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本編
5-5
しおりを挟む押し込まれた褐色の物体は、見た目を裏切るおいしさだった。
中に甘くていい香りのするジャムが入っている。
いつだったかのお茶の作法の稽古の時に、ユナレシアがとっておきだと紅茶に入れてくれたのと良く似た香りだ。
「ユナレシアさん……」
思い出したらちょっと悲しくなった。
すぐにまた会えるのに。
一週間前、突然放り出された時の寂しさとは、違う。
状況が変ったせいもあるが、一番の違いはミーレン自身がユナレシアを受け入れたことにある。
お互いにどこか、一線を画して対峙していた頃より、心の距離が近くなったせいだ。
ミーレンはユナレシアを頼りにしていたけれど、ミーレン自身も『ユナレシアは仕事で付き合ってくれているのだ』と言う想いが強かった。
けれど昨夜、ピリカーシェ姫がミーレンの休んでいる部屋を強襲した事件の時、ミーレンはユナレシアの別の面が見えた。
扇で叩かれそうになったミーレンを、庇ってくれた。
あれくらいのもので叩かれたところで、そんなに酷い怪我はしなかったのに。
そのぷよんとした腕を掴んだユナレシアの顔が一瞬壮絶に『気持ち悪ッ!!』と歪んだのも、一番近くにいたミーレンには見ることが出来た。
それでも、姫が手を下ろすまで、その手を制してくれていた。
言葉ではピリカーシェ姫を立てていたが、その顔は、どうやってピリカーシェ姫を追い出そうか、それだけ考えているようだった。
侍女の言葉に渡りに船とばかりによくもまあそんな思ってもいないことが次から次へと出てきたわ、とあとから冗談交じりに言っていたが、実際その時のユナレシアの口調はとにかく勢い一番で言い募り、目尻や小鼻をヒクヒクさせて、いつでもはっきりした口調なのに段々上ずって噛んで、声をところどころ裏返したりしていた。
顔には『こんなことを言うのは物凄く心外』とでかでかと書いてあるような表情。
それでも目の前のピリカーシェ姫を追い出そうと必死に言いくるめてくれた。
そして、その計画が上手く行ってピリカーシェ姫が意気揚々と去って言った後、ミーレンを見たときの顔。
一週間前まで余り表情の動かない人なのかなと思っていたのが嘘のように、その場のユナレシアの心境は最初からミーレンには全部見えていた。
ユナレシアはミーレンを見て、露骨に『うわぁしまった!』と言う顔をしたのだ。
そして何か言おうとしているのだが、言葉が見つからない様子だった。
先ほどのように口からでまかせ言い連ねればいいのに、それが出来なかったのだ。
つまり、ミーレンには嘘をつきたくないとでも言いたそうに。
気まずそうなユナレシアに、ああ、この人はこんなに自分のことを思ってくれていたのだとわかって、だから、笑えたのだ。
一度笑い出したら止まれなかった。
この二年ほど溜め込んでいた分を全て放出するように、ミーレンは笑い続けた。
そして、笑いすぎてしまったミーレンを、ユナレシアは泣きそうな顔でやさしく抱きしめてくれた。
柔らかい胸に抱きしめられて、なぜか思い出したのは節くれだった皺だらけの大きな手でミーレンの頭を撫でてくれていた、図書館掃除夫と言う職が似つかわしくないくらいに知識が豊富で体格のいい老爺だった。
血が繋がっているわけでも、小さい頃から余り笑わない、可愛げがあったわけでもないミーレンに、何故か目をかけてくれていた老爺。
怒ると怖いけれどきちんと言いつけを守れば優しく褒めてくれる。
そんなところもユナレシアとあの老爺は似ている。
老爺は、ミーレンに本だけではなく、いろいろなものを見せてくれた。
とは言えお互い城から出られない身だったので、行く先は城内に限られたが。
老爺はなぜか王族しか出入りできない、珍しい花や鳥や動物がいる温室に入ることが出来、王族のいない早朝などにミーレンを連れて行ってくれて、その博識を分け与えてくれた。
御料牧場で、家畜のことも教えてくれた。
ニワトリやウシもいたが、現在の王が無類の豚肉好きだったので、牧場にはたくさんの種類のブタがいたのだ。
桃色のや、黒と白のや、毛がバリバリ生えているのや、牙があるの。
ミーレンのお気に入りは屋内で飼われていた一番気性が穏やかな桃色のだ。
老爺は家畜を管理する夫婦と仲が良くて、ミーレンは出入りが自由だった。
夫婦はミーレンをよくは思っていなかったようだが、老爺が亡くなった後も、ミーレンが来ても見て見ぬ振りをしてくれていた。
ミーレンはついこの間まで悲しいことや辛い事があると生まれたてのブタを見に畜舎を訪れていた。
いつか殺されて食べられてしまう命だけれど、本当に可愛らしかった。
似たような境遇の自分を重ねていただけだったのかもしれないけれど。
だからもう、あの怖い顔で笑うアッシュが大好きなブタとあの醜悪な姫を同類に扱ったのは心底怒りが湧いてきて、ミーレンは生まれて初めて後先考えずに喚いて怒って人を叩いた。
叩かれる事はしょっちゅうでも、ミーレンは一度もやり返したことはなかったのだ。
抵抗すれば倍になって返って来るせいだが。
自分でもわけのわからないことを言いながら力の限り叩いたのに、アッシュは笑っていた。
叩いて叩いて、そんな動きに慣れていない手はすぐに疲れて重くなり、持ち上がらなくなってしがみ付いて怒りも極まり過ぎて泣き出したミーレンを驚くほど優しく抱いてくれた。
ミーレン自身気づかないようにしていただけで、ずっとずっと前から王族への恨み辛みなどとっくに飽和するほど巨大にミーレンの中で育っていた。
そんな思いを理解したとでも言いた気に、アッシュが最後に呟いた言葉に、ミーレンは頷いていた。
ずっと見向きもしなかったくせに、こんな時だけ利用しようとするなんてと思っていた。
でも、逆にこれはミーレンにとって、いつか老爺が言っていた『機会』だったのだ。
いつか、この城から出て自由になる『機会』それを逃してはいけないと老爺は懇々とミーレンに諭していた。
その『機会』を逃さないために、ミーレンは少しでも賢くなるべきだし、きれいな声で上手に歌を歌う、美人と評判だった母親譲りのその声を、顔を見せるべきではないと老爺は判断したのだ。
だから、ミーレンはこの『機会』に賭けてみようと思った。
外に出られるのならば、何でも出来た。
なのに、あのピリカーシェ姫がその『機会』をぶち壊してくれたのだ。
もう永遠に、死ぬまでこの城から出られないのかと諦めかけていたけれど、この話がミーレンの元に舞い戻った。
あの城から出て、自由になるのならば、ちょっとくらい殴られたり蹴られたりしてもガマンしようと思っていたけれど。
アレは絶対、ガマンできそうにない。
アッシュは適当に請け負っていたけれど、どれだけ痛いかなんて男に分かるわけがないと思う。
膝を抱えて、少し上のほうにある、長い棒でもなければあけられなさそうな窓を見上げて、その夕日色が今朝見た麦畑と同じ色だなぁと思いながら、膝に顎を乗せたままミーレンは眠りの世界に引き込まれていく。
ミーレンは、どこでも簡単に眠る事が出来る。ミーレンにとって眠る事が一番、簡単な逃避だから。
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