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キス xxxx
5-2 想い
しおりを挟む「俺は、二歳の夏……が終わったころだな」
そう、季節まではっきりと覚えている。一番深く刻まれていて、忘れることができないもの。自分の記憶として認識する中で、一番鮮明なもの。夏休みの間ずっとどこかに行っていた兄が帰ってきたと聞いて、それがただうれしくて階段を上がる兄を追いかけた。兄の部屋は二階に、小さかった井名里の部屋は一階にあって、足早に階上へ向かう兄を呼びながら。
階段の中腹で立ち止まっていた兄に、這うようにして階段を上って追いついて、数日前に北條からもらったおもちゃを見せて一緒に遊んでと言おうとしたとき、怒鳴られた。
『うるさい!! ついてくるなっ!!』
その言葉と同時に、体が浮いたのも全部覚えている。頭が大きくてバランスの悪い子供の体は、確実に頭から落ちる。突き落とされたと分かったのは、体が地面に当たってからだった。
火がついたように泣く子供の声に、使用人たちが現れて、すぐに救急車で病院に運ばれた。床も階段もじゅうたんが張られていたおかげで大事には至らなかったけれど、その日から井名里は兄が怖くなった。
それ以前のことははっきりと覚えているわけではないけれど、少なくともわけも分からないまま弟を突き飛ばすようなことはなかった。それからは顔をあわせるたびににらまれているようで、それまで優しくはなくても意地悪ではなかった兄がどうしてそんな風に変わってしまったのか、その理由が小さかった井名里にはまったくわからなくて、ただ怖かった。
彼が中学に進学して寮に入ってしまってからも春と夏と冬、兄が帰ってくるころになるととたんにおとなしくなってしまう弟。
兄が帰ってきたことを知ると部屋からほとんど出なくなる弟に継森がいつも気を使ってくれて、なるべく逢わないように仕向けてくれていた。
けれどその日は、兄が帰って来ているとは知らなかった。知らないまま、北條がやってきたことを知らされて玄関まで北條を迎えに走った。
「……その日までずーっと、ずっと俺は響子さんが自分の母親だと思ってたんだ」
月に一度、来るか来ないか。けれどいつも来るときはおもちゃやぬいぐるみやお菓子を持ってきてくれる北條が、小さかった井名里は本当に好きだった。会わなかった、それまであった出来事を一生懸命しゃべるのをいつも退屈そうにすることなく笑って聞いてくれた。お母さんと呼べば、優しく微笑んでなあにと応えてくれた。
だからその日も、井名里はお母さんと呼びながら北條のところに駆けていった。元気だった? 怪我や病気をしてない? そう聞いてもらえるのがとてもうれしかった。
北條にべったりとしがみついたとき、二階から優希の声が聞こえた。
離れろと。その人はお前の母親ではないと。
その人は、お前ではなく自分の、自分だけの母親だと。汚い手で触るなと。
一瞬で一階に降りてきた優希に、強引にはがされた。そのまま突き飛ばすように。訳が分からなくて座り込んだまま言葉の出ない井名里に、優希が言った言葉を今でも全て思い出せる。
『お前は父と、その妹との間にできた要らない子供だ。生まれてきただけでお前なんか汚れてるんだよ。お前なんか生まれてこなければ良かったのに!』
言われた言葉は全て理解できた。時折父親に連れて行かれた政治家たちの集まりで交わされる言質の取れない会話よりもそのストレートな言葉はずっとよく分かった。
「今は立派に普通だから、信じなくていいけど、俺が三歳くらいのころに誰かにどっかに連れて行かれてな、そこでテスト受けさせられたんだ。IQの。その結果がすげぇ高かったらしくて、家にもどこかの偉い学者だとか、教授だとかが来てイロイロ変な質問するんだよ。ちゃんと答えられたらみんな褒めてくれるし、より高度なものを求めてくるから、最初のころはそれが面白くていろんな公式を覚えたり、文章を暗記したりして遊んでたんだ」
そうだ。小さかった井名里にはその全てが遊びの延長線上にあった。小さな子供が難解な漢字を読み、その意味もしっかり理解しているのだ。大人でさえよほどの数学好きでないかぎり解けない数学の問いをものの一分とかからず解いてしまう。しかも公式が全部頭の中に入っているのだから、紙に書いて計算することなく暗算だ。父親が読んでいる経済誌を読みふけり、六十を超えた大物政治家相手に政治経済について語ることができる子供。五つになるころには彼はさまざまな場所で『天才児』と呼ばれてもてはやされた。
「そのころの愛読書教えてやろうか? 広辞苑だよ広辞苑。アレが一番面白かったんだ。読んでて」
井名里の家にあった広辞苑は第一版だった。今でもその広辞苑の何ページに、調べたい言葉が載っているのか知っている。丸々一冊頭の中に入っているので、辞書は今でもいらない。
だから知っていた。
兄妹の間の子供、と言うものがどういうことなのか。
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