幸せのありか

神室さち

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第二章 恋におちたら

71 side樹理

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「一体どういう了見ですの!?」


 構内履きでなかったら、きっとツカツカという靴底の音が響きそうな足取りで、呉緒が近づいてくる。どうもこうも、さっぱりわからない樹理が戸惑いながら担任を見るが、彼女にもわからないらしく、樹理以上に混乱している様子だ。

「たった今お父様が来て、私を転校させるとかおっしゃるんだけど、あなたなにをしたの!?」

 ぽかんとした顔で座っている樹理の胸元のリボンをつかんで力任せに引き、立ち上がらせて呉緒が怒鳴る。

「ここからいなくなるのはあなたのはずでしょう!? こんなことをしてただで済むと思ってるの!?」

 呉緒の右手が高々と上げられそして振り下ろされた。


 大きな音がした割に、あまり痛くないのは感覚がマヒしているからだろうか。叩いて気が済んだのか、締め上げられていたリボンからも手が離れた。

 しばらくしてから、左頬がじんわりと熱くなってくる。


「卑怯な子。私を消してとでも氷川さんにでも頼……!?」

 気がついたら体が動いていた。先ほどと同じような音が響いた。手のひらが叩かれた頬よりも痛い。


「なっ!」

 再びリボンをつかもうと伸びてきた呉緒の手を払う。きれいに飾られた付け爪が樹理の手の甲を引っかいて剥がれ落ちる。樹理も負けじと呉緒のリボンをつかみにかかる。取っ組み合いというか、掴み合いというのか。

 樹理の母が徐々に声音を上げながら制止しようとしているが、割って入るまでには至らない。

 もみ合いの末、気づいたら体格の良い呉緒に馬乗りに圧し掛かられていた。呉緒の左手が喉を圧迫して声が出ない。その手をどかそうと両手でつかんでもびくともしない。いつの間にか、呉緒の右手にカッターナイフが握られている。それも事務用の小さなものではなく、もち手がオレンジ色の大きな刃がついたものだ。あの時これに髪を切られたのか。担任か母か。誰かの悲鳴が聞こえる。


「ちょっと髪を切っただけでどうして!? 存在が目障りなのよ!! あんたなんか私の前から消えてしまいなさいっ!」

 今度こそダメかもと目を閉じる。一体なにがどうなっているのかわからないが、呉緒が常識を見失うような出来事が起きたのだろう。なんと言っていた? 呉緒のほうが転校させられる?


「見た目に金をかけている割にはしつけがなってないな」

 なかなか降りてこない凶刃に、おそるおそる目を開けると、呉緒の後ろからその右手を哉がつかんでいた。哉のほうを振り返っているので見えないが、呉緒は驚いた顔をしているのだろう。首を押さえていた手からも力が抜けている。



「氷川さんじゃありませんの……? あの、どうしてこちらに?」


 状況を把握しているのかいないのか、呉緒の声が先ほどより三オクターブほど高くなった。


 その問いかけに応えず、哉が樹理の上にいる呉緒を横に引き摺り下ろし、その手からカッターナイフを取り上げる。



 ようやく動けるようになったのか、担任と母が樹理を助け起こしてくれた。



「全く。この期に及んで」

 ざっくりと五センチばかり出ている刃を見て哉がつぶやくように言った。

「あの、それは別に……ちょっとした小道具というか、本当に傷をつけようとか、そう言うことではなくて……」

 凶器を取り上げられて、呉緒がしどろもどろ弁解をしている。


「そう言うことではなくて? じゃあまたこういう事をしようと?」

 言うや否やの速さで、哉が呉緒の髪をひっぱって、カッターナイフを下から上へ引き上げるように動かした。ジャリジャリという音の後、ばっさりと呉緒の黒髪が切り落とされて床に散らばった。それも一度だけではない。ジャリ、ジャリっと音がするたびに、長い髪が床に落ちる。





 あまりの出来事に呉緒が固まっていたのは五秒ほどの間だが、その間に彼女の右側の髪は、あらかた切り落とされてしまっていた。それも、かなり短く。ほとんど地肌が見えるほどのところもある。


 細く小さい悲鳴が呉緒の口から漏れた。へなへなとひざから力が抜けるように呉緒が座り込む。いつの間にか応接室の入り口にいた学校長とどこかで見たことがあるような気がする男性もいたが、誰もが声もなくただ呆然としながらその光景を見ていた。


 哉はカッターナイフの刃を出したり収めたりと弄(もてあそ)びながら、涙もなく見上げる呉緒に冷たく笑いながら怖いことを言う。

「ハムラビ法典を知っているか? 目には目をというあれだけれど、それは厳密には違うんだ。同階級なら同じ罰で済むが、例えば奴隷が貴族の目を傷つけたなら、その罪は命を持って贖わなければならない。さすがに今の日本の法律では無理だからな。それくらいで許してやろう。髪などすぐに伸びるらしいが。藤原頭取もぜひ、現実的な判断を」



 ジャキジャキっとカッターナイフの刃を柄の中にしまい、ソファに投げて手についたほこりを払うような仕草をしたあと、その手を樹理に伸ばす。





「用は済んだな。帰ろうか、樹理」



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