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君は僕に似ている
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しおりを挟む井名里礼良に個性はなかった。嫌うべき個性が。なのに、誰もそれを疑問に思っていない様子だった。おかしかった。なにかが。なにもかもが。
実冴自身、普通でない子供時代を過ごしたので、何が『普通』なのかは分からなかった。けれど、礼良が普通ではない事だけは分かった。
その日も夜遅くなってから帰ってきた母に聞いた。あの子は何? 私はあの子はあなたや父親に大切にされて、ちゃんと愛されて幸せに暮らしていたとずっと思ってきた。けれど違う。あの子は絶対幸せなんかじゃない。
問い詰める実冴に、響子は最初、はぐらかそうとした。それを実冴が許さないと分かって、観念したように昔話を始めた。
そして、実冴は求めていた答えではないけれど、もう一つの知りたかった事の答えを得ることが出来た。
母親がどうして、自分が産んだわけでもない男の子を自分の子供よりもかわいがっていたのか、かわいがろうとしていたのか。いつか知るだろう真実から護ろうとしていたのだと。けれどそれは、間違っていた事を。
北條が、母親が、我が子ではない弟をかわいがっている姿を実冴はそれまで一度も見たことはなかった。人づてで聞くだけだった。けれど兄の優希は違った。
いつもその光景を見つづけていた彼は違った。
実冴は知らなかったけれど、礼良はとにかく非凡な子供だった。北條の学術機関の人間が足繁くその学力や能力を測ろうと通う程にIQが高く、二歳の頃には難しい数学の方程式を暗記して、言葉を話すのとほぼ同時に文字を理解して新聞を読むことが出来るようになっていた。辞書や辞典を好んで読んで、その内容を丸暗記する事は、同世代の子供が童謡を覚えるより容易気にやりつくした。
当然、周りの大人たちは──北條も含めて父親、その取り巻き、父の政治仲間、政治記者といった難しい話を難しくする事が大好きな偏屈な大人たちに、礼良は大いに受けが良かった。父親の膝に行儀良く座って、政治の大局について語り合う大人たちに時折鋭い意見を言って驚かせ、やってくる学者とナビエ・ストークス方程式の数値シュミレーションを議論したり、チェスや囲碁、将棋をすれば常人では見通せない千手以上先まで読み、あっと言う間に大人を追い詰める。
誰もが礼良を認めて、褒め讃え感心する。誰もが認める天賦の才能を持つ弟。
九歳も年の離れた弟が、自分を凌駕するという恐怖。己が必死で努力して何かを手に入れても、小さな弟はにっこりと笑ってこともなげに塗り替える。優希にはちっとも理解できず、呪文のようで分からない政治や経済の問題でさえ、小さな弟は大人たちと対等とまではいかないまでも充分に議論できるだけの知識を持っていた。無限の吸収力で、世の中の全てをその中に取り込めるような、底知れない才能。自分より劣っていなくてはならないものが、自分より優れていて、自分より居心地のいい場所にいる。いつか自分が要らないといわれる、そんな恐怖。
実の母である人は、当然のようにあなたは兄なのだからと我慢を強いて、当然のように、己の息子ではない弟をかわいがった。
嫉妬。羨望。恐怖。
そして、一番残酷な方法で優希は礼良を傷つけた。目の前の小さな子供は全てを理解するのだと知っていながら、ただ傷つけることを目的に吐かれた言葉。
響子が、自分が間違っていたのだと後悔の涙を流す姿を初めて見た。
礼良はもちろん、優希を傷つけたのは自分だと。そのころ優希はもう中学生だった。北條が声をかけてもうるさそうにするだけで、井名里の家に行っても彼が北條のところに来ることはなかった。男の子なのだからもう母親に干渉されるのは嫌なのかも知れないと勝手に思い込んで勝手に理解した。北條は次第に、優希に声をかけることはなくなった。
母親を敢えて無視することが、構って欲しいと言うサインだと響子は気づかなかった。
そんな響子の告白に、実冴は違うと叫んでいた。
悪いのは、あなたじゃないと叫んでいた。
悪いのは、自分だと知っていたから。
ある時たまたま、久しぶりに会った兄に、その残酷な事実を教えたのは実冴だったから。
実冴自身、誰かに教えられたのだ。
誰かに与えられた毒を、そのまま、いや、何倍にも濃縮して致死量を高めて、優希に伝えたのは自分なのだから。
十七歳の実冴には、そんなことをしたらどうなるかくらいのことなど簡単に想像できる。けれどあの頃の自分は、そんなことを想像する事さえ出来なかった。ただただ、誰かを傷つけたくて仕方なかった。
ごめんなさいと泣くより他に、実冴が取る事が出来る術はなかった。
そんな実冴を抱きしめて、響子はただ、いいのよと抱きしめてくれた。抱きしめたまま、話を続けてくれた。
響子が、弟が兄に、異常に怯えていたことを知ったのはその事件の後だった。
おそらくその時、彼の中の何か大事な部分が死んでしまったのだと、その時のことを話しながら泣く母親を実冴はなすすべもなく抱きしめ返した。
無邪気になついていた子供は、いなくなった。向上心の塊のようだった子供はいなくなった。自分を殺して、必死で普通であろうとする姿だけだった、と。
そして、ようやく分かった。
一人になった礼良の顔。
その顔は、死んでいるみたいだった。
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