やさしいキスの見つけ方

神室さち

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抱きしめて抱きしめて抱きしめてキスを交わそう

3-4 夏休み

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 それでも朝が来て。まだ四時半。けれどすでにほの明るい。
 講義は九時から始まる。間に合わせるためのギリギリの時間まで、井名里は夏清を起こさなかった。
「それじゃあ」
 車に乗り込んだ井名里を、夏清が見送る。
 ウインドウごしに、何度も何度もキスをして。
 井名里のシャツの、肩を掴んだまま、夏清が離さない。
 その心細そうな瞳に、井名里は振り払えない。エンジンはとっくに温まっているのに、足はブレーキを踏んだままだ。
「夏清」
 名前を呼ばれて、夏清が首を横に振る。離すのは嫌だと。
「今日と、明日。明日の晩には迎えに来るから」
 諭すように言われても、手が離せない。体を屈めてすがるようにキスを求めてくる夏清にキスを返しながらその頭をなでた。
「電話するから」
 夏清が頷く。
「もう行かないと」
 泣きそうな顔が左右に動く。やっとの思いで、と言った感じで夏清が口を利く。
「……やだ。先生が困ってるのわかる。でもやだ。行かないで」
 見送るのがこんなに辛いなんて思わなかった。十日ほど前にも研修に行く井名里を見送ったけれど、あの時はこんなに辛くて悲しくなかった。だから平気だと思っていたのに。
「……なら行かない」
 はっと、夏清が顔を上げる。
「……なんてな。分かってるだろう?」
 やさしい瞳でそう言われて、ゆっくりと夏清が手を離した。
「大丈夫、帰ってくるよ。お前のところに」
 頷く夏清にそう言って車を出す。誰も居なくなった駐車場で立ち尽くす夏清を、バックミラーに映しながら、車が遠ざかっていった。
 車内で、井名里が舌打ちをする。
 顔を上げた夏清の表情。
 あそこで嬉しそうにされたら、きっと自分は残っていた。けれど夏清の顔は、複雑にゆがんでいた。少なくとも嬉しそうではなかった。
 行かないでほしいと願いながら、けれど行かなくてはならないことを知っていたから。井名里が自分のわがままに付き合って、立場を悪くすることを夏清が望んでいるわけではない。
 二日なんて時間はきっとあっという間だ。そう自分に言い聞かせながら、井名里はアクセルを踏み込んだ。


「気になるのは分かるけど、少し落ちついたら?」
 壁の時計を見ながらうろうろと室内を徘徊する夏清に、実冴が苦笑する。北條もすでに退院して、さすがに部屋で休んでいる。
「うん……」
 実冴の子供達はまだ元旦那のところに居るらしく、毎日電話がかかってきているようだが、時間を持て余す時はあのやかましいチビどもが居てくれたらと思ってしまう。
「実冴さん、子供と離れてて平気?」
「全然平気、って訳じゃないけど、あの子達が父親と居たいと思うのなら、私が母親だからって、だめとは言えないでしょう? 夏休みの宿題も夏清ちゃんに見てもらったお蔭でほとんど終わってるわけだしね」
 冷たい麦茶を二人分入れて、ダイニングのテーブルに夏清を座らせて実冴が答える。
「私達は別れて他人になれるけど、子供たちの親は私達しかいないもの。別れたのは私の勝手だしね」
「どうして別れたか、聞いていい?」
「あー 別れた理由? 簡単簡単。私がコウちゃん……旦那の母親と全然合わなかったの。今にして思えばあの人が私のことだって大事にしてくれてたことくらい分かるけど、あの時はダメだったのよ。誰も彼も私の味方はいないような気がして、なんにも信じられなくなって、自分にも自信がなくなって別れちゃったのよ」
 なんでも自分の思いどおりに生きているような実冴が、自嘲気味に笑う。
「先生のとこは、どうなんだろう」
「礼良君? 礼良君のところは……」
 実冴がうーんと唸る。
「先生のお母さんがいないのは、この前の旅行の時聞いたの」
「え!? アレが自分から母親のこと言ったの? マジで!?」
「う、うん……名前の話し、してて」
 夏清が怯えるくらい、実冴が驚いている。
「マーヤさんのこと? 自分で? はー……大した進歩だわ」
「そんな、すごいこと?」
 身を引いている夏清に気付いて、テーブルについて身を乗り出していた実冴がごめんごめんと座りなおす。
「うん。すごいと思う。少なくとも私はヤツの口からマーヤさんの事を聞いたことないから」
 落ちつこうと、実冴が麦茶を飲み干して一息つく。
「ま、構わないんじゃないの? 礼良君は次男だし、家のほうはもう長男が継いでるもの。井名里の家もかなり複雑だけど、それは、私が喋っていいことじゃないしねぇ……マーヤさんのこと言えるくらいになってるなら、きっとそのうち自分で話すでしょ」
 実冴なら教えてくれそうだと思ったけれどその会話はそれで終わった。実冴にそれ以上話す気がないことが分かった夏清はもう触れることはできない。
「あ、来た」
 夏清が立ちあがる。
「え? 分かるの?」
 問い返した実冴に応えず、夏清が走って玄関に行くのと玄関のドアが開くのとがほぼ同じ。
「うわ」
 いきなり夏清にしがみつかれて井名里がたたらを踏む。
「すごー……ぴったり。夏清ちゃんセンサーついてんじゃないの?」
 呆れた様子で実冴が素直な感想を言う。
「待ち構えてたんじゃなくて?」
「さっきまでダイニングで喋ってたよ」
 てっきり待っていたからこのタイミングだと思った井名里が夏清をぶら下げたまま実冴に聞くと、なぜか偉そうにふふんと実冴が笑う。
「夏清ちゃん、荷物これだけ?」
「これだけ」
「これだけってお前ら……」
 玄関には山のように荷物が積まれている。前日より増えているような気がして井名里がうんざりしたような顔をしている。
「今日も買い物行ったもんね」
 二人でねーっと言い合っている。
「病人置いといてどこ行ってんだお前ら」
「だって、お母さんずっと検査だったんだもの。だったら時間は有効に使わないと」
 再びねーっと言っている二人に呆れながらも、井名里が手当たり次第荷物を持つ。
「ほれ、帰るぞ」
「うん。じゃあね、実冴さん」
「またねー」
 笑顔で二人を見送る。目の前でドアがとじるまで。
「まぁびっくり。人間変わる時って変わるのかもねぇ」
 先ほどまでの笑顔は、さっぱりと実冴の顔から消えていた。
 嫌がる彼を無理やり真礼の墓に連れていったのはどのくらい前の話だろう? あの二人が彼女の墓の前に立てる日は、どのくらい先の事だろう?
「そりゃ私も、年取るわけだよ」
 ため息をついて、実冴がつぶやいた。
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