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キス xxxx
5-5 想い
しおりを挟むぱちん。
聞きなれない音に目が覚める。
天井を見上げて、しばらくぼんやりとして、ここがどこだったかを思い出す。
そっと抱きしめられて、ちょうどいい体温に包まれて、いつのまにか眠っていた。
指が埋まるほど長くて柔らかい絨毯に手をついて、起き上がる。そっと、隣で眠ったままの井名里を起こさないように。一緒に包まっていた、やっぱりとても柔らかい毛布をそっと掛けなおす。
何も着ないで何もしないで、ただべったりとくっついていたことなど、これが初めてだ。なんだか初めてのことばっかりで、なぜか笑いがこみ上げてくる。どうしていいのか分からないくらい混乱すると、笑ってしまうものなのかもしれない。
そして気付く。井名里がしっかりと寝入っているところを見るのも、初めてだと。朝布団から出てくるのは確かに夏清よりずっと遅いけれど意識を覚醒させるのは夏清よりも先だ。大抵ぐずぐずとしているけれど熟睡しているところは見たことがなかった。
疲れきったような顔で。あたりまえだ。おそらく彼も、昨日は一睡もしていないのだ。その上長距離を運転して、晴れていたとはいえ夏清に逢うまでずっと屋外にいたのだろう。
それだけではない。彼をここまで疲れさせたのは、多分自分だと夏清は思う。あの告白には大量の気力が必要だったに決まっている。そして、返す言葉の見つからない自分がここにいる。彼の過去を、ただ黙って聞いていることしかできない自分が。病院と同じように、場所が変わっても夏清は井名里を抱きしめることしかできなかった。頭の中でぐるぐると回る言葉は一つも音にならなかった。
熟睡している井名里を見ながら、ゆっくりと今日のことを思い出す。ひとつずつ追いかけて整理して、そして井名里が起きたら、ちゃんと笑っておはようと言えるように。
外にあるボイラで沸かした湯を循環させてあるので、本当は暖炉に火をつけなくても家の中はどこも暖かくなるのだが、寒かったら困るからと滞在を知らせるために途中で立ち寄った、別荘の管理人が灯油のほかにマキを二束分けてくれた。
だいぶ炎が小さくなった暖炉に、立てかけておいたマキを加える。見上げた高い天井で大きなファンがゆっくりと回りながら空気を混ぜている。
あまり近くによると、折角寝ている井名里が起きてしまいそうで、ほんの少し離れた場所にまた正座の足を両側に崩したような座り方をして、いつのまにか体から外れたバスタオルを肩に羽織る。
ぱちん。
薪のはぜる音がまた、背中の向こうから聞こえる。薄暗い室内に、紅い影がふわりと揺れた。
眠る井名里の顔をじっと見つめる。この人はどのくらいの時間、人生の長さ、一人で生きてきたのだろう? 大勢の大人に囲まれながら。たった一人の孤独の中で、生きてきたのだろう。
どこにもない自分の居場所を探しながら。どのくらいの時間、一人で出口を探しながら。
いつになっても決して癒えない、ふさがらない傷を持ったまま歩いてきたのだろう。
そんな孤独なんか欠片も見せないで、なにも気づかせないで、夏清に居場所をくれた。ここに居ればいいと言ってくれた。
祖母が亡くなってから、一人で生きていた間、井名里に……本当の井名里に逢うまで夏清はずっとずっと、助けを求めていた。こうしないと生きていけないのだと自分自身に言い訳をしながら、風俗でバイトをした。
でもずっと探していた。
そんなことはやめろと言ってくれる人を。
そんなことまでして生きなくていいと言ってくれる人を。
お前は間違っていると、言ってくれる人を。
夏清を、自分自身を必要としてくれる人を。たった一つ、夏清だけを必要としてくれる人を本当は探していた。求めていた。
一人でいい、そう思いながらその孤独に押しつぶされそうだった。息の仕方さえ時々分からなくなるほどに、目の前が突然真っ暗になるほど、何も感じることができなくなるほど夏清はどんどん袋小路に追い詰められていく自分を感じながら、止まることができなかった。
初めて井名里の家に行ったとき。
やめろと、言ってくれたとき。
ここに住めばいい、そう言ってくれたとき。
帰ろうとした自分を、引き止めてくれたこと。
やさしく名前を呼んでくれたこと。
暖かいキスを、たくさんしてくれたこと。
しっかりと生きているフリをしながら、間違った道を進んでいた自分に、たどり着く場所をくれた。
大きな手のひらは、とても温かくて。
叔父や従兄に乱暴をされたことも、風俗で働いていたことも、夏清は絶対誰にも言えないと思っていた。いつか誰か、本当に好きになった人、好きになってくれた人にも絶対に。
その傷も罪も、全部一人でしまっておかなくてはならないと思っていた。
そんな自分は、自分で殺して生きていこうと思っていた。
けれど井名里は、全部受け入れてくれた。なんでもないことみたいに。
何もかも知っても、自分への想いを変えずにいてくれた。
初めて、優しい顔をした井名里を見たとき、キスしていいかと聞かれて、なぜだか分からないけれど頷いていた。
あの時は本当に、どうして拒まなかったのか分からなかったけれど。
今なら分かる。
全部嬉しかった。
夏清が無意識に求めていたものを全部くれたのだから。
何もかも全て。
名前に力をくれた人。どんなに素晴らしい名前でも呼ぶ人がいないのなら意味がないことを教えてくれた。その声で。
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