85 / 259
キス xxxx
3-4 歌
しおりを挟む「あれ? 北條先生のうちじゃないの?」
「ああ、響子さんスイスに出張中。さすがに実冴も三週間帰ってこないんじゃ使えないだろ」
いつもなら直進するはずの道を曲がった井名里に助手席でFMで流れていた曲に合わせて井名里の知らない歌を歌っていた夏清がドコいくのと尋ねる。
「ところでお前さ」
「なに?」
「………歌だけはヘタだよな」
頭がよくて、足が速くて、絵も上手い。
なんでも出来そうな夏清だが、唯一、歌だけは……下手というより根本的な所で音程がとれていない、いっそ見事なくらいの変調だ。
学校で教わる『歌』はそれなりに大丈夫なのだが、ころころと調子の変わる現代のヒット曲は、その変調っぷりが顕著だ。原曲をよく知らないのに、コレは調子が外れているなと言うことがわかるのだから大したものである。
「なっ!! ちょっと自分が上手いからってそんなはっきり言わなくていいじゃない!!」
それなりに機嫌よく歌っていた夏清がさらりとひどいことを言う井名里に悔しそうに返す。時々音程がはずれることとは、本人も気付いているので違うとは言えない。
「いいじゃないか別に。そのくらい欠点あったほうが人間らしくて」
「ひどっ!! それもっとひどいよ! コレだけはどんなやっても直らないからものすごーっく、気にしてるのにっ!!」
からかうようにカーステの音量をあげる井名里に、牙があったら噛みついていそうな様子で夏清がひどいひどいと繰り返す。
「もう歌わない。絶対歌わない」
そう言ってぷいと外を向く。窓に街灯が浮かぶたびにひどく楽しそうに運転している井名里が映る。
「音感ってのは母親の胎内にいるときからついちまうんだってさ。胎教胎教って言って音楽聴いたりするより当の母親が何気なく歌う鼻歌とかのほうが胎児にはよく聞こえるからな、コレはもう遺伝とかじゃなくて、生れる前から母親のリズムに慣らされちまうわけだから、そりゃ子供もそのリズムで歌おうとするだろうよ」
「ああっもうそれ慰めてないでしょう? 絶対、貶(けな)してる。それってなに? じゃあ私の子はやっぱり音痴ってことじゃないのようっ!! そこに先生の遺伝子とかを期待してもムリってことですか!? ねえちょっと聞いてる?」
「大丈夫大丈夫。歌わなかったらいいんだからさ、妊娠中」
「できるわけない!! ってか、それ本当の話? いつものウソ?」
調理中でも無意識に歌っているのに、どうやって通称十ヶ月、正味なところ九ヶ月くらいだが、歌わずにすごせるのだろうか。ヘタなのは自覚していても、歌うのは好きなのだ。
「さあな、でも俺の母親は、それを聞いて歌は歌わなかったそうだ。夏清の言う通り、実際のところこの話だってホントかどうか知れないのにな」
信号が、黄色に変わる。いつもなら逆に加速して通りぬけるのに、井名里が静かにブレーキを踏む。
複雑そうな顔をした夏清を見て、ニヤリと笑って。
「お前は好きなときに好きなだけ歌っとけよ。しょうがないから生れてから矯正してやるよ。俺が」
信号が再び青に変わる。
「それで直らなかったらお前のせいにしとくから」
車が再び、走り出す。
「………やっぱり、なんかムカツク」
けれどそれ以上言葉が見つからなくて、流れていたFM放送を切り、夏清はシートを三段階くらいリクライニングさせて、ふて寝の体勢に入った。
自分の母は、やっぱり同じように調子の外れたリズムで歌っていたのだろうか?
井名里は、それでも母親の歌を聞きたかったのだろうか?
聞いて確かめることのできない問いかけは、頭の中に降り積もる。いつか溶けてなくなるのだろうか? それともずっと、万年雪のようにそこにありつづけるのだろうか?
着いたぞと言われるまで、夏清のなかにゆっくりと、疑問の雪が積もっていった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
200
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる