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抱きしめて抱きしめて抱きしめてキスを交わそう
3-3 夏休み
しおりを挟む井名里が、北條の借りている月極め駐車場に車を止める。北條は、駅から徒歩三分ほどの場所にビルを持っている。一階にコンビニが入り、二階が北條の経営する学習塾。三階と四階が自宅になっている。
もらっている鍵で家に入り、電気をつけてエアコンを入れる。
病院から帰る途中でテイクアウトした牛丼を食べて、シャワーを浴びて、見るともなしにテレビをつける。ソファに座る井名里の足の間に夏清が挟まっている。井名里が今着ているスウェットは、夏清が今日買ってきたものだ。
「そう言えば」
不意に喋り出した井名里を、夏清がさかさまに見上げる。
「夏清のおばあさん、夏休みだったっけ? 亡くなったの」
夏清が頷く。
「いつ?」
亡くなった日を問う井名里に夏清が首を横に振った。テレビの方に目を向けて、小さな声で、つぶやくように『知らない』と言った夏清に、井名里が驚く。
「知らないの。記憶があいまいでよく覚えてないの」
夏清が膝を抱えて俯く。
祖母が亡くなる直前までの記憶も、なんだかあいまいにしか思い出せない。ただはっきりと覚えているのは、いってきますと言った夏清を祖母が笑って送り出してくれた。いつだって、夏清が帰る家は一人暮らしをしていたアパートではなく祖母の居る家だった。だから、あの日もそう言って、夏清は家を出た。
「いってらっしゃい。気をつけてね。夏清」
最後の言葉になるなんて思わなかった。何気ない言葉。
何も知らずに夏清はアパートに戻り、昼間はバイトに出ていた。その日もバイトに行こうと支度をして、家を出ようとしたそのとき、電話が鳴ったのだ。
夏清の住んでいたアパートに引かれた電話番号を知るのは、祖母一人きり。なんだろうと思いながら電話に出た夏清に、掛けてくれた隣のおじいさんが、やっぱり知らないのかと不憫そうにもらした。
夏清の電話番号は、居間に張ってあったはずだ。けれど親戚は、叔父や叔母達は夏清に連絡をしてくれなかった。通夜にも出てこない夏清のことが心配になった他人が、それを見て電話をくれたのだ。
庭で倒れて、そのまま亡くなったのだと、これから葬式だと言われて、なにがなんだかわからなくなった。そのまま電車に飛び乗って、それでも二時間半が経って。
夏清がついたとき、ちょうど出棺するところだった。けれど棺の周りには、叔父がいて従兄がいて、叔母がいた。喪服や制服姿の中で、一人私服だった夏清は、多分目立っていたと思う。
それから、どうやってアパートに帰ったのか、全く覚えていない。
ただもくもくと、バイトに行って、参考書を読んで、問題集を解いていたら夏休みが終わっていた。
新学期が始まって、学校に行けばだれも夏清の身の上に起こったことなど知らなくて、一学期の終業式に別れた時と同じように接してくれるクラスメイトにやっと夏清の日常が帰って来た。夏清は、夏清の現実から、学校の中にある幻想に逃げた。
夏清自身気付いていなかったけれど、夏清は学校と言う単位でしか、自分で自分を認められるものがなかった。
だから、なんとしてでも『学校』に行きたかった。
一人ではないと、思っていたかった。
「夏休み……終わり、くらいだったと思うけど、覚えてないの。私、知らないの。分からないの」
道理で、連れて行ってとも、行ってくるとも言わなかったわけだ。知らなければ、どうしようもない。何とかして調べろと言うのも酷だ。今もまだ無意識のうちに、夏清は祖母の死を避けている。
「北條先生と、おばあちゃんが重なって、どうしていいか全然分からなくなったの……先生しか思い出せなくて。だから電話……先生に」
「わかったから、もういい。泣いていいから我慢するな」
座り込んで丸くなった夏清を抱き上げて、抱きしめる。夏清が瞳を大きく見開いて、次の瞬間ぼろぼろと涙がこぼれ出した。
調べれば分かるだろう。過去の新聞の地方版にあるお悔やみ欄を見れば多分すぐわかるはずだ。夏清が調べることができないのなら、調べて、教えてやるべきだろう。
そう言えば、自分もあの日まで、母親の命日を知らなかった。亡くなっていたことすら知らなかったのだから当然なのだが。あの時の自分と、今の夏清は全く情況は違う。けれど、死を死と認められない辛さは、良くわかっていたから。
一学期と同じように微笑んで、クラスメイトと話をしていた夏清しか思い出せなかった。二学期が始まってすぐに行われた県立高校実力考査も、当然のようにダントツでトップだったし、県下すべてを含めたランクもとても高くて、去年いた教頭がえらく興奮していたのを覚えている。井名里の出す問題を少し考えながら、それでも解いて見せた夏清が、その時世界で一番大事な人を亡くしていたなんて、誰が気付いただろう?
胸で静かに泣いている夏清を抱き寄せて髪をなでる。
どのくらいそうしていただろう。胸の中の夏清は、いつのまにか眠っていた。
起こさないようにしながら抱き直して、夏清が使っている部屋に連れていく。床に散らばる大量の紙袋。こりゃまた盛大に買い物をしたなと笑ってから夏清をベッドに寝かせ、体を離そうとして、しっかりとスウェットの上衣の裾がつかまれていることに気付いて苦笑する。
無理に離させる気にもなれなくて、タオルケットをかけたあとベッドのヘリに座る。
それで夏清が安心して眠れるのならば、こんな時間も悪くない。むしろ幸せなのかもしれない。
華奢な手を取って、そっと包む。できることなら、ずっと離したくはない。このまま朝がこなければいいのにと願うのは、自分だけだろうか? 夏清に行かないでと止めてほしかった。自分の都合より人のことを考えて行動しようとする夏清が、そんなわがままを言わないことを知っていながら。
それでも行かなくてはならないことを分かっていながら。
この夜がずっと続けばいい。この寝顔をずっと見ていたかった。
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