来なかった。
ここが追憶の世界で、十二人の前世が存在する世界なんだという衝撃は衝撃として受け止めたが、来世の自分が存在するという理由にはなってない。セントエルモの火を掲げて、前世の自分に自殺する運命を教えにくるだなんて、余計なお世話なんじゃないのか。
「君は、未来から来たの?」
尋ねると、小晴さんは複雑そうな顔をした。
「君にとっての未来であることは間違いないよ。でも、時間の流れでいう未来から来たわけじゃ、決してない。わたしたちはずっと同じ十七年間を繰り返してるの。君の過ごした十七年間もわたしが過ごした十七年間も同じ時代。もちろんセントエルモの火を見るまでは繰り返していることには一切気がつかなくて、来世の自分からすべてを聞いてはじめてすべてを受け入れる。わたしも、君も、ずっと前の君の前世たちも、みんな同じ時間の中にいるの。だからわたしは君の記憶の中に存在できる」
「まさか、じゃあ自殺者は、セントエルモの火を見た人たちは、一人残らず過去にタイムスリップして人生をやり直してるってこと? そんな――よくわからないけど、時間がめちゃくちゃになるじゃないか――」
「そんなことないよ。よく考えて。そもそもね、生命が自ら命を絶つなんて行為自体、絶対あってはならないイレギュラーなことなの。誰に言われなくてもミツバチは命あるかぎり女王蜂のために蜜を運ぶし、草も花も木も枯れるまで伸びる。それなのに、ある一種類の生き物だけ、誰よりも生きたいと願ってるのに死のうとするだなんて、生命の法則を真正面から破壊する矛盾なの」
「生命の法則って……なんだよそれ。聞いたこともない。誰が決めたことなの?」
「誰でもないよ。でも、セントエルモの火を手にした今のわたしにはわかることなの。人間だって命ある限り他の生物と同じように生き続けなきゃいけない。命の終わりが老衰だろうが、事故死だろうが、他殺だろうが、その結果は宿命として世界は受け入れる。でも自殺だけは受け入れることができない。自分の意志で変えられる以上それは宿命ではないから。だから世界は、自殺をなかったことにするために人生をもう一度やり直させる」
「……その話が本当なら、この世に自殺者は存在しないことになるんじゃないの? 世界がそれを認めないっていうんならさ。でも実際僕は自殺した著名人をいっぱい知ってるし、ニュースだって毎日のように聞く」
「そうだね。君のいる世界では自殺は珍しくもなんともないことかも。でもね、さっきも言ったようにわたしは君とは違う時間軸の中にいる来世の君なの。同じ時代を生きているはずなのに、わたし達は同時に存在していない。この意味、わかる?」
小晴さんは立てた人差し指を唇に添えて、上目使いで僕を見た。そんな愛らしい仕草をされても、わからないものはわからない。
「世界の思惑通りに進んでいる時間軸が、きっと一個だけある」
「……どういう意味?」
「平行世界のこと。わたしも神様じゃないから全部知ってるわけじゃない。でも、想像するのは簡単なこと。この世から自殺者が出る度世界が転生者を用意するってことは、その分新しい時間軸も作られてるってこと。君と十二回目までの君が全部バラバラの時間軸を生きていることがその証拠。世界は自殺を認めない。自殺の存在しない時間軸を保とうと世界は自殺者のためだけにいくつもパラレルワールドを作り出してる。何百、何千、何億……いくつのパラレルワールドがあるんだろうね。その中にひとつだけ、世界が正しいと認めてる自殺の存在しない世界があるんだと思う。まあ、あってもなくてもわたしたちには何の関係もないことだけどね。君にとっては君の生きてる世界がすべてで、それはわたしも同じこと。この世界の秘密なんて、どうでもいいよね」
そのとおりだ。平行世界とか、自殺のない正しい世界とか、どうでもいい。
でも納得がいかない。今僕は人生ってやつに嫌気が差してるから死のうとしているのに、どうしてわざわざ生まれ変われることなんて伝えてくるんだ。来世への希望なんて誰も見たいなんて言っちゃいない。そんなに自殺を認めたくないのなら黙って勝手に転生させればいいだろう。どうして直前に、まざまざと真実を突きつけてくるんだ。
「……どうしてだよ」
張り裂けそうな思いを小晴さんに向かってぶちまけると、彼女は悲しげな笑みを作った。
「……ごめんね、わからないよ。でもセントエルモの火を抱えたわたしはね、シンプルにこう考えるの。ただあの世界が、生きたいという強い意志を無下にできない世界になってるって。そう考えれば、なんだか素敵でしょう」
――素敵なもんか。……けれど、そう、納得がいってしまう部分もある。
なぜだかあの世界は好き勝手振舞っている人間に罰を下そうとしないのだ。
ずっと病床に伏している僕に見向きもしないで、僕の看病に人生の半分を費やした両親に見向きもしないで、なんとテレビの中の戦争や犯罪にも見向きもしない。世界は世界に無関心なんだなあと、そう思っていたが、小晴さんの話を信じるなら世界はなにも考えていない阿呆だ。善意も、悪意も、自分を殺したいという殺意すらも、「生きる意志」として一括りにしてしまうとんでもない阿呆じゃないか。
「……素敵なもんか。そんな馬鹿みたいな世界のせいで、僕は永遠に自殺させられてるっていうの? 一体どうして?」
「わからない」
「十二回も生まれ変わっては自殺を繰り返してるのは僕だけなんだろ? 百歩譲ってこの馬鹿みたいな世界のことは認めるよ。でもそれと僕の前世たちの自殺は別の話なんだよね? どうして僕たちは、十七歳の自殺の運命から逃れられないの?」
「そればっかりは、わからない」
青白い光の中に小晴さんは顔をうずめた。
「きっとなにか原因があるとは思う。理由もなしにセントエルモの火は輝かない。前世のわたしたちは、今の君みたいにセントエルモの火に出逢って、少しずつ姿を表す前世の自分たちと対話して、自殺してしまうまでの短い期間になんとか原因を突き止めようとしたはずなの。来世も自殺だなんて、絶対嫌だったはずだから」
「はず? 君は、なにも覚えてないの?」
「覚えてないよ。この先アマミヤくんが自殺して、転生したわたしには、今の君がそうであるように前世の記憶はなにもない。それにここにいるわたしはただの、セントエルモの火。君の自殺の道しるべでしかないの」
さしずめ死神といったところなのか。果たして、こんなにも消極的な死神が存在していいものなのか。
確かに僕は十二回分の前世の記憶を何一つ覚えていなかった。今の小晴さんと同じように僕もセントエルモの火を掲げて、十二回目の僕に死を伝えたこともあるんだろう。でもそれは僕自身ではないし、僕は生まれ変わりなんてなにも知らない状態でこの世に生を受けた。小晴さんがなにも覚えていないというのも、きっと本当のことなんだろう。
「君を引き寄せてしまったのは、僕自身なんだよね?」
「うん」
「君が好んで僕を殺しにきたわけじゃない」
「もちろん。君の自殺の運命に、わたしは召喚させられただけ」
「……結局、暗示みたいにかけられた自殺の輪廻にさ、逆らえなかった僕が弱いんだよ。運命を知ろうが知るまいが関係ない。君の言うとおり、あっちの世界に戻ったらきっと僕は自殺するよ」
小晴さんはなにも言わなかった。きっとこんな役目は彼女の本意じゃない。本来ならセントエルモの火は、絶望して死を決めた自殺者に告ぐ来世という名の最高のプレゼントのはずなのに、自殺を繰り返してしまうばっかりに僕たちにとってはかつての船乗りたちと同じように不吉なものでしかない。
なんにしろどの道僕の人生は近いうちに自殺で終わる。
それ自体は不幸なことに違いないが、生まれ変わってしまえばすべてを忘れてしまうんだ。今、できることならこの輪廻を断ち切ってやりたいと強く思ってもいるが、死ねばそんな意志すら振り出しに戻る。そう考えたら、案外気持ちは穏やかになった。
「僕も、セントエルモの火を掲げて、僕の一つ前の前世に自殺の運命を伝えたんだよね」
「うん。きっとね」
「小晴さんみたいに辛そうに伝えたのかな。全然覚えてない」
「セントエルモの火とアマミヤくんは同じ人物じゃないから、覚えてなくて当たり前だよ。ここにいるセントエルモの火は小晴っていう人間そのものじゃなくて、違う時間軸の向こう側、君の追憶の中に潜む小晴でしかないから」
「僕の記憶に……か。僕の来世が僕の中にいるだなんて、やっぱり変な感じだよ。僕の前世は、僕の話をすぐに受け入れたのかな」
そう思って、なにとなく後ろの帆船たちに振り返った。
小晴さんに出逢うまではどれも同じ船にしか見えなかったが、彼女の言うとおり段々違いが見えてくる。ちょっと帆が破けているとか、船首が一見高級そうな素材だとか、他のより立派で綺麗だとか、どの船に何番目の僕が乗船しているのかが感覚的にわかってくる。
「この船も、僕の頭の中、想像の産物なんだよね」
「うん」
「だから、感覚でわかるんだね。単純に見た目が新しい船ほど、僕に近い前世が乗ってる。ぼろぼろの船は……きっと遠い遠い前世だ」
まだ判別が曖昧で、どんな僕が乗ってるかまではわからないが、どれが一番新しい船かくらいはわかりそうだった。
わかりそうだったから、目を疑った。
一番新しい船が、ない。
いや違う。そもそもそこには、十一艘の船しかなかった。これまでもそうだった。ここで過ごす二十四時間で、十一艘以上の船を見たことがない。
おかしい。僕は十三回目の生まれ変わりで、それならばここには十二艘の帆船が並んでなければならないのに。
「小晴さん、僕は十三番目の生まれ変わりなんだよね?」
「うん」
「だったらここに船は十二艘なきゃおかしい」
僕はすぐに異常を訴えた。
「船が十一艘しかない。一艘足りないんだ。小晴さんの言うとおり段々前世の姿がはっきりしてきたからわかるんだ。確かに僕は十三番目だ。でも――一番新しい船、十二番目の船、僕に一番近い前世の船が見当たらない」
見当たらないということは、わずかながらも記憶が蘇ってこないということだった。
小晴さんと出逢ったことにより、前世たちの記憶が淡く淡く膜が張られるように頭の中に染み込んできている。古い前世の姿はさすがにまだ遠くだったが、今の自分から近い位置にある前世ほどくっきり姿が目に浮かぶ。たとえば、十一番目は男だ。それほどまでにわかってきているのに、一番近いはずの十二番目のあらゆる情報がぽっかり抜け落ちてしまっている。まるで、はじめから存在などしていなかったかのように。
「まさか、ほんとは僕が十二番目?」
すかさず僕を追い越し、船尾から身を乗り出して船の列を目で追っていた小晴さんは、首を振った。
「ううん。君は確かに十三番目で、わたしは十四番目。思い出してきてるんなら、それも感覚でわかるよね?」
彼女の言うとおりだった。確かに僕は、十三回目の僕だ。彼女は驚くほど神妙な顔つきになっていた。
「どうしてだろう……。君に訊いても……わからないよね」
「……ごめんね。わたしの役目は君に転生を伝えることだけだから……。でも、ひとつだけ言えるのは、アマミヤくんが自殺して、十四番目としてわたしが生まれて、やがて十五番目のわたしにセントエルモの火を見せられた時、わたしも存在しない十二艘目に首を傾げることになるんだろうと思う」
「たとえ僕が、この海で十二艘目を見つけても?」
「うん。すべてが振り出しに戻るから」
ならば十二艘目を追い求めることに意味はないということだ。
僕がどれだけこの世界を探検しようが、所詮ここは僕の頭の中。その記憶が次の人生に引き継がれることはない。僕自身が、その証拠だ。
だけど――
「だけど、気になるよ。どうしてなんだろう。本当なら一番鮮明でなくちゃいけない一番近い前世のことが、思い出せないなんて」
「時が経てば思い出すかもしれない」
彼女はそう言うしかないんだろう。
でも、「時」なんてもういくらもないからセントエルモの火は現れたんだろうし、思い出せる思い出せないというレベルじゃなく、存在すら感じないこの感覚は今は僕にしかわからないものだ。
「そろそろ、お別れみたいだ」
セントエルモの火と遭遇した日でも、変わらず時間切れはやってくるものらしい。ガラス板に水でも流すみたいに眼前の光景がぼやけはじめて、僕はあっちの世界への帰還を悟る。
「あと何回、僕はこっちの世界に来れるのかな」
「アマミヤくん次第だよ」
「僕が、セントエルモの火を、どれだけ無視できるか」
「そう……だね」
「……僕が自殺しないっていう可能性は、もうないの?」
彼女は答えなかった。シルクの白装束をひらりとなびかせながら踵を返して、俯いたまま自分の船に戻っていった。
わかってる。それが答えだ。彼女は僕ではなく、来世の僕の姿をした死神なんだから、僕が自殺する運命にあるのはもう覆りようのないことだとわかっている。誰よりも、彼女が。……一体どんな気持ちなんだろう。
「できることなら、もう一度会いたい」
背中を向けたまま小晴さんは、意外な言葉を口にした。
「次に出逢う時、出逢っちゃう時……たぶん、アマミヤくんの……限界の時だと思う」
「そうだろうね。僕もそう思う。僕は、もう、長くない」
「うん……。でも、嫌だ。わたし、このままは嫌だ」
僕は眉をひそめて彼女の後姿を見つめた。
急にどうしたというのだろう。今まで比較的淡々としていた小晴さんが、妙に感情的になっているように見える。
感情……なんてないんじゃないだろうか。だって彼女はただのセントエルモの火。これから生まれる僕そのものなんだ。彼女自身が言っていたことだ。セントエルモの火は……ただ死を知らせる不吉な光でしかないんだ。
「ねえ、アマミヤくん」
もう時間がない。世界が白く霞み始めているおかげで、彼女の声色から感情を判断することはできなかった。
「できるならもう一度、会おうね。自殺の日より前に」
「……そうだね、できるなら」
「わたしにもきっとまだ、できることがあるから」
小晴さんにできること……?
死の光を僕に浴びせるためだけに現れた小晴さんが、僕のためになにかをすると?
よくわからないけど、その必要はないよ小晴さん。小晴さんが一番わかってることだろ。僕は自殺の運命から逃れられないし、誰かに救ってもらおうとも考えてない。もう死を受け入れてるんだ。だから君が現れた。そうだろう?
「今更死ぬことは怖くないよ。自分から覚悟して死のうとするんだから、当たり前だ。でも死ぬ前に、僕は自殺するしかなかった前世の僕たちの話を聞いてみたい。みんなそれぞれ全然違う十七年間を歩いてきたんでしょ? なのにどうして自殺なんかしなくちゃならなかったのか、知りたい。話を聞きたい。そして死ぬ前になんとかして十二番目の僕のことを知りたい。なんでかな、すごく大事なことのような気がするんだ。なにか、十二番目の僕に、この輪廻の秘密があるような気がする」
やはりこちらに背を向けたまま、小晴さんは幽かに頷いた。視界の表面を滝のように流れていく水が、彼女の後ろ姿も船もセントエルモの火も遠のかせていく。
「そうだね。たぶん今までの君たちは、みんなそうしてきた。たぶん――必死に、この輪廻を止めなきゃって」
そう、できることなら僕で終わりにしたい。小晴さんにまでこの自殺の運命を背負わせたくない。
僕が自殺さえしなければ、済む話なのか。でも、それは、むりだ。あっちの世界に戻った僕にとってはもはや生きていこうとすることがなにより難しい。
「小晴さんは、どうして十七歳で自殺するの?」
これが恐らく最後の質問だった。もし僕が死ぬ時まで彼女に出会えないというのなら、今ここで聞いておかなければならなかった。
「……まだ生まれてもいないわたしに、小晴としての記憶はない。けど」
その時小晴さんはたぶん僕の方に向き直った。怒涛の水流に押し流されていたけれど、それだけはわかった。
「セントエルモの火は、自分の死因のことはようく覚えてる。でも、わたしの自殺の原因を知ってどうするの? 君は来世の君を救うことはできないし、知ったところで運命を嘆くだけだし、君が小晴に転生する時にはぜんぶ忘れてる。意味ないよ、わたしのことなんて。……わたしはね、そんなことよりも――」
でも、小晴さん――。
呼び止めようとした僕の声は、もう声にならなかった。僕の声や意識がこの世界からぺりぺりと剥がれていき、あっちの世界へとかき混ぜられるようにして帰っていく、いつもと同じ感覚に僕は見舞われた。いつも通り、流れに逆らうことなどできなかった。
はじめは特別なことだとは思わなかった。物心ついたころから、起きているとも寝ているともつかない、五感だけが現実を飛び出してふわふわゆらゆら漂う時間が毎日必ずあった。
夢と、現実の、狭間を行くような。
誰かに脈を計られながら、頭だけ麻酔がかかっているような。
なんともいえない感覚だった。
その感覚に陥る時間が、ちょうど一日と同じ二十四時間だと気づけるほどに自意識が成長したころには、どうやら僕の病気はもう手遅れだった。他のみんなの中には別世界の二十四時間など存在しないのが普通で、僕が特別なんだと気づいたのは、別の病室に隔離される直前だった。
「え? 夢のことじゃあなくて?」
「うん……え? 君は……そういうのないの? 意識はすごくハッキリしてて、ちゃんと全部覚えてて、行く場所は毎回同じで……」
「……知らないよ、そんなの……」
「……僕だけ……なの……?」
「…………アマミヤくん、一度先生にもっとちゃんと診てもらった方が……」
相部屋となった同い年の患者と話して、はじめて別世界の存在が異常だということを知った。知った途端に僕は病室を移され、身体中に巻きつく管の数が倍になり、そしてその部屋に流れる二十四時間は僕を独りに至らしめる二十四時間となった。もう僕に会いにくる人間は、医者と看護師と、それから宇宙服みたいな無菌服を頑丈に纏った両親だけになった。
別に、劇的な変化があったわけじゃない。僕が病気に苦しんでいるこの二十四時間は苦しくて淋しいと思うだけの平坦な二十四時間だ。まだ誰かが隣にいた病室でも、僕以外はいないこの病室でも、僕の命を見舞う人間なんて医者と両親しかいない。
幼いころからずーっと病院で暮らしていたんだ。世間でいう、友達とか、そういうの、僕は知らない。知らないからそういうののありがたみもわからない。ただ、最近視力も落ちてきている僕にとって、肉厚な防護服越しにしか見れない両親の顔はもう判別できないほどにぼやけていて、それだけがつらかった。
――どうせもうすぐ僕は死ぬんだ。
やけくそじゃあない。
諦めだ。なんとなく、僕には自分の命の期限がわかるんだ。僕だけが知るあの「別世界」となにか関係があったりするのかもしれない。
そろそろ別世界に行く時間だなと思い始めたその時、枕元に置いてある携帯電話が震え出した。学校を知らない僕にメールや電話をやり取りする相手なんていないはずなのに、この病室に移動する際に精一杯の笑顔で「なにかほしいものはない?」と尋ねてきた母に僕は、この携帯電話を希望した。今更携帯電話の電波くらいで余命に影響を与えることもないだろうと、主治医もそれを許可してくれた。
おかしなことをしたな。どうせ母と父以外からは、迷惑メールくらいしか届かないのに。
「やっぱりね」
テープで口に貼り付けられたチューブに、僕は溜め息を吹き込んだ。開いたディスプレイには、思ったとおり見たこともない宛先からのチェーンメールが表示されていた。迷惑メールというものを知らなかった当初は、誰かが僕に繋がりを求めてるんだと、柄にもなく舞い上がってしまった。すぐに真相を知って、可笑しさに似た落胆を味わったっけ。
少しでも僕に安静にしていてほしいためか、最近はめっきり両親もメールをよこさなくなった。別に死期が早まることは問題でもなんでもないが、迷惑メールが来る度にこうして重い体をひねるのは確かに億劫だし癪だ。
――もう壊してしまおうか。こんなケータイ。
いや、それでおかあさんに変な心配させるのも、よくないか。
電源を切ってしまえばいいと思ったが、なんとなく興味本位で、メールアドレスを変えてみることにした。初期設定のままの無意味な文字列でしかないアドレスを眺めていたら、この文字列を有意義なものに変えてみたくなったのだ。
アドレスを変更して電話を枕元に戻そうとした途端、間髪を入れずに着信があった。まさかもう迷惑メールが来たのかと、単純なアドレスにしてしまったことに後悔しながらディスプレイを開いた。が、届いたメールは、今まで僕が受け取ってきたものとは何やら様子が違っていた。
『アマミヤを想い続けろ。お前は正しい。間違っちゃいない。感情だけは、誰にも否定されちゃいけないものだ。負けるな、過去にも、未来にも』
宛先が見知らぬアドレスなのは迷惑メールと同じだ。しかし決定的にこれまでと違っているのは、名指しで僕の名前を呼ばれていることだ。アドレスを変える以前も迷惑メールらしからぬ意図不明の内容のものが届くことはあったが、名指しで呼ばれたことはなかった。
アマミヤは僕の姓だ。だからきっと間違いメールの類じゃない。僕や僕の家族に関係のあるメールであることは確かだ。しかし僕自身に宛てたものではないだろう。僕に宛てたメールなら、「アマミヤを想い続けろ」なんて冗談でも笑えない話だ。
不気味な文章だ。わけがわからない。
大体僕宛てのメールだとしても、アドレスを変えた瞬間に届くってどういうことだ? 僕がアドレスを変えることを誰かが知っていたってこと? どうやって? 封印されたみたいなこの部屋から出ることができない僕のことを誰かが知っていると?
たとえそうだとしても、僕にはベッドを起き上がってそれを確かめる気力も体力もないわけだけど。
そう、考える力も、動く力も、今の僕にはなかった。これも迷惑メールの一種だと片付けて思考を放棄してしまうことが唯一僕にできることだ。
もうどうでもいいんだ。この世界の謎やら、未来やら、ぜんぶどうでもいい。どうせ僕はあと数ヶ月以内には死ぬ。余命は聞かされていない、けれど、自分の命の賞味期限くらい毎日味わってる僕にはわかりすぎるほどわかってる。もうまともな味なんかしないのだ。この先どんどん病は悪化して、二十四時間を繰り返す度に染み出る命の味は腐敗していく一方だ。そんな命ならば、このまま野ざらしに放っておくよりも、いっそ――
どうやら、僕の意識は別世界へと旅立とうとしているようだった。眠たいわけではない。意識ははっきりとしている。毎日、決まった時間ではないが、トイレにでも行きたくなるみたいに不意に、そして徐々に、意識の遠ざかりを感じる。まさに排泄と同じように、それは一日に何度も訪れる。こことは違う「別の二十四時間」を向こうの世界で過ごすために。
携帯電話を握りしめたまま、僕は僕から遠のいていく意識に手を振って見送った。
それは、航海そのものだった。
僕が病に蝕まれていないこちら側の世界には、海しか存在しない。風も波もない、どこまでも黒々と広がるカーペットのようなたいらな海だ。黒々、とはいえ夜という時間が流れているわけではない。ここで過ごす二十四時間で時間の流れが空模様に影響することは決してない。朝も昼もないのだから、この黒い空も海もきっと「夜」という類のものではなく、この世界独特の空模様なんだろう。
この世界に着いて僕は気がつくと小さな帆船の中にいて、当てもなく海を漂流している。空は黒く、海も黒く、月も星もなく、水平線の境も判別できない。この船は何らかのエネルギーを受けて進んでいるのか、それともその場に漂っているだけなのか、それすらわからない。それでも僕は、病と余命にきつく締め付けられるだけのあっちの世界を後にした解放感で、いつだって気持ちは穏やかになる。
暑くもないし寒くもないし、心臓はとくりとくりと落ち着いたリズムだ。
そう、僕はこっちの世界では健康そのもの。といっても健康だった時代を知らないからどういう身体状況が「健康」っていうのかよくわからないけど、立つことも座ることも呼吸することも苦しくないこの身体は、きっと健康と名のつくもののはずだ。
全身は真綿のように軽く、自分の存在すらおぼろげになっていくようで心地いい。
僕はあっちの世界で、いつのまにか喋り方や呼吸の仕方を身につけていた。それが生きていく術だと、誰に言われるでもなく知っていたからだ。それと同じように、こうやって何もせずゆらめていることだけがここで生きていく術だと僕は知っている。
ゆらめくという名の航海をしばらく続けていると、僕と同じような、ゆらめいているだけの帆船がいくつも左右を流れていく。流れていっているのか、それとも僕の船が追い越しているのか、見比べる風景がないからその判断はできないけれど、帆船の数は多くても必ず最大で十一艘と決まっている。一艘もすれ違わない日もあれば、十一艘すべてとすれ違う日もある。今日は一度に十一艘の船が流れてきたので、思わず目を見張った。
どれも無人である。未だこの世界で僕は、僕以外の生き物を見たことがない。この世界は僕だけの世界で僕以外の生き物はいないというのが、十七年間で僕が出した結論だ。
でも、この十一艘の無人の帆船は。
この船たちは、僕以外の十一人が僕とは違う次元で「こっちの世界」にやってきている証拠なんじゃないか。僕と同じように誰かが船に乗ってるんなら。僕以外にもこの世界の住人がいるんだと、きっと僕と同じようにあっちの世界では命を蝕まれているに違いないんだと、そんなふうに考えることもあった。
それにしても、今日はなんだか様子がおかしい。船がぜんぶまとめて同時に流れていくなんて。
こんなことは今までなかった。今までにないことが起こると、あっちの世界では病室を移されたり管や薬を増やされたりする。
――こっちの世界ではどうなるんだ。
初めて感じる鼓動の荒ぶりにうろたえていた、その時だった。
突然、十二艘目の船が目の前に現れた。僕が突然だと思ったのは、さきほどまで十一艘の船たちに目を奪われていたので気づかなかっただけかもしれないが、なんだか僕が気づいた途端世界の空気が変わったような気がした。
初めて見る十二艘目の帆船は、明らかに十一艘目までの帆船とは様子が違っていた。傍を流れるだけだった船たちとは違い、その船の船首は真っ直ぐ僕の船に向かい、流れてくるなどという生ぬるいものではなく確実にこちらを目指して近づいてきている。そしてなにより僕を不安にさせたのは、マストの先端で青白く輝いている光の点滅だ。
なにかの本で読んだことがある。昔、航海の際に突然マストの先端が青白く輝き出すことがあり、船乗りの間で凶兆とされたという話。その光に見舞われた船は必ず嵐に遭い、凶兆を信じなかったために帰らぬ人となった船乗りも少なくなかったという。
畏敬を込めて、その光は船乗りたちからこう呼ばれた。確か――、そう、『セントエルモの火』と。
「はじめまして」
船首同士がぴたりとくっつくのと同時に、操舵室から一人の女の子が姿を現した。
長い髪をまっすぐに流した、同い年くらいの女の子。彼女が胸の前に添えた左手の中にも、船のマスト先端の不吉な光と同じ、セントエルモの火があわく輝いていた。
「とうとうわたしに出会っちゃったね、アマミヤくん」
呆気にとられて声も出ない僕の船に、彼女は無許可で入り込んできた。
彼女の抱えた白い光がまたたいて、一瞬目が眩む。しかし次の瞬間には僕の瞳は光を受け入れたかのようにそれをまばゆいと感覚しなくなり、この世界に存在する唯一の光源を気持ちよく吸収していった。
「きみはだれ?」
光に吸い込まれそうな錯覚に陥り、僕は後ずさった。彼女は近づいてこようとはしてこなかった。
「わたしの名前は小晴。ごめんね、光、まぶしいよね」
彼女は手の中の光を撫でながら申し訳無さそうに微笑んだ。彼女の羽織った、見たこともない白装束は、光の中で青白く点滅していて余計に神秘的に見えた。
彼女は、よく見なくともとても整った可愛らしい顔立ちだった。白く、細く、薄っぺらく、透明の絵の具で輪郭を描いたかのようになんだか儚い。現実世界ではほとんど接したことのない同年代の女の子の姿に、まぶしさとは関係なく僕は目を細めた。
「……だいじょうぶ。そんなにまぶしくない。でも光なんて……はじめて見た」
「うん。そうだよね。そういえば、わたしの時もまぶしいのは一瞬だけだった。これはそういう光なの。ぎらっと光って、あなたに不吉なことを知らせて、染み込んでいく光」
「不吉なこと……? まさか、ほんとにセントエルモの火」
「そう、君はこの光をそう呼んだ。この光を見たら、自殺の前触れ。ごめんね、アマミヤくん。君はもうすぐ自殺するんだ。あっちの世界で。本当の世界で」
彼女はずっと同じ調子で微笑み続けていた。その微笑みを見ていたら、不思議と僕は、彼女と話さなければならない予感がした。
「きみはだれ?」
僕は質問を繰り返した。今度は名前ではなく、彼女の存在を問うたつもりだった。
「もう一回名乗るね。わたしの名前は小晴。セントエルモの火を見たからには、今から少しずつ思い出していくだろうけど、わたしは君の生まれ変わりなの」
困ったことに、彼女がなにを言っているのか全くわからない。
「……ここは、どこなの?」
十年以上漂い続けていたというのに、この世界の存在について疑問を口にするのは初めてのことだった。そもそも言の葉というものがこの世界に存在するのを、僕は今日初めて知った。
「ここは、君だけの世界」
僕の世界に初めて吹く風が、ばたばたと帆をなびかせる。
「ここは、きみたち――わたしたちの墓場。君はこれまで十二回死んできた。そしてまた十二回生まれてきた。君は、アマミヤくんは、十三回目の君。君は十二回輪廻転生を繰り返しているの。そして今、十三回目の死を迎えようとしてる。徐々に思い出すと思うけど、今までと同じなんだ。十二回繰り返した君の死因は、ぜんぶ自殺」
理解できない、なに言ってるんだこの人、そう思うと同時、なぜか「そうなんだ」という妙な納得が先駆ける。小晴さんの言うとおり、どうやら僕はセントエルモの火に包まれて少しずつこの世界の意味を思い出そうとしているらしかった。
……この場合の「思い出す」って? どういうことなんだろうか。僕は僕が思っているよりこの世界のことを知っているのか……?
「……じゃあ、あの無人の船たちは……」
「十二人の君だよ」
「十二人の僕……?」
「そう。みんな自殺を遂げて命を終わらせてきた、君の前世たち。死んだはずなのにこの世界に残り続けてる。輪廻っていう、どこまでも海が続く世界を、ずっとずっと漂ってる。みんな君が話しかけてきてくれるのを待ってるの」
「でも、誰もいないんだよ。船には。話しかけようがないよ」
「ううん、いるよ。姿が見えないのは、これまで君がなにも思い出していなかったから。自殺への道に踏み込んでいなかったから。わたしに出会って、セントエルモの火を受けた君は、もう既に自殺へ片足を踏み入れてる。そうだよね? 君は、あっちの世界で、自ら命を絶つ覚悟ができたんだよね?」
微笑んだまま、小晴さんは僕を覗き込む。荒ぶるように突風が吹いて、マスト先端のセントエルモの火がバチバチと弾けた。僕の気持ちと共鳴して揺れる船と光は、確かにここが僕の世界だと証明している。
……死ぬ覚悟なんて、とうの昔にできていたように思う。物心ついた時から死と隣り合わせだった僕にとって死なんてものはそんな特別なものじゃないんだ。近いうちに、いずれやってくるもの。でも達観してたわけでも死ぬことが怖くなかったわけでもない。そんなわけない。痛くて、苦しいんだ。怖くないはずがない。
十五歳の時に不治の病だと告知されて、僕と手を繋ぐ「死」の姿がはじめて目に見えた。意識するようになったら、意識するだけ逆に死というものは遠ざかっていった。死を意識するっていうのは、死にたくないって思うことと同じだったから。
「僕は、あっちの世界でがむしゃらに死を遠ざけてきた。死ぬなんて絶対に嫌だ。でも……なんでだろう。最近……すごく疲れたんだ。もう嫌なんだ。なにも考えたくないんだ。ずっとずっとこっちの世界で生きていたいんだよ。こっちにいる限り僕はなにも苦しくない。もちろんなにも楽しいこともないけど、楽しいことなんて僕は別に望んじゃいない。あの苦しみから解放されればそれでいいんだ。たった二十四時間ぽっちなんて嫌だ。あっちの世界の命なんて終わらせて、ずっとこっちの世界で漂っていたい」
「そう。それがね、覚悟。自殺の覚悟。君は、君たちは、なぜだかどうしても繰り返す自殺の運命から逃れられない。君は病死するのかなって、もしかしたらって思ってたけど、やっぱり違ったね。君はこっちの世界で死を引き寄せつづけた。セントエルモの火を引き寄せるのは、いつだって自分自身なの」
「僕が、君を引き寄せた? 君って、一体」
「わたしは、十四回目の君だよ。君が自殺して次に生まれ変わるのは、目の前にいる、このわたしなの」
小晴さんの瞳は湖面のように静かにきらめている。放たれる不思議な強さと美しさに思わず息を呑む。
「未来の、僕ってこと?」
「うん。次に転生する人間が、今の君に輪廻転生を思い出させる。こうやってセントエルモの火を掲げながら。それをわたしたちは繰り返してきたんだよ。アマミヤくんだって、今はぜんぶ忘れちゃってるけど、今のわたしと同じことを過去の自分にしたことがあるんだよ」
「……ごめん、全然意味がわからない。これ、今日は僕あっちの世界でこっちの世界の夢を見てるだけなんじゃないのかな」
こんなふうに、綺麗な女の子と話してるっていうのも、もしかしたら僕が無意識に夢見ていた幻想で。
「君は……あっちの世界で友達すらいない僕が作り出した幻想なんじゃないの? だったら、やめてほしい。こんな残酷な夢は見たくない」
「夢じゃない。すごくわかりやすい、理屈っぽくて皮肉な現実なんだよこの世界は」
風はどんどん強まり、ほとんど暴風になっている。僕は吹き飛ばされないように自分の体にぐっと力を入れた。
「セントエルモの火を見ること自体は、そんな特別なことじゃないの。いい? アマミヤくん。まずは、自殺っていう行為についてよく考えてみて」
暴風にあおられて小晴さんの長い髪が暴れている。けれど、細い髪の隙間からまっすぐこちらを見据える深々とした瞳を見つけると、自然と風は収まり、海は再び凪いでいった。
「アマミヤくんは、どうして死にたいの?」
……決まってるじゃないか。あっちの世界でもがき苦しみ続けることに、もう耐えられないって、ここにいる僕が言うからだ。
「……死にたいから」
「違うよ。生きたいから、でしょう」
その瞬間、風は完全に止んだ。
「自殺する人はみんな、生きたいから死ぬの。どうしても生きられなくて、死ぬしかなくなっちゃうだけなの。死にたがってる人はね、誰よりも生きたがってるんだよ」
背後に強い気配を感じて、僕は振り返った。先ほど通り過ぎていった帆船たちが、綺麗に並列し、遠くから無言で僕を見つめていた。
――ああ、僕はもう、どうやら思い出しかけている。沈黙の船たちの、生きたくて生きたくて仕方なかったのに自殺を繰り返してしまった、痛々しい表情を。
「自殺する人は、死に片足を踏み入れた時、セントエルモの火と遭遇する。今のアマミヤくんと同じように、光を抱えた生まれ変わりの自分と出逢う。そこで出逢う自分自身はね、寿命を迎える年齢で現れるの。老衰で人生を全うするんならよぼよぼの老人が現れるし、不幸な事故で死ぬのなら小学生の姿でも現れて、生きたいと願う自殺者を転生という形で救うの。セントエルモの火が現れる時点で、もう自殺を覆すことはできない。誰かがどこかで決めた運命ってやつで、自殺者は自殺を遂げ、すべてを忘れて次の人生をやり直す」
小晴さんは遠い目をした。きっと、僕の背後の過去の帆船たちを見つめている。
「もう、わかるよね。転生は一度きりとは限らない。たとえ転生しても、もしその人生の死因も自殺だったら、またセントエルモの火に遭遇することになる。生まれ変わりの自分と出逢う。わかるよね。それを十二回繰り返しているのが君なの」
僕は発作的に頭を抱えた。
頭の中にいる、背後にいる、非業の死を遂げた僕たちの顔がぼんやりと浮かびはじめていた。
男もいれば、女もいる。帆に風を受けて、波に乗って、ゆらゆらとゆらゆらと、僕の背後に迫ってくる。頭の奥の奥をズンと抉られるようなこの震動は、あっちの世界での病的な発作とはまるで種類の違うものだった。
――彼らが……僕の前世。
僕が生まれる以前、死んでいった僕の前世たち。
明瞭とした記憶が蘇ってくる気配はない。それは当たり前のことかもしれない。前世だろうが、生まれ変わりだろうが、僕の脳みそは僕の脳みそ以外のなにものでもないんだ。ただ……この世界が、ここに漂う二十四時間が、無意識的にでも前世の自分たちと触れ合っていた二十四時間だったならば、僕の体にはきっと十分すぎるほどその匂いが染み付いている。
「疑問に思ったことなんて、なかった。毎日この世界で過ごす二十四時間も最初は特別なことだと思わなかったし、異常なことだってわかってからも、なんだかすごく僕にとっては当たり前のもので、不思議に感じることなんてなかった」
小晴さんは頷いた。
「この世界に旅立つことは、ふつうの人間にとっての追憶と君には同じことなの。トイレにでも行くみたいにね、人は、定期的にふと過去を思い出すの。過去の二十四時間を頭の中で一瞬で再生するの。君の場合は――わたしたちの場合は、前世があまりにも多すぎて、二十四時間を一瞬で再生できないだけ。ひとつひとつが、この黒い海みたいに広大で濃厚で終わりが見えないの。ここは確かに君の頭の中の世界。でも、君の知らない人生がいっぱい詰まってる」
物憂げに瞼を伏せる小晴さんを見て、僕はハッとした。
「あの、来世の自分は寿命を迎える年齢で自殺者のところへ現れるってさっき言ったよね? もしかして、君」
表情はおぼろげに霞ませたまま、小晴さんは微笑んだ。
「そうだよ。わたしは君と同じ、十七歳で死ぬ。死因は自殺。今までのわたしたちはみんな、同じように十七歳で自殺してきたの」
そんなこと言われても、それだけはピンと来なかった。
ここが追憶の世界で、十二人の前世が存在する世界なんだという衝撃は衝撃として受け止めたが、来世の自分が存在するという理由にはなってない。セントエルモの火を掲げて、前世の自分に自殺する運命を教えにくるだなんて、余計なお世話なんじゃないのか。
「君は、未来から来たの?」
尋ねると、小晴さんは複雑そうな顔をした。
「君にとっての未来であることは間違いないよ。でも、時間の流れでいう未来から来たわけじゃ、決してない。わたしたちはずっと同じ十七年間を繰り返してるの。君の過ごした十七年間もわたしが過ごした十七年間も同じ時代。もちろんセントエルモの火を見るまでは繰り返していることには一切気がつかなくて、来世の自分からすべてを聞いてはじめてすべてを受け入れる。わたしも、君も、ずっと前の君の前世たちも、みんな同じ時間の中にいるの。だからわたしは君の記憶の中に存在できる」
「まさか、じゃあ自殺者は、セントエルモの火を見た人たちは、一人残らず過去にタイムスリップして人生をやり直してるってこと? そんな――よくわからないけど、時間がめちゃくちゃになるじゃないか――」
「そんなことないよ。よく考えて。そもそもね、生命が自ら命を絶つなんて行為自体、絶対あってはならないイレギュラーなことなの。誰に言われなくてもミツバチは命あるかぎり女王蜂のために蜜を運ぶし、草も花も木も枯れるまで伸びる。それなのに、ある一種類の生き物だけ、誰よりも生きたいと願ってるのに死のうとするだなんて、生命の法則を真正面から破壊する矛盾なの」
「生命の法則って……なんだよそれ。聞いたこともない。誰が決めたことなの?」
「誰でもないよ。でも、セントエルモの火を手にした今のわたしにはわかることなの。人間だって命ある限り他の生物と同じように生き続けなきゃいけない。命の終わりが老衰だろうが、事故死だろうが、他殺だろうが、その結果は宿命として世界は受け入れる。でも自殺だけは受け入れることができない。自分の意志で変えられる以上それは宿命ではないから。だから世界は、自殺をなかったことにするために人生をもう一度やり直させる」
「……その話が本当なら、この世に自殺者は存在しないことになるんじゃないの? 世界がそれを認めないっていうんならさ。でも実際僕は自殺した著名人をいっぱい知ってるし、ニュースだって毎日のように聞く」
「そうだね。君のいる世界では自殺は珍しくもなんともないことかも。でもね、さっきも言ったようにわたしは君とは違う時間軸の中にいる来世の君なの。同じ時代を生きているはずなのに、わたし達は同時に存在していない。この意味、わかる?」
小晴さんは立てた人差し指を唇に添えて、上目使いで僕を見た。そんな愛らしい仕草をされても、わからないものはわからない。
「世界の思惑通りに進んでいる時間軸が、きっと一個だけある」
「……どういう意味?」
「平行世界のこと。わたしも神様じゃないから全部知ってるわけじゃない。でも、想像するのは簡単なこと。この世から自殺者が出る度世界が転生者を用意するってことは、その分新しい時間軸も作られてるってこと。君と十二回目までの君が全部バラバラの時間軸を生きていることがその証拠。世界は自殺を認めない。自殺の存在しない時間軸を保とうと世界は自殺者のためだけにいくつもパラレルワールドを作り出してる。何百、何千、何億……いくつのパラレルワールドがあるんだろうね。その中にひとつだけ、世界が正しいと認めてる自殺の存在しない世界があるんだと思う。まあ、あってもなくてもわたしたちには何の関係もないことだけどね。君にとっては君の生きてる世界がすべてで、それはわたしも同じこと。この世界の秘密なんて、どうでもいいよね」
そのとおりだ。平行世界とか、自殺のない正しい世界とか、どうでもいい。
でも納得がいかない。今僕は人生ってやつに嫌気が差してるから死のうとしているのに、どうしてわざわざ生まれ変われることなんて伝えてくるんだ。来世への希望なんて誰も見たいなんて言っちゃいない。そんなに自殺を認めたくないのなら黙って勝手に転生させればいいだろう。どうして直前に、まざまざと真実を突きつけてくるんだ。
「……どうしてだよ」
張り裂けそうな思いを小晴さんに向かってぶちまけると、彼女は悲しげな笑みを作った。
「……ごめんね、わからないよ。でもセントエルモの火を抱えたわたしはね、シンプルにこう考えるの。ただあの世界が、生きたいという強い意志を無下にできない世界になってるって。そう考えれば、なんだか素敵でしょう」
――素敵なもんか。……けれど、そう、納得がいってしまう部分もある。
なぜだかあの世界は好き勝手振舞っている人間に罰を下そうとしないのだ。
ずっと病床に伏している僕に見向きもしないで、僕の看病に人生の半分を費やした両親に見向きもしないで、なんとテレビの中の戦争や犯罪にも見向きもしない。世界は世界に無関心なんだなあと、そう思っていたが、小晴さんの話を信じるなら世界はなにも考えていない阿呆だ。善意も、悪意も、自分を殺したいという殺意すらも、「生きる意志」として一括りにしてしまうとんでもない阿呆じゃないか。
「……素敵なもんか。そんな馬鹿みたいな世界のせいで、僕は永遠に自殺させられてるっていうの? 一体どうして?」
「わからない」
「十二回も生まれ変わっては自殺を繰り返してるのは僕だけなんだろ? 百歩譲ってこの馬鹿みたいな世界のことは認めるよ。でもそれと僕の前世たちの自殺は別の話なんだよね? どうして僕たちは、十七歳の自殺の運命から逃れられないの?」
「そればっかりは、わからない」
青白い光の中に小晴さんは顔をうずめた。
「きっとなにか原因があるとは思う。理由もなしにセントエルモの火は輝かない。前世のわたしたちは、今の君みたいにセントエルモの火に出逢って、少しずつ姿を表す前世の自分たちと対話して、自殺してしまうまでの短い期間になんとか原因を突き止めようとしたはずなの。来世も自殺だなんて、絶対嫌だったはずだから」
「はず? 君は、なにも覚えてないの?」
「覚えてないよ。この先アマミヤくんが自殺して、転生したわたしには、今の君がそうであるように前世の記憶はなにもない。それにここにいるわたしはただの、セントエルモの火。君の自殺の道しるべでしかないの」
さしずめ死神といったところなのか。果たして、こんなにも消極的な死神が存在していいものなのか。
確かに僕は十二回分の前世の記憶を何一つ覚えていなかった。今の小晴さんと同じように僕もセントエルモの火を掲げて、十二回目の僕に死を伝えたこともあるんだろう。でもそれは僕自身ではないし、僕は生まれ変わりなんてなにも知らない状態でこの世に生を受けた。小晴さんがなにも覚えていないというのも、きっと本当のことなんだろう。
「君を引き寄せてしまったのは、僕自身なんだよね?」
「うん」
「君が好んで僕を殺しにきたわけじゃない」
「もちろん。君の自殺の運命に、わたしは召喚させられただけ」
「……結局、暗示みたいにかけられた自殺の輪廻にさ、逆らえなかった僕が弱いんだよ。運命を知ろうが知るまいが関係ない。君の言うとおり、あっちの世界に戻ったらきっと僕は自殺するよ」
小晴さんはなにも言わなかった。きっとこんな役目は彼女の本意じゃない。本来ならセントエルモの火は、絶望して死を決めた自殺者に告ぐ来世という名の最高のプレゼントのはずなのに、自殺を繰り返してしまうばっかりに僕たちにとってはかつての船乗りたちと同じように不吉なものでしかない。
なんにしろどの道僕の人生は近いうちに自殺で終わる。
それ自体は不幸なことに違いないが、生まれ変わってしまえばすべてを忘れてしまうんだ。今、できることならこの輪廻を断ち切ってやりたいと強く思ってもいるが、死ねばそんな意志すら振り出しに戻る。そう考えたら、案外気持ちは穏やかになった。
「僕も、セントエルモの火を掲げて、僕の一つ前の前世に自殺の運命を伝えたんだよね」
「うん。きっとね」
「小晴さんみたいに辛そうに伝えたのかな。全然覚えてない」
「セントエルモの火とアマミヤくんは同じ人物じゃないから、覚えてなくて当たり前だよ。ここにいるセントエルモの火は小晴っていう人間そのものじゃなくて、違う時間軸の向こう側、君の追憶の中に潜む小晴でしかないから」
「僕の記憶に……か。僕の来世が僕の中にいるだなんて、やっぱり変な感じだよ。僕の前世は、僕の話をすぐに受け入れたのかな」
そう思って、なにとなく後ろの帆船たちに振り返った。
小晴さんに出逢うまではどれも同じ船にしか見えなかったが、彼女の言うとおり段々違いが見えてくる。ちょっと帆が破けているとか、船首が一見高級そうな素材だとか、他のより立派で綺麗だとか、どの船に何番目の僕が乗船しているのかが感覚的にわかってくる。
「この船も、僕の頭の中、想像の産物なんだよね」
「うん」
「だから、感覚でわかるんだね。単純に見た目が新しい船ほど、僕に近い前世が乗ってる。ぼろぼろの船は……きっと遠い遠い前世だ」
まだ判別が曖昧で、どんな僕が乗ってるかまではわからないが、どれが一番新しい船かくらいはわかりそうだった。
わかりそうだったから、目を疑った。
一番新しい船が、ない。
いや違う。そもそもそこには、十一艘の船しかなかった。これまでもそうだった。ここで過ごす二十四時間で、十一艘以上の船を見たことがない。
おかしい。僕は十三回目の生まれ変わりで、それならばここには十二艘の帆船が並んでなければならないのに。
「小晴さん、僕は十三番目の生まれ変わりなんだよね?」
「うん」
「だったらここに船は十二艘なきゃおかしい」
僕はすぐに異常を訴えた。
「船が十一艘しかない。一艘足りないんだ。小晴さんの言うとおり段々前世の姿がはっきりしてきたからわかるんだ。確かに僕は十三番目だ。でも――一番新しい船、十二番目の船、僕に一番近い前世の船が見当たらない」
見当たらないということは、わずかながらも記憶が蘇ってこないということだった。
小晴さんと出逢ったことにより、前世たちの記憶が淡く淡く膜が張られるように頭の中に染み込んできている。古い前世の姿はさすがにまだ遠くだったが、今の自分から近い位置にある前世ほどくっきり姿が目に浮かぶ。たとえば、十一番目は男だ。それほどまでにわかってきているのに、一番近いはずの十二番目のあらゆる情報がぽっかり抜け落ちてしまっている。まるで、はじめから存在などしていなかったかのように。
「まさか、ほんとは僕が十二番目?」
すかさず僕を追い越し、船尾から身を乗り出して船の列を目で追っていた小晴さんは、首を振った。
「ううん。君は確かに十三番目で、わたしは十四番目。思い出してきてるんなら、それも感覚でわかるよね?」
彼女の言うとおりだった。確かに僕は、十三回目の僕だ。彼女は驚くほど神妙な顔つきになっていた。
「どうしてだろう……。君に訊いても……わからないよね」
「……ごめんね。わたしの役目は君に転生を伝えることだけだから……。でも、ひとつだけ言えるのは、アマミヤくんが自殺して、十四番目としてわたしが生まれて、やがて十五番目のわたしにセントエルモの火を見せられた時、わたしも存在しない十二艘目に首を傾げることになるんだろうと思う」
「たとえ僕が、この海で十二艘目を見つけても?」
「うん。すべてが振り出しに戻るから」
ならば十二艘目を追い求めることに意味はないということだ。
僕がどれだけこの世界を探検しようが、所詮ここは僕の頭の中。その記憶が次の人生に引き継がれることはない。僕自身が、その証拠だ。
だけど――
「だけど、気になるよ。どうしてなんだろう。本当なら一番鮮明でなくちゃいけない一番近い前世のことが、思い出せないなんて」
「時が経てば思い出すかもしれない」
彼女はそう言うしかないんだろう。
でも、「時」なんてもういくらもないからセントエルモの火は現れたんだろうし、思い出せる思い出せないというレベルじゃなく、存在すら感じないこの感覚は今は僕にしかわからないものだ。
「そろそろ、お別れみたいだ」
セントエルモの火と遭遇した日でも、変わらず時間切れはやってくるものらしい。ガラス板に水でも流すみたいに眼前の光景がぼやけはじめて、僕はあっちの世界への帰還を悟る。
「あと何回、僕はこっちの世界に来れるのかな」
「アマミヤくん次第だよ」
「僕が、セントエルモの火を、どれだけ無視できるか」
「そう……だね」
「……僕が自殺しないっていう可能性は、もうないの?」
彼女は答えなかった。シルクの白装束をひらりとなびかせながら踵を返して、俯いたまま自分の船に戻っていった。
わかってる。それが答えだ。彼女は僕ではなく、来世の僕の姿をした死神なんだから、僕が自殺する運命にあるのはもう覆りようのないことだとわかっている。誰よりも、彼女が。……一体どんな気持ちなんだろう。
「できることなら、もう一度会いたい」
背中を向けたまま小晴さんは、意外な言葉を口にした。
「次に出逢う時、出逢っちゃう時……たぶん、アマミヤくんの……限界の時だと思う」
「そうだろうね。僕もそう思う。僕は、もう、長くない」
「うん……。でも、嫌だ。わたし、このままは嫌だ」
僕は眉をひそめて彼女の後姿を見つめた。
急にどうしたというのだろう。今まで比較的淡々としていた小晴さんが、妙に感情的になっているように見える。
感情……なんてないんじゃないだろうか。だって彼女はただのセントエルモの火。これから生まれる僕そのものなんだ。彼女自身が言っていたことだ。セントエルモの火は……ただ死を知らせる不吉な光でしかないんだ。
「ねえ、アマミヤくん」
もう時間がない。世界が白く霞み始めているおかげで、彼女の声色から感情を判断することはできなかった。
「できるならもう一度、会おうね。自殺の日より前に」
「……そうだね、できるなら」
「わたしにもきっとまだ、できることがあるから」
小晴さんにできること……?
死の光を僕に浴びせるためだけに現れた小晴さんが、僕のためになにかをすると?
よくわからないけど、その必要はないよ小晴さん。小晴さんが一番わかってることだろ。僕は自殺の運命から逃れられないし、誰かに救ってもらおうとも考えてない。もう死を受け入れてるんだ。だから君が現れた。そうだろう?
「今更死ぬことは怖くないよ。自分から覚悟して死のうとするんだから、当たり前だ。でも死ぬ前に、僕は自殺するしかなかった前世の僕たちの話を聞いてみたい。みんなそれぞれ全然違う十七年間を歩いてきたんでしょ? なのにどうして自殺なんかしなくちゃならなかったのか、知りたい。話を聞きたい。そして死ぬ前になんとかして十二番目の僕のことを知りたい。なんでかな、すごく大事なことのような気がするんだ。なにか、十二番目の僕に、この輪廻の秘密があるような気がする」
やはりこちらに背を向けたまま、小晴さんは幽かに頷いた。視界の表面を滝のように流れていく水が、彼女の後ろ姿も船もセントエルモの火も遠のかせていく。
「そうだね。たぶん今までの君たちは、みんなそうしてきた。たぶん――必死に、この輪廻を止めなきゃって」
そう、できることなら僕で終わりにしたい。小晴さんにまでこの自殺の運命を背負わせたくない。
僕が自殺さえしなければ、済む話なのか。でも、それは、むりだ。あっちの世界に戻った僕にとってはもはや生きていこうとすることがなにより難しい。
「小晴さんは、どうして十七歳で自殺するの?」
これが恐らく最後の質問だった。もし僕が死ぬ時まで彼女に出会えないというのなら、今ここで聞いておかなければならなかった。
「……まだ生まれてもいないわたしに、小晴としての記憶はない。けど」
その時小晴さんはたぶん僕の方に向き直った。怒涛の水流に押し流されていたけれど、それだけはわかった。
「セントエルモの火は、自分の死因のことはようく覚えてる。でも、わたしの自殺の原因を知ってどうするの? 君は来世の君を救うことはできないし、知ったところで運命を嘆くだけだし、君が小晴に転生する時にはぜんぶ忘れてる。意味ないよ、わたしのことなんて。……わたしはね、そんなことよりも――」
でも、小晴さん――。
呼び止めようとした僕の声は、もう声にならなかった。僕の声や意識がこの世界からぺりぺりと剥がれていき、あっちの世界へとかき混ぜられるようにして帰っていく、いつもと同じ感覚に僕は見舞われた。いつも通り、流れに逆らうことなどできなかった。
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