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キス xxxx
8-3 真実
しおりを挟む井名里の家が、井名里数威が、袱紗(ふくさ)を持った十歳程度の子供を捜していることを知って、真礼がそうであると連絡を入れたのは自分であると。病気を理由に親に捨てられた真礼を。お金さえあれば、生き延びることができる真礼を。
孤児。ただそれだけの理由で適切な治療が受けられない真礼をただ救いたかったのだと。
入退院を繰り返して、徐々に死へ向かうことを受け入れて、にっこりと笑って、眠る前におやすみなさいではなく、ばいばいと言う少女に未来を与えたかった。
だから、真礼と同じ時期に引き取ってすぐに死んでしまった男の子が持っていたそれを、彼女のものだと偽って。
必要な書類は、全て偽造した。その行為が法に触れることを知りながら。いつか真実が知れる時を恐れながら。
何も知らずに、ただ現れた肉親に喜ぶ真礼に、何も言うことができなかった。自分と同じに、真礼に嘘を吐かせることができなかった。自分ひとりが黙っていれば誰にも分からないことだから。
そう思ってきたのに、真礼が子供を生んだことを聞いたのだ。誰の子供なのか。真偽は確かめられない。けれど残酷なうわさに上る父親の名は井名里数威。
自分が真実を言えば、もしもそのうわさが本当だったとき、その罪は雪がれる。けれど、今真実を言って、井名里家から莫大な寄付をもらってやっと子供たちに満足な環境を整えることができたのに、それが全て嘘だったと伝えたら。
そして、自分は自分の益のために口を噤んだ。
死ぬまで誰にも言わないつもりだった。
けれど、もしも自分が死んだとき、この世の誰もこの真実を知る人間が消えたとき。
自分の吐いた嘘が、真実になったとき。
それさえも怖くて、文字に残したのに、何度も捨てようとした。燃やそうともした。けれど、消すことができなかった。
最後に震える文字でただ詫びる言葉と、自分に代わって燃やしてくれるように。それだけ書かれてノートは真っ白になっていた。
「……ここんとこお前が休みの度にどこかに行ってたのは、コレ捜すためだったのか?」
「うん」
問う声は低かったけれど、見上げた井名里の顔が笑っていたので、夏清がやっと安心したような顔になる。
北條に宛てられた手紙にはただ、優しくしてもらった礼と、もしも無事に子供が生まれてきたのなら、その子にも自分にしてくれたのと同じように、優しくしてほしいという願いが、それだけが綴られていた。
そして井名里数威に宛てられた手紙には、自分が知っていたことを、井名里の家の子供ではないことを、成長するにつれて思い出したのだと。
自分には確かに両親がいて、病気を理由に病院に置き去りにされたことを思い出したのだと。
それを読んで、夏清は探したのだ。
真礼のほかにいたはずの、その真実を知る人物を。けれどその人はもう亡くなっていた。その人の家族に頼んで、蔵に整理もされずにつっこまれていた遺品の中を、捜した。
「絶対にね、あると思ったから」
「別に、今じゃなくてもよかっただろう」
ノートをおいて、井名里が大きな手で夏清の頭をぐしゃぐしゃにする。
「それがねぇ、春に家を建て替えるとかで、雪がなくなったら蔵もそのままつぶすから要らないものつっこんであるって言われちゃって」
今しかなかったのよねと実冴が苦笑する。
「でもね、それがなくても多分私、捜してたよ。いいことはね、絶対絶対、早いほうがいいもん。だからあの日あの後こっそり実冴さんに電話して、色々手伝ってもらったの次の週にもう一回病院に行って、そしたらすごいことが分かって」
「でもこの手紙は親父殿宛てのラブレターだったからねぇ。思い込みってこともあるからって、決定的な証拠を捜したわけ。捜したのは夏清ちゃんだけだけど」
「最初はね、先生はちゃんと必要とされて生まれてきたんだよって、だってそうじゃなきゃ、子供を産んだら絶対死んじゃうって分かってるのに、産めないよ? でも真礼さんは先生のこと産みたかったんだもの、そういうの、伝わる何かがあったらいいなって、そう言うのだけだったの。でも、捜したらもっともっと、最初からきっと幸せになれることがあったんだもの。もう、ずーっと言いたくて言えなくて、ほら、そんな気持ちじゃ絶対試験なんか受けられないでしょう?」
放っておいたら髪の毛をめちゃくちゃにされそうで夏清が両手を挙げて井名里の手を取って一気にそう言う。
夏清の言葉が終わると同時に室内に無機質な携帯電話の着信音が響く。背広の内ポケットから電話を取り出した井名里数威は短い会話の後、無言のまま立ち上がった。
「あら、もう時間?」
「ああ」
「送っていきましょうか?」
「いや。下まで迎えが来ている」
「そう。まあでも、下までくらいなら送るわよ」
「あ、私も」
立ち上がる実冴に、夏清があわててついていくことを宣言する。
今日はずっと座っていたし、前に逢ったときは距離と高さがあったせいで分からなかったが、井名里数威もとても背が高かった。複雑な表情で向かい合って数秒の無言。そのまま何も言わずに、差し出される井名里数威の右手には、手紙。
「……返しに来るのはいつでもいい。そのときには、私の方の整理もついているだろう」
「いいのか?」
「……ああ。ノートも、見つけ出した人間が持っているべきだろう。本当ならもっと早く、こんな誤解は解けていた。あの絵を、真礼が私にくれるといったあの絵を、自分の罪を思い出すことが怖くてそのままにした私のせいだ」
真実がいつも人に優しいわけではない。むしろいつも、真実は人に厳しい。だからといって、目を逸らしてはいけなかったのだ。
それだけを言ってコートを羽織り、出て行く井名里数威の後ろを実冴と夏清が追いかける。
「こっちも、読むといいわ」
手紙を持ったまま、誰もいなくなった玄関の方を見ていた井名里に、北條が自分宛の手紙を渡す。
「……一度だけ、あの子が、真礼が泣いたのを見たのはたった一度だけだったのよ。どんなに苦しくても痛くても、いつも大丈夫、平気だって笑ってる子だったの。病気だからという理由だけで大切にされていることを知ってる子だったから、自分が泣けば私たちは何でも言うことを聞いてくれるだろうって知ってる子だったから、わがままを言ったのは一回きり」
小さく微笑む北條の頬に、涙が伝う。
「あなたを産みたい、数威さんの子供がほしい。あのときだけ。あの子はきっと、私たちがこんなに長い間苦しむなんて思ってもいなかったんだわ。自分が死ねば、この手紙が見つかって、誰の罪も雪がれるって信じてたんだわ」
井名里の手を取って、手紙を重ねる。
「夏清ちゃんの言うとおりね。あなたは本当に、必要とされてたのよ。あなたとあの子が一緒にすごせたのは、たったの八ヶ月くらいだったけれど、きっとその八ヶ月は、あの子にとって一番大切な時間だったんだと思うわ。あなたが生まれるずっと前から、いつもあの子はあなたの名前を呼んでいたもの。アキラなら、女の子でも男の子でも大丈夫でしょうって。歌うみたいにずっと、あなたの名前を呼んでたのよ。自分のお腹に向かって。絶対に産んであげるからって」
手に、手紙に、涙が落ちる。
「どうしてこんなに大切なことを、もっと早くあなたに言えなかったのかしら。あの子が数威さんのことを本当にずっとずっと好きだったことも、あの人が真礼のことをを本当にずっとずっと好きだったことも私は知っていたのよ。知っていて結婚したの。結婚も離婚も家同士が決めたことだったけれど、やっぱり私自身が、あの人のことが好きだったからそうしたのよ。私は、あの人も、あの子も、あなたも……みんな好きなのに、やっぱりどこかに蟠(わだかま)りがあったのかもしれない。やっとこうやって、言えたのは……」
「もういいですから、なんにも言わないで泣いて下さいよ」
そっと、腕を伸ばす。昔のようにその肩に。小さかったころはとても大きく感じたのに、北條の肩はいつのまにかとても小さくなっていた。
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