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キス xxxx
3-7 歌
しおりを挟む「なんか、愛が足りない感じよね。タダでカニ食べてるんだからそのくらいお返ししてくれてもよさそうなのに。鶴以下?」
「なら呼ぶなよ」
「だって! ああほら忘れかけてた。ものすごく大事な用があったのよ」
「はにのほはに?」
「夏清ちゃん、ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」
飲み込むよりも速いペースでどんどんカニを食べさせられていた夏清がまぐまぐと口を動かす。飲み込んで、もう一度。
「カニのほかにもなんかあったの?」
「あったの。食べる前に言うとご飯マズくなるような話題が。アンタちょっときなさい」
立ち上がった実冴に井名里が嫌な顔をする。
「私は、別にいいけど、ここでも」
含みのある言い方にしぶしぶ井名里が立ち上がる。夏清がなに? と公に視線で聞いてもさあ? と返された。知っていてもいなくてもこの人は同じような反応を返せるから怖い。
二人がダイニングの隅で会話を交わして三秒後、井名里の怒鳴り声が聞こえる。それに負けず劣らずの音量で、実冴が言い返していた。
「だから!! 私に言ってもしょうがないでしょう!? またとか言わないで」
「じゃなくて、何でお前が知ってんだよ?」
「本人から電話あったんだからしょうがないじゃない。礼良君にすまないって伝えてくれって。私のところに連絡するのが一番速いって分かってたんじゃないの?」
振り返ってどうしたのと言う顔をした夏清を見て、井名里がため息をついた。実冴に何か言われて、諦めたように頷いている。
井名里が何も言わずに不機嫌な顔のまま、夏清を手招きで呼ぶ。
夏清が井名里のところまで行くのと同時に、実冴が何日か前の新聞を手にどこかから帰ってくる。
フローリングの床に、一面をめくって二、三ページ目が開くようにそれを広げて、しゃがみこむ。夏清もつられてしゃがんで、実冴が指を指した写真を見た。中央に総理大臣。その横に、初老とまでは行かなくても、充分に壮年を過ぎた男性。
「井名里数威。参議院議員よ。大臣とかはしてないからマイナな人だけど、党内ではそれなりに微妙な地位にいるから、それなりにあっちの世界では発言力のある……ハズよ。この人が、父親」
立ったままの井名里を見上げて、写真を見て、井名里を見る。
「このバカが情報操作してたはずだから、夏清ちゃんは知らなかっただろうけどね、こんな政治家がいることさえ」
知らなかった。実冴の言うとおり。受験に必要そうな時事情報は新聞を読むより井名里に聞いたほうが速いし、重要なものは教えてくれるので自ら調べるようなことはしていなかった。テレビがないのでニュースを垂れ流しにすることもない。別に興味がある世界でもないと言うことも原因だが。
「井名里数威の後継者は、ちゃんといたのよ。つい五時間ほど前まではね。井名里優希って言って、礼良君の兄。今三十八歳、まだ独身。大学を出てからずっと父親の秘書を続けてて、次の選挙で井名里数威は引退することになってたの。六期勤めりゃ充分でしょうよ。で、回りはみんな優希が継ぐってことで動いてたのよ。くどいようだけど五時間前までは。その優希が、国外逃亡したの」
「国外、とうぼう?」
「そ、どうして逃げたのかもどこに逃げたのかも現在不明。ただ分かってるのは、何もかも投げ出してケツまくって逃げたってコトだけ。何もかも、人に押し付けてね」
実冴が視線を上げたので、つられて夏清もまた井名里を見た。今まで見た彼の表情の中で、一番困惑していて、一番迷惑そうで、一番怒っている顔だ。
「その伝言まで人に押し付けたのよあの男は……私の番号わかるんなら直接かけたらいいのに」
ため息混じりにそう言って広げた新聞をたたみ、実冴が立ち上がる。
「多分、今やっと井名里の本家も気づいたくらいじゃないかしら。もしなにか犯罪犯しててもニュースになる前に叩き潰す可能性は高いけど、どっちにしろ優希はもう家には帰らないつもりででたんでしょうね」
「だとしても、俺は関係ない。夏清。帰るぞ」
立ち上がった夏清の手を取って、出て行こうとする井名里の前に実冴が立つ。
「だからっ! なんでわざわざウチに呼んだと思ってるのよ。今つれて帰ったらどうなるかくらい分からないの? ここでそんな弱味見せたら、そのままあんたたち物理的にも社会的にも二度と逢えないくらいのことされるわよ? 次の参議院選挙まで四年。そしたら礼良君は三十超えるから充分被選挙者だし、そのくらい経てば生徒に手を出した教師の噂なんか消えてなくなってるわよ」
「構うか。それに、先に俺はいらないって言ったのはあっちのほうだろうが。後継者なら他から探せばいい。井名里の血縁なんざ腐るほどいるだろうが」
「前とは状況が全然ちがうでしょう!?」
上着を掴む実冴を見下ろして、井名里が静かに言った。
「違わないだろう? 俺が、俺である限り。やつらが本気で俺を担ぎ上げるなんて、そんなことは、ない」
実冴の指が、外れる。
「とりあえず、あの男の手前、声をかけるのは俺から。それだけだ。俺が何をしようが、道を踏み外そうがそこらでのたれ死のうが構わないような連中だってことはお前が一番知ってるはずだろ?」
それだけ言い捨てて、井名里は夏清の手を引いて、氷川家を出た。
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